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早期退職後の生活を省みて、ものの見え方、心持ち、生き方の変化を確認しながらの日記です。人生、社会の動きにも眼を向けたいと思っています。
黄砂東総地方にも飛来
 晴れていた午前中、散歩しました。西や北には常総台地が丘になって見えます。ところがその丘がかすんでいるのです。それも土色にです。まちないなく、黄砂ですね。
 今は曇っているんですが、空は灰色ではなく、少し黄色がかっています。夕日のせいではないでしょう。日は全く見えません。雲は結構厚そうですから。ということは、PA2,5という奴も飛来しているんでしょう。散歩を15分で切り上げました。

 今日は残念なことがありました。私の俳句を選んで頂いたのですが、全く違った句になっているんですね。多少の手直しは、気にしません。むしろ、有り難いと思うこともあります。しかし、今日は、句が鑑賞違いゆえに、ねじ曲げられているんです。

原句は   
  
       「雪景色白一色の闇となり」

 最も、自分の感じたことを素直に作れば「雪景色白一色の闇を知る」ですが、これでは散文的と

 「雪景色白一色の闇世なり」ともしましたが、少し技巧的かと思い、原句としました。

 ではどう添削して頂いたかといいますと

        「雪景色白一色の闇夜なり」

 この句は闇夜を詠んだのではないですね。白一色になった景色が白い闇に見えるという句です。鑑賞違いです。俳句の難しさです。どう表現すれば、自分が感じ取った心象を正確に伝えられるのか、俳句永遠の課題でしょうか。
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領土問題を解く
 その解は「尖閣・竹島を国連初の領土にする」突飛なこととお笑いでしょうか。確かに、童話世界の話です。
 しかし、50年前、誰が黒人の米国大統領を予言し、「後進国」の中から世界第2位の経済大国が生まれると想像したでしょうか。政治は「現実主義でなければならない」「結果がすべてだ」と言います。では結果とはなんでしょう。それは課題に対する結果であり、課題とは実現すべき「夢」のことです。
 一方、グローバル化はその色を益々、強めています。リーマンショック、欧州金融危機の生活直結を実感させられました。そのグローバル化の出発点は世界大戦だと言ってよいでしょう。
 世界恐慌に際し、列強がブロック経済化し、不況の深刻化と戦争を生んだとの反省は、戦後の自由貿易体制を確立させました。その現在の到達点であるEUは、政治統合も視野に入れています。
 グローバル化は世界の運命を一つにしました。国連が世界政府に脱皮することはそう突飛な発想でないのです。ならば、尖閣・竹島、小さくとも、国連が領土を持つことは世界の将来の姿を示すことになります。
 どう見ても、経済的に依存し合う国同士の、武力衝突による領土問題解決は現実的でありません。今さら、棚上げ論も白けます。天に返すつもりで、国連の領土にする。賃貸料を払い、島周辺の漁業権と海底開発権を日中、日韓が承認される。
 憲法九条を持つ我が国に、相応しい知恵ではないでしょうか。時代が大きく変わるとき、非現実が現実になるとは歴史の教えるところです。
道徳に点数付ける不道徳
 道徳の授業を教科にするという検討が始まっているという。東京新聞の記事だったと思います。政府だか自民党だか忘れましたが委員会がその方向で審議中なんですね。つまり、試験をやって、評価するんです。
 何かおかしいですね。理屈うまく言えないんですが本能的に、あやしいと感じます。不道徳です。少なくとも道徳的ではないのではないでしょうか。

   道徳に点数付ける不道徳



   総栽の放り投げ人にも奨め

   協調という追従を取り戻し


   済みません何もせぬのに腹が減る

   何もせぬそれでも今日も腹が減る

   死語なのに恩賜公園今もある

   迷惑を嫌い絆を語る嘘

   猛威なる自然に勝る親の愛

   携帯を妻に教える老紳士

   



   啓蟄や子等は床から早く出て
粋なお巡りさん
 父の神前に、秋田で買い求めた純米酒を供えました。酒にまつわる父との思い出があります。
 伯母の家に、低学年の弟と三人で訪ねました。夕飯となり、父にはお銚子が一本付いたわけです。そして、帰宅すべく国道17号を走っていると「検問だ」と父。
 覚悟を決め、免許証を提示しました。警察官は風船を出しかけて、引き込めたのです。「ご協力ありがとうございました」緊張がほぐれた私の「お巡りさん、お酒に気付いたよね」に父は「お前らに気付いたんだ。子供に父親がぺこぺこする姿を見せたくなかったんだろう」
 警察官は父と同年輩、自分の成績よりも、父親を尊敬し続ける子供を大事にしたのです。この精神性の高さは「人間信頼」に基があります。それゆえの寛容であり、規則の棚上げなのです。粋と言うほかありません。
 近頃、特に原発事故関係で、不寛容と硬直化した規則主義がはびこっていますね。粋を志向し、野暮を忌避する美意識の欠如が気になります。
上野公園の正式名は
 動物園や美術館が集まり、お花見でも有名な上野公園の正式名をご存じでしょうか。「上野恩賜公園」です。井の頭公園、浜離宮庭園などにも「恩賜」がつきます。
 「恩賜」とは「恩を頂くこと」。辞書によれば「頂く」とは、下賜品を下げた頭の上に頂く=高くささげることです。今でも、卒業証書を校長から受ける時の礼儀にしている学校があります。つまり、国民が「天皇から、恭しく頭を下げて頂いた公園」が恩賜公園です。
 当然、戦前につけた名前でしょう。しかし、戦後、皇室財産の多くは国有とされ、今、都内の恩賜公園は都の管轄になっています。民主主義の浸透に従い、「恩賜」は死語になりました。叙勲者などへの「恩賜煙草」も2006年に廃止、正式名から「恩賜」の文字を取ることが道理というものです。
 でないと心配なことがあります。「基本的人権は、元首である天皇の恩賜である」などと、安倍首相が言いだしかねません。自民党の憲法改悪案も「憲法は恩賜」であると言いたげです。
迷惑と絆
 「子供に迷惑を掛けたくない」は今や、中高年の合言葉です。まして「ひと様には」と思うのです。しかし、どうなのでしょう。
 迷惑を負とする生き方は、自分の弱さを恥とし、強さを他人にも課さないでしょうか。人との関わりの拒否を含んでいないでしょうか。「迷惑を掛けたくない」は立派です。しかし、実は、他人に「迷惑を掛けられたくない」とセットになっていると気付かされるのです。
「迷惑を掛けたくも、掛けられたくもない」が本音だとします。そうすると東日本大震災以降、言われている「絆」が、力のない言葉になってきます。絆は「迷惑を掛け、掛けられる関係」だからです。
 しかし、被災地では違います。「絆」は生きている言葉です。大自然の前に、人間が如何に小さく、弱いかを突き付けられました。あの日から二年、自分の周りに「迷惑を掛け、掛けられる関係」を作ってみたいと思っています。