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早期退職後の生活を省みて、ものの見え方、心持ち、生き方の変化を確認しながらの日記です。人生、社会の動きにも眼を向けたいと思っています。
介護現場の勤務実態
 JRC=青少年赤十字の部活顧問をしていた時に、福祉施設へのボランティアに参加させていただきました。職員が若く、はつらつとしていることに好感を持ったものです。職員との交流会では、公務員並み給与が保証されていると聞きました。これからは、福祉関係の就職も生徒達に奨めるべく、情報を集めようと思わされたのが十数年前です。
 その後、介護保険制度が実施され、更に、充実した質の高いサービスが老人達に提供されるはずでしたが、聞こえてくる話は悪化しているとの情報が多いのです。どうしてなのでしょうか。起きるべくして起きたと言われる群馬県渋川市の老人施設「静養ホームたまゆら」の火災事故は老人介護現場の深刻さを余すことなく現してしまいました。
 給与が安くて、きついので人が去り、寄り付かず、人材が育たない深刻な人手不足になっていることが、知られるようになりました。知り合いのと特別養護老人ホームの職員に伺ったところ、就職して三年、その間、10人が、すぐと言ってよい期間内に退職したそうです。この職場の介護士は15人です。
 この一週間の勤務予定です。

3月27日      16時  ~  24時 
                            連続18時間労働
3月28日      24時  ~  10時  

3月29日      9 時  ~  24時
                            連続25時間労働
3月30日      24時  ~  10時

3月31日      16時  ~  24時
                            連続18時間労働
4月 1日      24時  ~  10時

4月 2日      休  日

4月 3日      休  日
  
4月 4日      9 時  ~  19時

4月 5日      休  日

4月 6日      16時  ~  24時
                            連続18時間労働        
4月 7日      24時  ~  10時


 言葉がありません。しかも、夜勤と言われる16時から翌日9時までの時間帯の夜中から明け方は、50人の入居者を職員2名で担当します。この施設は認可を受けた正式の特老ホームです。もし、渋川のような火災が起きたら、全員を助けることは出来ないと、明言していました。
 
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幻の卒業証書
 26日の新聞に、授業料滞納を理由に、卒業証書を回収高校が相次いでいるという記事がありました。共産党の石井議員の指摘に、塩谷文科相は「全過程を終了した者卒業証書を授与することになっている」(学校教育法施行規則第58条)と教育委員会に指導することを約束しました。
 この記事を読んで、官僚的合理主義が人間的情を軽く見るいつものこととため息が出ました。しかし、引っかかる話なのです。というのは、本校で、2月卒業試験終了後、三年生が交通事故でなくなりました。卒業式を控え、どうするのかが、当然、問題になりました。卒業証書はどうするのか。式には保護者をお呼びして、呼名するのか。教育委員会の返答は「卒業判定会議時には既に亡くなっていた」「三月以前に亡くなっている」ことを理由に、卒業証書は授与できない、であったそうです。
 しかし、記事に従えば、全過程を終了した生徒には卒業証書を授与しなければならないのです。いつ亡くなろうとも、卒業判定会議成績資料が、必要な要件を満たしている以上、全過程を終了したという判定をしなければなりません。どうしたものなのか、考えさせられています。
新作母スペシャル
 先日、嚥下障害(食べ物を飲み込む力が衰える症状)ゆえに、守先生から「検査の結果たんぱく質が足りない」と言われた母は帰ってくるなり「ヨーグルト食べだし、今晩はいり豆腐にしよう」と言うのです。
 確かに、ヨーグルトも豆腐もたんぱく質を含んでいますが、100グラム中、3~5グラムです。そこで、何かと考えたわけです。その結果、学生時代に、安くて腹が膨れるだろうと考案した「わらじ焼き」を思い出しました。これは、ゆでたジャガイモに、ひき肉・たまねぎ、・人参をいためたものを加え、牛乳で少し煮て、水分を飛ばし、かき回せたものをフライパンで焼くのです。その形をハンバーグに似させ、わらじのようにした料理です。これを母用にアレンジしたのが下の写真です。
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 ひき肉の代わりに、細かく切ったロースハムと椎茸を使いました。ジャガイモ料理の上に、ほうれん草入りコンソメスープにとろみを付けたタレをかけてあります。嚥下障害用料理を募集します。何かあったらご連絡をお願いします。

 
フォト575  その4 散歩道の野草に見とれる
 ぼーを放して、体操、ストレッチをしながらぼーの安全にも気を遣うものですから、意外と見ていないものなのです。すみれが咲いていることに、もちろん、気付いていました。しかし、それに、注目、注視することは今までなかったように思います。
 昨日、花の色が妙に懐かしかったのです。生まれ故郷の埼玉県川口で子供の頃、遊んだ、散歩した、そして学校の帰り道で、その時間を飾ってくれた色を思い出したのです。荒川の土に沈む夕日色に染まった私の町と、夕暮れ、野原の姉や仲間を薄紫色に霞ませて、高貴だたせた野草の記憶は、しっかりと、残っていたようです。
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               野に咲きて  つつましく居り  かれん花


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  野草は、単独で、群生しません。そんな場を探しましたが、ありませんでした。数種類の草が共生して、群落を作っています。


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 干潟八万石は田植えの準備が終わろうとしています。農家は種まきを今やっていると聞きます。田植えは来月の下旬からゴールデンウイークが終わるまでです。
人に会いたくなる春三月
 年の暮れは人恋しくなります。戻れない時間を共にした人達への想いに、胸締め付けられます。人生の不思議ゆえに、人の温かさを感じたくなるのです。。そして、三月は人に会いたくなります。
 この一週間、会う約束をし、また、会いたいという連絡をいただくことが重なりました。卒業式の季節、新しい門出の季節であることとも関係しているのでしょか。昔の知人と会って、自分を確認し直し、ためを作って、飛び出そうとの準備なのでしょうか。
 過去を振り向くなといいます。これは「前向きに生きろ」ということなのでしょうが、むしろ、そのためにこそ、過去を振り返える必要がるようです。これにより、未来を切り開く構想も、力も湧き出でて来るように感じます。楽しみな日々が続きます。
義兄の楽しみ
 仕事一筋に頑張ってきた、義兄の話です。二人の娘を大学までやり、嫁がせ、息子は大学生です。持病もあり、少し疲れている兄の、三人家族になってしまった、今の楽しみは何なのか、少し気になっていました。
 先日、東京で会った甥の話では、親父はお得意様に行っては「内の馬鹿息子が」と愚痴を言い回っているというのです。「なぜだと思う」と聞きます。ヒントは、最近、しばしば、兄は甥を得意先に連れて行く事実です。
 そうです。連れて行った次に、得意先に行くのが楽しみなのです。「なんだ。あんたの息子さん、いい青年じゃないの。馬鹿だ、駄目だと言うから、どんなのかって思っていたけど、背も高いし、ハンサム、挨拶もしっかりやるし、大人とも会話が出来る。申し分ないじゃないの」思いっきり、けなしておいて、自慢の息子を褒めるだけ褒めてもらうという算段なのです。このための愚痴です。
 この話をしている甥も、怒って見せますが、まんざらではないようです。息子への、最大級の褒め言葉にして、最高の愛情表現であると思うのですが、どうでしょうか。
 

介護保険適用対象にならず
 母は要介護1と認定されました。ですから、本年度も、ヘルパーさんを介護保険でお願いできると思っていました。ところが、昨日、担当者会議(所長、ケアーマネージャー、ヘルパー、本人、家族)というのがあり、同居者が居り、仕事がない場合は、保険対象から外れると言われたのです。
 しかし、退職から二年間は、無職でも、認定されたのです。介護認定の基準が変えられた影響なのでしょうか。そこで、私が仕事を持っていたら、対象なのかと質問したところ、そうでもないようです。フル勤務の場合は認められますが、そうでない場合は、その限りではないそうです。
 では、我が家の場合です。母の生活条件を整えることはできます。しかし、衣食住がしっかり出来れば、人間は人間らしく生きられるかといったらそうではないでしょう。母は、足が悪いので、外出は出来ません。人と会うということがないのです。ですから、月曜日から金曜日まで、二人のヘルパーさんが来ることを楽しみにしています。
 「当然の判断だ」と思われる方居られるでしょう。しかし、今回の処置は、国が心をも対象とした、質の高い介護を目指していないことを教えてくれます。でも、彼われの願いは心豊かさにも配慮された、幸福感を伴う介護なのです。
 母の楽しみを奪うわけには行かず、家政婦派遣という形で、続けて来ていただくことにしました。週4日です。これで、毎月の負担は4000円から50000円になります。人間のすべてに対応が出来る介護制度からの後退は明らかです。
身体を温める幸せ
 体が冷えるので、梅酒サイダーを飲み始めたとご報告しました。そうしたら、今日の東京新聞の広告で「体温を上げると健康になる」という本があると知りました。
 「体温が一度下がると免疫力が30%下がる」そうです。確かに、身体を冷やすことが一番の毒と昔から言われています。真冬でも、女子高生がミニスカートを穿いている事を心配してきましたが、最近は、スパッツとやらを下に穿いているようです。その場合、格好が良くありませんから、ミニを穿く意味がなくなります。矛盾を背負いながらも、彼女等なりのファッションを楽しんでいます。冷やさないだけ、前よりは良いと言うものです。
 風呂・温泉を嫌う人はいないといってよいでしょう。温まることが、身体に良いと、本能的に感じるのだと思います。同時に、心にもいいと私は思っています。温まることで、体が軽くなりますが、あれは、心も軽くなっているのです。温まると、何かいいことがこれからやってくるような、うまくことが進められるような気配を感じるのです。それが困難に立ち向かう勇気に昇華していくのです。
 体が冷えるのは、血行が悪くなっているからです。と言うことは、血液が体中をくまなく充分にめぐることが身体に良いと言い換えられます。体のすべての機関・組織に血液が行き届き、酸素・栄養素、そして酵素・ホルモンを潤すことが健康で頑強な身体を維持させているということです。
 仕事と金が行き届かずに、不足し欠乏して人間らしい生活が出来ない人と、不必要に有り余って人間らしく生きられない人とに、二極化している今の日本の病理を連想してしまいました。すべてに行き届き、すべてが潤ってこその健康美です。
 
 
 



 
甥にまた教えられる
 ブログ記事を読んだ甥から電話がありました。「僕そんなこと言ってないよ」「訪問者なら誰でもリンクすることが礼儀だ」と書いたことに対してです。「むしろ、リンクする時には相手の許可を貰うんだよ」というのです。「そうなのか」恥ずかしくなってしまいました。インターネットとは繋がっているからインターネットと理解していた私は、繋ぐことが礼儀と理解していたのです。これではスマップのあの宣伝を地でやっているようで恥ずかしいのです。
 遅まきながら、勝手に、リンクしてしまったことをお詫びします。数々の頓珍漢な思い込みから、マナーを逸脱氏とことを反省いたします。
新健康法=梅酒サイダー
 我が家には父が仕込んだ十数年ものの梅酒以下古酒が有ります。酒が嫌いな私は梅酒もあまり飲まないで来ました。なのに、三年前には庭の梅で梅酒を、昨年は、イタリアンレストランのエストエストご主人の真似で、梅ワインを仕込みました。
 この二つが、邪魔にも台所の片隅に置いてあります。体調が悪い状態が続きましたので、暖かくなっても、身体は冷え切っています。そこで、アルコールの力を体が求めていることに気付いたのです。とは言え、ストレート梅酒はきつく、飲みにくい。そこで、最近、母が風呂上りに飲んでいる三ツ矢サイダーで割ってみようと思ったのです。
 これがなかなかです。甘いものでも大丈夫と言う酒飲み屋さんにもお奨めです。風呂上りもさることながら、寝る前の体が冷えてくる時間帯に飲むと効果が高いです。体が温かいということは、物事が悲観的にではなく、楽観的希望的に、感じられるようにするようです。
 今夜の楽しみは、さんまのスーパーからくりテレビ、天地人、そして、梅酒サイダー、これで温まった軽い身体です。
リンクブログの整理選択
 このブログを開設してくれた甥から「コメントが着たら必ず返事を送るんだよ。それが礼儀だから」「訪問してくれた人のブログにはお邪魔するんだよ」等々、色々とご教授いただきました。その中に「訪問者のブログはみんなリンクするんだよ」があったと記憶していた私は、その様にしてきたのですが、そうでもないようですね。
 ということで、今回は、次の基準により整理選択させていただきました。最優先の①は、昨年の11月以降、更新をしていない。 ②私の興味関心から遠い。 ③スポンサー広告が多い。
今回、130を整理させていただきました。あしからず、思って下さい。その7割が①を理由にするものでした。中には、見つからないというものも五つ六つありました。
 ①を最優先したのは、ブログ創りを生活の一部にしている同士を大切にしたいとの思いです。少しでも応援し合いたいとの思いです。
ストライキは禁じ手なのか
 ベースアップゼロ回答が出て、高木連合会長は詫びました。しかし、なぜ、この回答を天の声としてく受け入れてしまうのか、今、詫びてしまうのかが理解できません。回答が出てからが、労組の戦い本番でしょう。
 マスコミも、東京新聞3月19日社説「春闘戦術の失敗は明白」の「失敗」は、ストライキを禁じ手にしていることを指していません。。なぜなら、「各社業績の急激な悪化を考えれば、ベア・ゼロ回答などは仕方ないだろう」とも言っているからです。
 辞書には「大人しい」は「年長者らしい」「従順である」とあります。連合やマスコミの経営者側への反応は、守るべきもの放置して、年長者が大人らしく、従順に振舞っている姿です。
 これを、元総評議長太田薫さんは批判しました。1986年の著書「ストなし労働運動をブッた斬る」に「春闘は賃金抑制の手段に変質」「落ちこぼれないための社員猛烈競争」「3人に1人がその日暮らしに」とあります。優れた情勢分析でした。これに習い、ストを打ち「労働者派遣法」を阻止すべきでしたが、実行されなかったのです。その後も「大人らしく」振る舞い続け、違法派遣・サービス残業・名ばかり管理職・過労死、下請けいじめ等を許してきたのです。
 高木会長の本音も東京新聞社説と同じなのでしょう。もし、社会の安定・秩序を考えてストをしないのならそれは間違いです。スト権を行使してこそ、労使の力関係は対等になり、双方の政治的・経済的実力の均衡が保たれるのです。労組がその役割を果たすことこそが求められます。
ぼー若草を楽しむ
 今日も散歩です。町内の家並みを抜けるまでは、ぼー主導の散歩というより、ランニングです。田圃に出てからは、ぼーをまたいでリードを首に巻いてやり、頭の上から、おでこにキスして「よーし」と言って、放します。
 全力疾走する彼の後姿が躍動感がある上に可愛いわけです。私は、後を歩きながらの体操、ストレッチ、深呼吸。ぼーは四つ角、別れ道では、私を待ちます。行く先を指差すと、その方向にまた走り出すのです。なかなか利口であり、忠義者でもあるのです。私を引っ張りまわすところしか見ていないご近所は、主人を主人と思わない我が儘犬だと決め付けますが。
 そのぼーが、久しぶりに、草を食べだしました。韮のような細長い草しか食べません。良く見ると、色が黄緑に近く、みずみずしいようです。この暖かさで、新しい細胞が生まれ出でたようです。柔らかくて、灰汁が薄いのでしょう。夢中になって、相当量食べていました。このときは何時も、犬ではなくヤギではないかとの錯覚に陥ます。そして、毎日、草だけ食べてくれたら助かると、浅ましい思いにも陥るのです。
 草を満喫したぼーの満足な顔を眺めながら、ということは、また、草との格闘が始まるのだと知らされ、身が引き締りました。新しい命と時間が湧き出でる春です。

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狂気よりましな平和ボケ
 墓参りをし、父が死ぬまで悩まされ続けたという夢を思い出した。「スパイである。訓練したように殺れ」誰も応えぬゆえ、怒る下士官に父は手を上げた。「よし、お前やれ」立ち上がる父に「お前ではない。後ろの奴だ」
 工兵になった父が武器を返しに最前線に着くと、兵が食事を摂っている。父も民家を略奪したことがあるという。しかし、殺した敵の上に座って食事をするほど、日常を逸脱した狂気は理解できなかったようだ。
 先日、「北朝鮮ミサイルが日本に落ちた方が危機感を持っていい」との石原都知事の発言があった。確かに、我々は平和を享受しています。「平和ボケ」といわれれば、その通りだ。しかし、「平和ボケ」でいられることがみんなの願い・目標でないのか。国民に危機を煽り、さらに、「狂気ボケ」にまで連れ込まないで欲しいものだ。
 実は、「平和ボケ」でいるためには凡庸てはいけない。なぜなら、戦争を選択するよりも多くの労力と忍耐と知恵と、勇気を必要とするからだ。しかし、万策尽きて、究極の選択を強いられれば、「狂気」の内に死ぬよりも、「ボケ」を原因に死にたい。
「時は金なり」時間を買った?早期退職
 非常勤講師の仕事も、今日、明日で終了と相成りました。仕事の責任と、いい仕事願望ゆえの緊張感から解放されます。逆に言えば、失います。収入も失いますが、時間はすべて、他を意識することなく、自分だけの判断で使えるように、また、なります。
 ベンジャミン・フランクリンが「時は金なり」と言ったと聞きます。「時間はお大切なもの」なぜなら「時間はお金を生み出すもの」だから、「時間を無駄にしてはいけない、効率よく使いなさい」と言った意味合いの教訓でしょう。マルクスは、労働者は生産能力と生命が与えてくれる時間を資本家に売って賃金を得ている、と言いました。
 そうならば、早期退職とは、定年退職までの時間を売らずに、その時間を得られるはずだったお金で買ったということになります。「時は金なり」まさに、時間=金、だから、交換できるのです。平均的給与生活者なら一日を2万円で買うことになります。早期退職者の私は、2万円払って、自由な時間を自分のものにしている。「時間を大切にしなくてはいけないなぁ」と緊張してしまいます。
 しかし、元々は、私の命は、唯一、疑う必要がない私のものです。だから、命が生み出す時間も疑いなく私のものです。早期退職とは、命の出発点に自分を戻すだけのことです。自分と、その回りを更にして、丸裸の自分が何をしようとするのか、するのか、究極の自己表現・実在証明ではないでしょうか。
 春が来ると、命が湧き立つのでしょう。新たな勇気が背筋を起たせます。
 
確定申告税金返る
 昨日は、体調不良等で遅れてしまっていた確定申告を済ませてきました。昨年、収入が殆どないから、しなくてもいいと思っていましたら、市から、確定申告を済ませて欲しいとの連絡がありました。母が受ける介護などの行政サービスに関って、必要であるらしいのです。
 今年は、非常勤講師をさせていただきましたので、毎月収入があり、税金も1000円ほど取られていました。収入からして、これ以上取られるることはないので、行かなくてもいいのですが、昨年の例がありますので、行きました。
 確定申告相談を市がやっていて、必要な物を持ってゆくと、話を聞いて、コンピューターに情報を打ち込んで、申告書を作成してくれるのです。大分またされますが、ややこしい説明を読むこともなく、正確にやっていただけるので、有難い限りです。
 その結果、源泉徴収された10186円すべてが帰?ってくる(これが実感)ことになりました。「失礼ですが収入が少ない上に、国民保険料、各種の民間保険料がありますので、すべて返ります」とのこと。失礼なことはありません。ありがとうございます、と言うことです。
 親切に、対応していただいた渡辺さんに感謝です。なにせ、私のために30分以上も色々考えていただきましたから。まさにサービスです。やる気も親切心もない公務員イメージが作られそれに乗っかってしまっている風を反省しなければいけませんよ。
再び力となる「自然に帰れ」
 「ミミズにおしっこを掛けるとおチンチンが腫れるよ」と言われませんでしたか?「夜に爪を切ると親の死に目会えない」とも。これ等が単なる迷信ではなく、庶民の経験から紡ぎ出された知識に基づく知恵として言い伝えられてきたと、ずーっと後に知らされました。
 「夜爪を切ると・・・」は行灯の生活を思い浮かべなければ理解できません。爪切りがなく、暗い中で切ると、上手に出来ない上に、怪我をすることがあったのでしょう。そこで「親の死に目あえない」という脅しを入れたのです。
 しかし、今改めて、この「迷信」を口にしてみて思うことがあります。「親の死に目に会えない」が脅しになったんだなぁーと。現在、これが人の行動を制する歯止めとして、最も相応しいかと言えば、ほかに有るだろうと感じてしまうのです。「親の死に目に会えない、それがどうしたのぉ」そんな内心が聞こえて来るのです。
 「親の死に目に会えない」は、しみじみ辛いことなはずなのです。これ以上の辛さ悲しみはない、それが魂の自然な発露です。しかし、それよりも、もっと辛いことがある時代になっている。魂の自然を破壊する装置が社会で機能し、人々の内面的自然をも支配し、歪めている、そんな気がするのです。決して、「迷信」ではないと思います。
 11年連続自殺者が3万人を越えました。死を恐れることは、魂とは別に、本能として人間に与えられた自然です。魂はこの本能を基に、安らぐこと、意欲すること、希望を持ち得るのです。しかし、今、魂は不安、落失意、絶望色に染まり、本能を歪めるのです。魂は救われず、社会は方向性、目標を失っています。しかも、20世紀的豊かさ、強さを創り上げるために必要であった装置は危機ゆえに、凶暴性を帯びています。我々が創り上げてきた、豊かさを保証する装置が、魂を攻撃してくるのです。
 人間がその人間性を素直に表現することを許されるならば、自然に振舞う条件が与えられているならば人は良心に従って行動すると信じます。信じたいのかもしれません。それを含めての「信じる」です。「自然に帰れ」が再び時代をリードする時がきたと感じます。
大人達にこそ「ゆとり」が必要だった
 ゆとり教育が提唱された時、「大人達は、自分達の今を子供に投影している」と感じました。大人達の本心は、のんびりしたかったのですが、モーレツに生きることが求められたし、カッコイイと思ってもいたのです。なにせ、「24時間戦えますか」という宣伝文句は、実生活から生まれたリアリティーであったのですから。意識はどうあれ、身体がノンビリを求めていたとしても可笑しくはありません。
 のんびりして、弛緩している姿に「ゆとり」を感じたはずなのです。というか、憧れに近いものだったでしょう。親達が見ていたものは、正確には、「ゆとり」ではなく「つかれ」だったのです。
 多くを学ぶからゆとりがなくなる。というか、疲れてしまう。そもそも、子供達は勉強のし過ぎではないか。詰め込み教育は疲れさせるだけで、効果がない、との漠然としたイメージからゆとり教育が支持されました。学ぶことを減らすことが奨められました。
 しかし、ゆとりとは沢山あるものの中から、選ぶことが出来る時に感じる心の余裕ではないでしょうか。ゆとりとは、疲れを癒している、弛緩した姿に本質があるのではありません。夢中になっていることの中にこそあるのです。ゆとりがある者だからこそ、夢中になれるのです。
 気が付いてみたら、子供達の可能性を制限することがゆとり教育の本質になってしまいました。子供は疲れていません。学ぶ楽しさも知っています。親達は、これを励まし応援する当たり前のことを怠りたかったのです。なぜなら、疲れていたからです。
 大人達のゆとり願望は自分達に向かうべきものでした。親がゆとりを取り戻し、夢中になっれることを持ち、幸せになれば、子供はゆとれます。
 
 
国家動かす器の政治家
 西松建設に絡む小沢一郎民主党代表の進退が、今後の検察の捜査を睨みながら、取り沙汰されている。
 もし、検察の見込み通りなら、自民脱党後の小沢政治とは最大野党の「田中・竹下的自民党化」であったことになってしまう。自民党の金権体質に絶望して、脱党したは見せ掛けで、金権政治が自民党ではやりずらいから、同じことをし易い、新たな場を求めた脱党だったと総括されてもしかたない。
 「そうではない。国家100年の大計を考えての壮大な構想を秘めた大志による脱党だった」と言って欲しいものだし、そう思いたい。しかし、今回の事件は、脱党の理由を考えれば、彼が起こしてはならない事件である。というか、大志を持った者なら、細心の注意を払い、非の打ち所がない様にして置かなければならない事々ではなかったのか。それを「誰が献金してきたかいちいち確認しない」は何かの勘違いだろう。
 勘違いと言えば、政界再編を仕掛け、その中心に彼は常にいた。しかし、その成果を使って、自らが政権を握ろうとはせず、キングメーカーを気取ってきた。その不思議をどう理解したらいいのだろう。そしてようやく、民主党代表になって、総理大臣を目指し、発言をし、その時が来たと思ったら、代表辞任、下手すれば、逮捕である。
 政界をかき回してきた責任をようやく取ってもらおうと思っていたのに、それさえしてもらえないかもしれない。第一、二大政党制は一機能しだすのか?この点においても、かれの責任は大きい。小選挙区制を導入して何年が経ったのか。政治家としての大志を持っていないだけでなく、責任さえ果たせない小人物と言うことになって終わってしまうのか。国家を動かす大志をもった器の大きい政治家はどこにいるのか。国民の憂鬱は続く。