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早期退職後の生活を省みて、ものの見え方、心持ち、生き方の変化を確認しながらの日記です。人生、社会の動きにも眼を向けたいと思っています。
歴史教科書の世界が眼前に
 昨日は、野暮用で、都に出ました。食べ盛りの、金食い虫の甥っ子が一緒ですから、財布の紐を二重三重に巻きなおしました。すると、通りかかった日本橋の、高速道路を屋根にした橋に、60代半ばと思しき男性が野宿生活をしているのです。
 服装も、身体も顔も、汚れきっています。生気が感じられないほど弱っても見えます。私は彼の前を通り過ぎました。自然を装いますが、動揺を隠し切れません。このまま通り過ぎて、何もなかったように、甥と話を楽しむために、喫茶店を捜している自分に疑問を感じてしまっているのです。しかも、数時間後には、東京駅地下街で、母へのお土産と特急の中で食べる弁当を買い、甥に「兄さんと姉さんによろしく、じゃあね」と幸せそうに、笑顔を交わすだろう自分が見えるのです。
 1461年の寛正の飢饉の都の惨状を、江戸期の大飢饉の人々の叫びを伝える資料を教科書で見せ、資料を探しプリントにして、生徒達に読んでもらってきました。歴史学習としてです。しかし、それと質的に、同じことが今起きているということを目の前にして、愕然としてしまったのです。遠い昔話がここにあるという戦慄です。他の時代の他人事と、今の時代の他人事を同じに扱おうとしている自分にも怖さを感じてしまったということです。
 寄付をするとか、募金をするということでは済まされない、そんな現実があります。変わることを求められて居ると感じました。
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頑張った人を讃える暖かな姿
 今日は、WBC東京ラウンド強化試合日本対オ-ストらリアがありました。夜8時からテレビで見ました。試合の結果より、心引かれたことが、観ていて心が和み、暖かくなることがありました。
 4回裏2アウトでオーストラリアの監督がピッチャーの交代を告げたのです。コックス投手が心なしか、肩を落として退場する姿が写され、「頑張ったよ。あんたは」と心で思う私の耳が、観客からのはっきりとした拍手を聞きました。「いや、いいね」もちろん、コックス投手にも聞こえたはずです。
 なんと言うことでもないのですが、頑張ったけど、結果が出なかった人に「そんなことはない、あなたは正々堂々と戦った。それは心に残りました」とばかりに、拍手を送る多くの観衆。いい光景でした。
教育を可能にする原理
 教師に大切な資質は「根気」であるといわれます。また「生徒を信じれれること」と言う人も居られるでしょう。ならば、その根気とは何に向けられた根気なのでしょか。また、生徒を信じるとは生徒の何を信じることなのでしょうか。
 問題を起こしたり、挫折しかけている生徒を前に、必ず、確認しなければならないことがあります。それは「あんたは卒業したいのか。その意志はしっかりしているのか」です。多くの生徒は「はい」と答えます。しかし、中には「どっちでもいいよ」と言う生徒も居ます。さらに「やめてやるよ」という答えが返ってくることも有ります。ここで、教師の資質が問われます。
 「どっちでもいい」「止めてやるよ」を、そのまま受け取るのか、そこに嘘があると思うかが分かれ道です。「これはちょうどいいや」と退学に持って行くなら、根気は認められません。生徒の本心を生徒に確認させる作業に入ってこそ、根気という資質が働いていると言えるでしょう。そこに嘘を観ることが出来るなら、「誰もが今日より明日はより良く生きたいと思っている」と信じていることになります。
 生徒を信じるとは「誰もが今日より明日は良く生きたいと願い、意欲していること」を信じることです。これが「教育を可能にする原理」です。そして、根気とは「生徒がその本心に気付き、気付いたことを口にするまで待つ」根気のことです。この願いと意欲を信じるからこそ、教師には生徒を叱り、励ます資格があるのです。もし、これを信じていないで、生徒を叱り怒っているなら、それは生徒を奴隷にしている奴隷主の厳しさです。信じることが愛です。愛情のない厳しさは冷酷なだけです。
必然的合理性を教えられる
 生まれて初めて飼った犬である愛犬ぼーとの生活も、10年目に入りました。幼犬であったぼーも中年、可愛いころの面影を残しながらも、たまに、おっさん臭い顔を見せるようになりました。
 初めての散歩で、ぼーが大きい方をする時、しみじみ、そのスタイル眺めました。「そうか。こんな格好でするんだ」以前にも街で、見掛けているはずなのですが、新鮮な驚きを感じたことを覚えています。
 よく、その最中に、私の顔を見上げてみるのです。恥ずかさがなせることなのか、、見ている私の気持ちを探っているのか、それとも、やっている最中に、引っ張りはしないかとけん制確認しているのか、それとも、全部当っているのか、分かりません。今日も目が合って、その表情と、可愛いとも情けないとも見える格好を見せていただきました。
 すると、今日は「これ以外の格好はないのか」「違う格好で用を足すことは出来ないのか。それを試さないのか」との思いが浮かんできたのです。が、想像が出来ません。どう考えても、ぼーのその格好は必然的合理性を備えているのです。良く考えてみると我々の場合もそうです。世界人類、場所が変わっても、同じ人類の姿でしょう。ぼーに、必然的合理性というものを教えてもらいました。
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合法的犯罪生む犯罪的倫理
 「合法的犯罪」「犯罪的倫理」は、本来、ありえません。合法的であれば犯罪ではなく、犯罪的なら倫理ではないからです。
 しかし、化け物のような厚顔無恥が定着し、お上という覆いの陰で、隠然とうごめき、政治を私物化し、繁殖し続けています。構造改革は国民に負担を強いて、労働者を窮地に追い込み終わりました。行財政改革は担当大臣が抗議の離党をするという惨状を呈し、政界も、官界も根本的改革は放置されたままです。
 そのことは、2月19日、民主党前原誠司議員の「かんぽの宿」売却問題に関する、衆議院予算委員会での質問でも明らかにされました。「かんぽの宿」は総じて客室稼働率は7割を超えています。リゾートホテルで5割を超えれば赤字にはならないとのこと。ならば、経費を見る必要があるでしょう。
 そこで、議員は指摘します。部屋数に対する職員の数が民間の3倍、管理職があまりに多い、清掃、食事、保健衛生業務の外注費の割高、その委託簡保ファミリー企業に厚生省OBが天下っていること等です。その結果、本体の簡保事業に48億円の赤字を押し付けています。あるべき利益を加え、相当の金が官僚社会に流れ込んでいることになります。
 ここに、「合法的犯罪」を見てはいけないでしょうか。そして、これだけ、国民が、マスコミが、政治家が怒っていることを承知の上で、反省もなく、変えようともせずに、かえって、取り分を増やしてやろうと画策する官僚とその社会に、「犯罪的倫理」を認めることは穿った見方でしょうか。
旅番組、何を期待して観る
 NHK、夕時の「首都圏ネットワーク」で「渡良瀬遊水地」を訪ねる旅コーナーを観ました。題して「黄金のヨシ原を歩く」東京ドーム700個分の広さがあるとのことです。葦の刈り取りをする農家を取材し、よしず作りの様子とそのお話を聞きました。
 遊水地が造られたのは大正時代、洪水を防ぐために造られたことも紹介。魚とりが楽しい谷中湖の名も出揃いました。ここまを持ってきたのだから、足尾銅山鉱毒事件、それをめぐる地元住民たちの苦難と戦いの話を、そして、田中正造に触れるのだろうと思いました。ですが、それはないままに終わりました。
 確かに、この地方の歴史を紹介する番組ではありません。しかし、「渡良瀬遊水地を歩く」と題して置きながら、遊水地をめぐる、地域とそこに生まれた人々に刻み込まれている運命を避けて通る旅と何なのでしょうか。地域の生活の表層を眺めて通り過ぎる冷やかしに過ぎません。関心を持って、敬意を持って地域を扱っているとは言えないでしょう。
 同じこを「鶴瓶の家族に乾杯」が香川県の豊島に言った時にも感じました。あの50万トン産廃不投棄に、住民が一丸となって戦った事実に触れなかったのです。観光地としての顔を持つ島なのでイメージを悪くする、暗い話にしたくないとの配慮でしょうが、むしろ、不自然です。
 大変であった時の話を、その後の島の話を、住民に聞くことは、むしろ、礼儀であるとさえ感じさせられました。人と人との出会いや心のふれあいを大切にする番組であるがゆえに残念というものです。旅番組に何を期待してみているのか、考えさせられもしました。
大国の厚顔、北朝鮮があぶりだす
 拉致問題で北朝鮮が現わす狡猾不誠実に日本人は怒っています。人間を大切にしたくない政権ですから、それは当然です。
 クリントン米国務長官が、核問題にも進展がない中、来日しました。ですがこれについて、話の筋としては、米国にではなく、北朝鮮に分があると思うのです。
 北が言っている事は、「こちらに核を放棄しろと言うなら、そちらも捨てろ」ということです。韓国に核兵器を配備し、潜水艦からも核ミサイルを発射できる優位を保って置きながら「核を放棄しろ」はないだろう。「裸にしておいて、攻めて来る気ではないのか」と疑うことは自然なことです。
 北朝鮮が、外交カードとして、強かに、核を使っていることも事実です。しかし、核拡散防止が、既に、持っている国の核兵器を問題にしないことを前提に行われることは、やはりおかしいのです。大国の傲慢、横暴、厚顔無恥は明かです。本来は、核廃絶条約という舞台を造るべきでしょう。
 これを言える資格を持つ、数少ない国の一つが日本です。しかし、日本政府にはその見識も、外交的能力もありません。ですが、もし、国際的非力の原因が核兵器を持たないからだとして、日本が核保有を宣言したら、アメリカはどうするのでしょうか。
梅が、もう、咲いています
 今年は、もう、梅が咲いています。今年は寒いと感じていましたが、そうではなかったようです。記憶では、昨年、咲いたのは3月半ばでした。
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上の写真が昨年の3月11日撮影したものです。満開状態です。これでも、例年より、少し早かったのです。
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下の写真が一昨日、つまり、2月14日に撮影したものです。ほぼ一ヶ月早いことになります。今年は氷も張ったし寒かったと、感じていたのですが、総体的には、そうではなく、たいそう、暖かかったことになります。自然は、正確に、感受し、的確に反応するのですね。生物としての本姓を忘れ去ってしまっている人間です。
合成甘味料といういびつ
 ノンカロリーをうたい文句にする商品が売れています。多くは、合成甘味料使用です。
 甘いものを美味しいと感じるのは、動物共通の生得です。我々の命にはカロリーを希求する本能が打ち込まれているのです。それを欺く機能を与え、創り出されたのが合成甘味料です。本来なら、期待できる栄養を奪ってあるのですから、怒るのが普通でしょう。なのに、あえて、進んで、買い求めているのですから、不思議であり、もっと言えば、歪みを感じてしまうのです。
 肥満治療の薬としての使用は理解できるのです。しかし、「甘いものを沢山食べたい、でも太りたくない」という同時実現しがたい、二つの欲望を叶えさせる発明に、敬意の必要を感じません。節度を失った人間の欲求と、それに応える貪欲な企業の欲望が見えるだけです。
 そんな我が儘な欲望を叶えさせること科学の進歩であり、文明なのでしょうか。これ等はいびつです。人間の分限をわきまえて生きたい、それが私の欲望です。
国家展望がないと嘆く人に
 三原則を信条とし、内面化している人達が政府・官庁を構成していると信じました。小学校で初めて日本国憲法を習った時です。しかし、すぐに、そうではないと、気付かされました。
 それから40年、憲法を基準に状況・事件を判断し、発言すると、怪しいとさえ見られる時代になりました。例えば、ただ、情緒的に「平和を望む」のはよいのです。しかし、9条の現実化を主張し、行動に出ると、つまり、思想化すると危険な人物にされるのです。
 このような見方は、国や社会が、困難に直面すると強く出てきます。憲法通りでは困る人たちが原理を棚上げにして、無法を通します。それが労働現場で、端的に、現われたのが「派遣切り」です。正当なるゆえに危険な「不平」を言う者から切られて行きました。公立病院の廃院、高齢者医療、障害者支援変更も憲法を蔑ろにしたゆえの成果です。どんな時でも、最優先されるから原理なはずなのですが。
 現在、未来に向けてのビジョンがないとの嘆きを聞きます。しかし、そうなのでしょうか。ビジョンとは目指すべき理想のことです。軽んじられ続けてきた理想が、棚上げされ、力を発揮できないで来た原則があるではないですか。
 日本国憲法三原則を21世紀ビジョンと意識する政府を作るのです。展望がないと嘆くなら、今こそ、憲法の威力を試す時です。これに沿った政策立案を進めるべきです。そして、これゆえに生まれ出る問題を、国民の英知を結集し、解決するとの合意をを作るべきです。
久しぶりに虹が架かりました

 ぼーの散歩に出たら、少し雨が降ってきました。付いていないなぁと思いながら、歩いていると、というか引っ張られていると、次第に、西の空から、日差しが漏れ出したのです。雨は降っていますが晴れてきました。所謂、「狐の嫁入り」と言う奴です。と思うやいなや、東の空の下の方に、虹が出まし た。家に帰り着く頃には、お椀状に、きれいに架かりました。母を呼び、撮った写真を見てください。
 記憶では、ここに住んで20年、こんなにきれいに架かった虹は初めてだと思います。そう思うほど、久しぶりと言うことです。
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ストレスを諦めていませんか
 ストレス社会です。なぜかマスコミも「ストレスと付き合う方法」に関心を示し「ストレスがない社会」を求めません。これに耐え生きることが大人の条件であり、国民の義務fだと言いたげです。
 「ストレスはイヤだ」と言えば落伍者と見做されます。「戦争で死にたくない」と言えなかった時代に似ています。皆、天災のように諦めています。しかし、ストレスも戦争も天災ではありません。
 躊躇なく自動的に、構成員に負担・責任を強いてきた指導者の姿勢が生んだ結果です。「この時代、非正規雇用・リストラ・賃下げ・は当然。福祉の切り下げも道理」と、強制する以外に、工夫をしてこなかった経営者・政府が生んだ病理なのです。
 3月29日、睡眠障害に悩む社員に、相談を制度化した会社に協力、奮闘する精神科医を紹介する番組がありました。過重で不規則な労働が原因と、理解した上での会社の対応です。
 ならば、会社がすべきは医者を招くのではなく、睡眠障害を起こす原因を取り除く努力だと思うのです。不規則過重労働解消に、労使・政府は本腰を入れるべきです。国民はストレスを生きる前提と諦めないことです。
美しく生きることは愚かなのか
 麻生首相が「郵政民営化には反対だった」と答弁した時、気になる発言がありました。
 公明党議員であったと思いますが、「敵に塩を送る」ようなものと批判したことです。これは武将の美しい生き方を褒める言葉として、使われてきたはずです。ですが、世相はこの美談をも「愚か」と言い切るのです。
 「真面目」が褒め言葉でなくなっています。「あいつ真面目だからな」には侮蔑の匂いが漂います。愚直では出世はできません。利益にならない「親切」は「おせっかい」としてしまい、自粛します。募金を頼まれれば「俺がもらいたいぐらいだ」と退ける一方、応じれば、言い触れ回るのです。利益にならない行為は、真面目でも、愚かと認定するのが風潮です。
 完全失業率の定義を「働く気があるのに、職がない人の就業者に占める割合」と聞きました。正確ではありません。ここには、「はたらく」気があっても職業を持たない者が居るとの想像力がないのです。収入が伴わない活動を「はたらき」と認める見識がないのです。正しくは、「職を求めているが就職できないで居る人の就業者に占める割合」です。
 収入にはならないが、社会を支えている「はたらき」がどれだけあることでしょう。日本の精神的伝統は損得を計算しない選択を美しく、尊いと見てきました。「豊かだから与えるのではない。与えるから豊かになるのだ」貧しい者が、思わず、与えるから豊かさが生まれるのです。そして、美しいのです。獲得する行為ではなく、むしろ、与える行為が「はたらき」ではないでしょうか。そう皆が理解する社会に住みたいと思います。。
 「汝、右の頬を打たれれば、左の頬も」これも、非現実的な、教会だけで通用する説教と心得て、これを世間で実行することはしません。しかし、宗教は常識の中の非常識を指摘し、精神を揺さぶる機能を持っています。与え合うことが「はたらき」とする常識の転換が必要ではないでしょうか。それとも、美しく生きることは、やはり、愚かなのでしょうか。
若者に職業的生きがいを
 若者のホームレスが増えていることに世間の厳しい目が向けられています。企業・行政は批判されてしかるべきだと思いきや、さにあらず、批判は若者に向けられているのです。
 「中高年ではない。やる気があり、贅沢を言わなければ、仕事は見つかるはず。甘えるな」という説教です。「介護や農業の充実が急務だ。なぜ、そこに職を求めないのか」という怒りです。
 派遣労働の拡大に伴い、正規社員の求人が減りました。高校教師は、割り切れない気持ちで、非正規職を生徒に斡旋してきました。生徒は贅沢を言わずに、非正規労働者になったのです。なのに、今度も社会の都合で、介護・農業を担えと言われ、応じなければ批難されるのです。
 高校では短期間離職者増加を反省し、進路指導に力を入れてきました。その中心は収入等の労働条件だけでなく、自分の選択が適性はもちろん、生きがいや誇りにもなる職業かどうかを考えさせることでした。解雇は職業も住居も奪うから深刻なのではなく、生きがい、誇りをも奪っていることを忘れてはいけません。
 若いうちこそ、生きがいを感じられる仕事を見つけて欲しいのです。それがどれだけ人生を豊かにすることか。高知県のある会社が「あなたの夢を応援します」と宣言して求人を行い、歌手になりたいと言う社員の夢を実現したそうです。若者が職業に生きがいも誇りも夢も持てない社会が健全であるわけがなく、発展もしないでしょう。彼らを応援する大人でありたいと思います。