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早期退職後の生活を省みて、ものの見え方、心持ち、生き方の変化を確認しながらの日記です。人生、社会の動きにも眼を向けたいと思っています。
塩化シアンと亜硝酸塩の差
 伊藤ハムは塩化シアンの検出を、今も、ホームページで謝罪しています。当然のことですが、一方で、多くの化学物質を製品に添加していることも事実なのです。違和感を覚えませんか。
 ハムには使われていませんがサッカリンは発がん性ゆえに禁止されたのに再認されています。また、農水省が農薬としてさえ危険として禁止したOPPやTBZを、厚労省は食品添加物として認めているのです。食品添加物を無条件に安心と信じてはいけないと教えてくれます。
 保存料ソルビン酸、発色剤亜硝塩酸は、共に、発がん性を疑われています。更に、両者が体内で反応して、強力な発ガン物質ニトロソアミンに変わることは知られてきました。今は、民間の研究者達の再三の指摘で、亜硝酸塩の単独使用にしています。
 ハム各社はつい最近まで、混在添加を続けてきました。添加物を大量に使っていながらの大騒ぎ謝罪は、安全重視姿勢のポーズではないのかと、暗い気分にさせられます。
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補正予算の年内成立を
 今日、河村官房長官が「年内に成立させないと、中小企業が倒産するというものでない」と発言。失望させられました、危機的状況との認識がないと思わせるからです。
 と言うことは、補正予算も、実は、作る必要を感じていないのでしょう。景気対策をやっていると見せ付けるポーズとしての補正予算であり、給付金2兆円なのです。これ等に景気効果があるなしより、支持率が上がり、選挙対策になるかどうかに関心があるのです。ですから、補正予算年内成立に動くことが、民主党ペースで解散総選挙に追い込まれると見るや、成立を遅らせ、平気で、己の政策効果を殺してしまうのです。
 無駄をなくし、実効を高める政治が求められている中、滑稽な政治家の姿であります。一方、国民にとっては危機的な状況と言わなければなりません。
資本主義も限界
 1991年のソ連崩壊から17年、資本主義の優秀性を確認したと言わんばかりの新自由主義の台頭に、覚えた怖さが現実化して、今日、今がある。資本主義のおごりがその寿命をちじめてしまったとも観える。
 資本主義の矛盾を福祉社会政策により小さくし、資本主義は人が生きるに相応しい場となりだしたかに見えた。しかし、高福祉政策による高負担が国民にのしかかり、「大きな政府」の財政が切迫してしまった。高福祉が怠け者を作り、効率に欠ける社会にしているという認識が宣伝され、自己責任が市民の倫理とされた。
 現在の経済危機が金融の自由化による無秩序な金融行動の結果であると言う認識がある。が、そうだろうか。無秩序な金融行動は進んだ変化の結果だと私には観える。
 少し前は、NIES、そして今はBRICSと呼ばれる新興工業国が生産力、経済力を付ければ付けるほど、先進資本主義は上手く機能しなくなって来たのではないだろうか。貧しいままの発展途上国、いや後進国があっての先進資本主義国の発展であったということを、改めて、思い知るべき時がきたのだと思う。 
 生産力を奪われた先進国、なかんずく、米国が金融ビックバンをリードし、金融による収益で国を富ませようとした。その米国が金融危機の発信地であったことはその証拠になる。では、資本主義の下、生産力を持つ国が交代する苦しみを先進国が味わい、新興国が楽を享受する変化だけなのかと言うと、そうではないだろう。
 資本主義が内包する無限の欲望解放が先進国、新興国もろとも、危機に追い込むのではないだろうか。資本主義を捨てることを、文明の質を転換することを、存続のために突きつけられていると思う。取り返しの付かないところまで進んでしまったのにである。
 一万年、それ以上、存続してきた社会は、欲望を抑える神話や言い伝え、慣習を持っていた。アイヌ民族、アメリカ先住民、ニューギニア高地人等の文明はその良い例であろう。必要以上には取らない、根こそぎ持ってゆかずに、残しておく。食する他の命に感謝する儀式、それらを神と崇める信仰。 日本人も、実は、近代以前はもちろん、つい50年前まで、命の根っ子に持っていた、人間以外の生命や自然との付き合い方の知恵のことである。この知恵に帰る以外に、人類の未来はないと思っている。この知恵が造る生産社会でなければ、我々は生き延びられないと思う。
事実誤認を憲法は守らない
 田母神前空自幕僚長が「村山談話の正体は言論弾圧だ」と語ったと言います。部下に論文応募を強要した職権乱用者が自分を棚に上げての言いたい放題です。
 「先の大戦は侵略戦争ではなかった」は己のイデオロギー正当性を守りたいがための事実誤認です。予想するに、昭和の大戦が聖戦であったという御仁は天皇制国家主義の信奉者でしょう。もちろん、自衛隊幹部として、「聖戦」や「天皇制国家主義」を主張してはいけません。しかし、この主義ゆえに、個人として逮捕された時には、言論弾圧を言って下さい。あなたが嫌いな憲法が守ってくれるでしょう。ただし、事実誤認はその対象外なのです。
 11月12日の赤旗に、自民党安全保障調査会などの合同会議で、田母神氏を擁護する意見が続出したとありました。このことと、今度の事件は無関係ではないでしょう。麻生首相就任時の「法制御璽」を思い出せば、明治憲法寄りの、立派な反昭和憲法政党に仕上がっていると言わざるを得ません。
給付金、困らぬ人は拒否を
 国民が何を求めているのかを、未だに、理解できてない政権です。そのことを補正予算、田母神問題、定額給付金で露呈してしまいました。
 補正予算は公共事業による景気刺激策ゆえに、造る必要性を軽視し、無駄遣いになる危険性をはらんでいます。しかも、その無駄遣いは国民が、もっとも、解決を期待する政治課題なのす。にもかかわらず、補助金を食いつぶし、財政投融資を非経済的に使っている特殊法人や関連派生集団には手を付けずに居ます。一方で、構造改革と言って、地方交付税を減らし、教育・医療・福祉予算をカットする内閣が続いています。
 田母神幕僚長への腰が引けた処分は、村山談話が示した歴史認識を日本の政治指導者が教養としていないとの印象を内外に与えました。そして、印象ではなく、事実であることが、11月12日に開かれた、自民党の安全保障調査会などの合同会議で明らかになりました。田母神空幕長を擁護する意見が続出したというのです。国民の多くは村山談話歴史認識を前提にして、外交関係を築き、平和と相互の繁栄を目指しています。ぶれているのは指導層だけではないでしょうか。
 そして、選挙対策としての意味しか内包していない給付金です。景気対策、弱者救済策どちらの効力を生む武器も装備させられていない政策です。ですから、当初は選挙対策としてのアイディアだったという下世話な噂が本当だったと言われてもしょうがないのです。
 国民が期待しているのは行き詰まった時代を突き破る新しい時代像です。それを見抜く洞察力と構想力を持つ政治家です。これ等を持たない者が何度予算を作っても無駄遣いになってしまうのです。未来像を実現創造するための予算を組む姿勢と能力を持ち、表明できる政治家は居ないのでしょうか。彼が言うのであれば、国民は増税にも応じる用意をすることでしょう。
 今の麻生首相は、吉原を一日買い占めて、小判を撒いたという紀伊国屋文左衛門を連想させます。両者の違いは自分の金と国民の金の違いだけです。給付金は何の理念も効果もない遊び金です。国民はもらういわれを感じない金を手にしない矜持ぐらいは持っています。下品な行為に益があるといってなびいたりはしません。
 そこで思うのです。もらわないと困る人以外は、この受給を拒否しませんか。その上で、拒否されても国民の意思を理解できないであろう者達を、政権から追い落とそうではありませんか。
 
空缶拾い頓挫!?
 今日は驚きと、落胆の声を発せずには居れません。空缶拾い準備を進めてきたことはお話させていただいてきました。生徒に実情をしらせ、考え、行動して欲しいと、1年生地理で取り上げている最中です。
 その授業の準備のため、本日、旭市の鈴木商店さんに電話しました。アルミ缶、スチール缶の買い取り価格を伺うためです。そうすると、なんと、アルミ缶が1キログラム10円、スチール缶がマイナス5円との答え、言葉を失いました。今年の1月時点では、アルミ100円、スチール17円でした。9月、インターネット調べたところ、アルミ130円、スチール40円だったのです。
 間の抜けた話になってしまいました。これでは、生徒達への提案は根底から崩れてしまいます。生徒会本部にまず、説明しなければなりません。私としては、缶拾いをはじめることはできないと判断しています。本部役員はなんと言うでしょうか。生徒達は同判断するでしょうか。
 落ち込んでいますが、ただでは転びません。授業では、缶拾いができなくなったことを世界的規模の話として、取り上げようと思います。とは言え、挫折感はあります。
 この挫折を通じて、これから何をお前はやるべきなのかを、天に示されたような気もします。それがハッキリとしたと言う、爽快感もある不思議な感じの秋の夕暮れではあります。
 
小さなエコ、残りチョークを使う
 採用され、チョーク箱を支給された時、教師になったという実感が、嬉しかったことを覚えています。新しい、4色のチョークを入れて、毎朝、気を引き締める儀式としたものです。教室に行けば、黒板の桟にチョークはありました。私はそれを「教師のくせに、だらしないんだから。しょうがないなあ」としか見ませんでした。「人の手垢が付いた、短くて使いづらいチョークをなぜ自分が使わなければならないんだ」ぐらいの気持ちだったのです。
 しかし、普段、落ちて、つぶされて床を汚している、生徒がいたずらに投げて遊んでいるチョークを見たり、学期じまいの大掃除の時に、黒板付きのチョーク箱に入りきれない程のチョークを見ている内に、これ等を使おうと思うようになりました。几帳面な担任や日直が居るクラスではチョークが一本もないことがあり、隣の教室にもらいに行ったこともあります。
 日本では年間、何本のチョークが使われているか知っていますか。先日、ある週刊誌に載っていました。3億本だそうです。少しは無駄をはぶいている、小さなエコ、使い捨てチョーク使いです。チョークに天寿をまっとうしていただくボランティアでもあります。


本日は缶歩で18個でした。



 
自作掛け軸をいただく
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 昨日は書道の原沢さんより「退職祝い」として自作の掛け軸をいただきました。退職して2年半、間の抜けた話ではあります。しかし、私自身、2年半も経ってしまったと感じていないものですから、また、気持ちが有り難くて、嬉しさは隠しようがありませんでした。
 間延びしてしまった理由は、山頭火の句を書こうと練習したのですが、なかなか、うまく書けず、それを断念して「思無邪」にしたためとのことです。芸術家のこだわりなのでしょう。早速、私の部屋の床の間に下げました。
命の底から湧き出た「ありがとうございました」
 教師となり、生徒達に「感謝の気持ちが大切だ」「感謝の心を忘れてはいけない」と繰り返し言ってきましたが、私、心底、「ありがとうございました」と言ったことは一度もなかったのです。
 挨拶として、慣用句として、使っていました。それ以上の思いを乗せていませんでした。スーパーやコンビニのレジさんの録音のような「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」と同じ使い方であったと思うのです。「ありがとうございます」が心の底から湧き出る熱い情の発露ではなかったのです。
 しかし、9年前、一ヶ月間の姉弟4人での24時間看護も空しく父が亡くなり、葬式となり、出棺の、最後のお別れのときに、これが感謝の気持ちなのかと、初めて、感じることが出来ました。人が変わる力は理性にあるのではなく、感性にあるのだとも実感しました。
 感謝の気持ちとはなんであるのかを知ったことで、感謝への感度が高まったように思います。感謝できることが如何に有り難く、幸せなことなのかも知りました。
 11月3日は父の10回目の命日でした。死後も、幸せへの道を示してくれた父への感謝で、幸せ感に、心ときめく十年祭(神道の法事)でありました。
責任逃れと聖職の氾濫
 人と関りたくないとの思いが更に強まっているように感じます。電車の中で、すぐそこに居合っていても、無関係を築くことはもう常識に属する生活態度です。それが社会地域、職場、そして親族家族をも含み始めているのではないでしょうか。この姿勢と孤独を恐れる気持ちが同居しているところが現在の特徴であり、病です。
 人と関りたくないは煩わしいからでしょう。しかし、面倒くさくない共同はないし、社会の付き物です。組織・集団に属したくない理由の一番は責任を負うことではないでしょうか。だから、町内会に入らない、組合に入らない、生徒が部活に入らない。その一方で、人と結び付く充実感や安心を求めている我々なのです。
 気が付くと、聖職が増えたように思いませんか。元々、聖職とは神仏に関れる、人知を超えた死を取り扱う社会的分業を表わす言葉でした。しかし、今では、教師、医者看護師、弁護士、政治家、役人にまで広がっているようです。責任が重い職業を聖職としている傾向が見られます。それとも、普段偉そうにしていると見えるからでしょうか。
 しかし、社会的責任と言えばどんな職業にもあるものです。ですから、聖職と言えば全ての職業が聖職です。「聖職者」を一方に作っておいて、自分は外に安全な居場所を確保し、言いたいことを言っている、そんな日本人の姿が浮かび上がってきます。
 責任ゆえの緊張を背負いながらも、人生を楽しめる術と知恵を身に付けたいものです。そんな人材が求められる大国日本です。


本日は、15個でした。10月29日3個、30日3個、31日10個