FC2ブログ
早期退職後の生活を省みて、ものの見え方、心持ち、生き方の変化を確認しながらの日記です。人生、社会の動きにも眼を向けたいと思っています。
避競争は無努力か
 「競争に参加しない自由」は認められないのか、ということを以前にも書いたように記憶します。また、その想いが強くなってきました。
 この200年、世界中の国が資本主義・社会主義という近代化に、否応なしに、巻き込まれてきました。日本では、1853年がその始まりです。職人の名人芸は機械による大量生産品に負け、姿を消してゆく宿命を負わされました。命を刷り込んだ、全人間的作品は競争市場経済の中に組み込まれると、荒削りで、貪欲な欲望に服従した商品に卑しめられ、否定されるのです。
 より困ったことに、卑しめられるのは商品だけではありません。競争に勝てない労働力は価値を認められません。ですから、競争に参加したがらない労働力などは問題外です。強い競争参加意志を示した上で、しかも、それを通し、競争に勝つことが求められるのです。ここには、人間を矮小化し、人間性を歪めて観ているという省察はありません。労働力を利益を生む資材としか見えなくなっている事を言っています。労働力の資材化は生命の物化に他なりません。
 このように見える時代相ゆえの「競争に参加しない自由」要求です。争うことは究極の比較です。自慢・悪口、優越感・劣等感、そして、勝者に敗者、これ等は比較の結果、意識される区別、場合によっては差別です。私が敬愛する良寛さんは「比較することは卑しいことだ」と言っています。「勝ち組」「負け組」という二分別に、落ち着きの悪い、いやらしさを感じるのは「卑しいから」ではないでしょうか。
 競争に参加しない者は最初から敗者扱いです。戦う姿勢を見せ、その努力をしない者には市民権が与えられません。しかし、「競争に参加しない」のは努力したくないからなのでしょうか。そうではなく、もっとお互いに人間として大事にしたいものがあるからだとも捉えられます。それは「争い」、「分断」されることの対極にある「協働」し「融合」する姿です。「悪とは、善とは何か」の答えは出せませんが、、悪は「人と人を引き離すこと」に関係しており、善は「人と人を結びつける」ことに関係していると思うえるのです。昨今「絆」が言われる事情もこのあたりにあるのではないでしょうか。
 
スポンサーサイト



コメント
コメント
コメントの投稿
URL:
本文:
パスワード:
非公開コメント: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック