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早期退職後の生活を省みて、ものの見え方、心持ち、生き方の変化を確認しながらの日記です。人生、社会の動きにも眼を向けたいと思っています。
三つの自由 その①
 思うがままに生きたい、そう生きることは自然な姿です。のびのび、自分らしく時間と命を使ってこそ、自由人です。しかし、それが、ある時点で、不自由に感じる時が来るのです。この生活に、自分が求めているものがあるのか。己が求めているものを犠牲にして、この気ままな生活をしているのではないのか、と言う気付きです。この時に、人は思想を必要とするするのではないでしょうか。
 自分が価値とするものを実現したい。そのために、己の時間と命を使うようになる、そうなってしまう。このような生き方を誰にも保障するために、思想信条の自由、表現の自由、職業選択の自由(経済の自由)があると宣言するのが近代と言う時代です。言い換えれば、個人が生まれ持っている人間の種が発芽して、花咲かせることを、国家が妨げてはいけないと考えているわけです。そこには、かけがえのない個性を尊重する個人主義の思想があります。ここでは、それぞれの「個人」を完成させること、それが自由です。
 私達、戦後生まれの日本人は知らず知らす、あるいは、意図的に、この思想を根底に持っています。持つことを強いられた面さえあります。しかし、この自由が、またしても、不自由に感じられてきています。これが本当の自由なのかと言う疑問が魂を通じて、湧き上がってきています。少なくとも私はそうです。
 「 自由とは拘らないことなのではないか 」と言う想いです。思想と信条、これに拘ることで人は自分で居られます。捨ててしまう、妥協してしまうと個性の完成が出来ないと思ってきました。がしかし、その拘れが自らの自由を奪っていると見えてきたのです。
 また、国家が自由を奪うことを否定した近代ですが、今度は、違う価値を持つ集団や個人が自分の自由を侵すものとして、現れてくるのです。他者が自分の人格としての完成を妨害していると見えてくるのです。ここでは、お互いがお互いの不自由の元です。自由が遠ざかって行きます。
 ここで第三の自由が想定されます。というか、それがなければ人は自由になれないという切実な想い、願望です。残念ながら、その自由の正体は分かりません。しかし、言いたいことは少しあります。まず、仏教や中国古代の思想家(老子、荘子、)の思索の中に自由があるのではないかということです。江戸時代中期禅宗の僧侶に白隠さんが居ます。彼のお寺の前の花屋の娘が身ごもり、怒った父親が追求すると、返答に困った娘は「白隠さん」と答えてしまいます。先に行きたいところですが、これから、門の掃除をします。そうして、お昼、今日は、肉団子うどんを作ります。
 
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コメント
コメント
 強い者がその利害に都合よいルールを作り、それを法制化して強要する、そんなルールは結構あるのではないでしょうか。官僚政治にはその面が強いですよね。いらない特殊法人は山ほどあります。
2009/12/16(水) 14:24:32 | URL | 八角 #- [ 編集 ]
自由・・・
鶏が先か卵が先かって問題です。・・・私には答えは出せませんが、
集団社会においての自由とは、共通のルールの範囲内で行える権利!が、個々の自由の定義と認識している。
現代社会におけるルールを見直す時期に来ているのかもしれない。
2009/12/15(火) 21:44:49 | URL | シマンチュ雑話 #- [ 編集 ]
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