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早期退職後の生活を省みて、ものの見え方、心持ち、生き方の変化を確認しながらの日記です。人生、社会の動きにも眼を向けたいと思っています。
誰かを犠牲に成り立つ社会は
 「国家による殺人の正当化を否認しない限り、世界平和への願いは、軍拡の声に打ち消されてしまう」そう思う中、安保法制が提起されたのです。自衛隊員が途上国市民を殺し、報復で殺されること恐れました。
 米国のアイゼンハワー大統領は「軍産複合体」の危険性を指摘し、退任しました。それは「軍産複合体」が自己保存のために、人々の生命財産を奪い、民主主義の健全さを奪うのではないかとの懸念でした。50年たった今、彼の心配の現実化は否定の仕様がありません。ベトナム、イラク戦争は、ほんの一部、世界の市民の生命財産を奪い続けています。結果「軍産複合体」は巨大化し、昨年、米国の軍事費は6100億ドル、国家予算の9,5%を占めるに至りました。
 そのアメリカとの集団的自衛権行使を可能にするのが「安保法制」です。九条はもちろん、「われらは、世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と宣言している憲法前文にも違反しています。これが私たちの「安保法制反対」の理屈です。しかし、この理屈もさることながら「軍産複合体」が他者を踏み躙り、太ろうとする理不尽さに感じる、本能的な嫌悪が原動力ではとも気付かされるのです。
 すると、私達は同じ嫌悪に突き当たります。沖縄に米軍基地を押し付けて、自らは経済成長の恩恵を受けていること。コンビニ本部の、独立経営としながら、社員以下の扱いをして利益を上げるチェーン店支配。管理職としながら、その権限を与えずに長時間労働を強いるブラック企業。中間搾取の合法化である派遣労働法制は、派遣労働の固定化をやってのけました。
 そうして、福島原発事故です。未だ、元の生活に戻ることがない、取り返しの付かない事態です。福島県富岡町の夜ノ森桜並木は事故後も咲き続けています。その見事さには、改めて、驚かされます。きれいな町並や、桜を愛で合うご近所との語らいなど、全てを失ったことの重大さに、我々は心を配っているでしょうか。他者に犠牲を強いねば維持できない社会を、これからも続けていいのでしょうか。よい訳がありません。
 「誰かを犠牲にして成り立つ社会」それは「野蛮」です。少なくとも、文化ではありません。これを共有できないならば、我々の文化の底が見えます。「繊細な気配りを本質とする」日本文化と「他者を踏みつけて自らは太る」競争社会が相容れることはありません。教養とは、相手を尊重、尊敬する奥ゆかしい文化です。「文化」が内なる「野蛮」を教養化する社会でありたい、そう思うのは私だけではないでしょう。
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