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早期退職後の生活を省みて、ものの見え方、心持ち、生き方の変化を確認しながらの日記です。人生、社会の動きにも眼を向けたいと思っています。
カマキリが!!
 今日は卒業生の貴晃君が遊びに来ました。昼にはカレーうどんを作り、足りないようなので、そうめんも出しました。真剣に話をし、大笑いして、四時を過ぎましたので、ぼーと散歩といたしました。帰ってきて、ぼーを定位置に導き、水を飲むのを確認して、玄関に向かうと、貴晃君が指差します。その方向を見ると、写真の様子がありました。始めてみましたので、ご紹介したくなってしまいました。写真の技術、工夫に乏しいので見づらいですが、どうでしょうか。
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写真のシャッター音に驚いたのか、カマキリはセミを落としてしまいました。

今日は、一個でした。8月は197個、累計は2150個。
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農民による農業を守りたい  その②
 米の一人当たりの消費量は年に120キロから60キロ台になっています。その原因は食生活の変化でありますが、この変化は誘導された側面があります。学校給食にパンを導入したことはアメリカの戦略であったと言うのは広く知られた事実です。それに加え、キッチンカーという洋風料理を講習する政策も取りました。小麦の消費を農村にも広めようとしたのです。
 この背景には、当時、アメリカでは小麦が余っていたことがあります。。戦後の数年間はそれを援助にまわしたのですが、欧州が復興するとその必要がなくなり、行き場がなくなったのです。そこで、目を付けられた日本でした。小麦の貿易自由化を行い、安く大量に、日本に輸出する道を開きました。その結果、稲と小麦の二毛作は日本から消えて行きました。現在、小麦の自給率は15%ほどです。政府の政策で、5%まで落ち込んだものを此処まで回復しています。
 そもそも、麦は農民たちの、米不足を解消するための代用食であったのです。よく父が、夏が近づくとうどんを食べさせられたと言っていました。関西は「うどん」、関東の「そば」と言われますが、これは、江戸時代以前、先進地域であった関西では、用水路を引いた乾田が多くあったので、米の後に麦を作れたのですが、湿田が多かった関東では、二毛作ができなかったのです。そこで、うどんではなく、荒地でも育つそばを植えて、米の不足を補ったのです。関西・関東共に、主役は米だったと言うことです。
農民による農業を守りたい  その①
 食糧自給率を高めたい、できるなら100%に近づけたいと思っている国民が多数派ではないでしょうか。問題は、それが可能なのかと、可能ならどんな方法で実現するかということでしょう。
 可能でしょうし、そうしなければならないと思います。命を繋ぐ食糧を確保すること以上に大切なことはありません。極限状態に置かれた時、人間の欲求は食欲に特化するそうです。江戸期大飢饉の話を読めば、予想はできます。
 米の一部自由化を受け入れるかどうかが政治問題化した時に、日本の米は極端に高いことが指摘され、マスコミも受け入れるべきだという方向に動きました。農業高校に勤めていた私は、危険な動きと恐れ、怒りました。確かに国際価格と比べれば、高いのです。しかし、その他の商品と比べ、米が高いとは言いがたかったのです。ご飯一杯35円と計算されました。その時に、ラーメンは400円。菓子パンも80円から150円ほどしました。カップラーメンは100円でしたか。
 米は高いは、ムードだったのです。有り余っている米、何時でも、安く手に入る米、湯水のごとくと言いますが、現代は、これに米が加わっている、そんな意識の中で、日本人は生活していたのだと思います。米への敬意は失われ、ご飯を残し、おかずを食べる国民が増えていました。私の世代は、米をきれいに食べて、おかずを残してしまいます。田畑に、ポイ捨てをする人たちが目立つようになりました。そんな中での、米の自由化世論であったわけです。


本日、缶歩で1個でした。
稲刈り始まる
 稲刈りが始まりました。黄金色とはよく言ったものです。88の手間を掛けて実った稲穂は、心底、そう見えたのでしょう。私にも、命を繋いでくれる黄金に見えますから。
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 隣の増田さんの田んぼです。この方、会社員でもある兼業農家ですが、基本的に、こころは農民です。
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 皆さん、このようなコンバインを持っています。これが高いのです。やたらな自家用車より高いとか。農業機械で、運転席が車のように囲われて、クーラーが付いていているものに中には1000万になるものもあるとか。農業収入では買えません。
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 私の町に、薄日が差しています。心落ち着く美しさです。


今日は、缶物で20個、缶歩で1個の21個でした。

健康が第一!!死の不条理と向き合う
 此処のところ、母が便秘のせいでしょうか、食欲がなく、食事を摂りません。ぼーには、今までついたことがない虫が着いて、かゆくてしょうがない様子です。掻き方が激しく、終わると、息を切らせているほどなのです。これが続いていますので、私のストレスも相当なものです。
 昨日は、母の主治医さんを訪ねましたら、レントゲンを撮るのです。その上で、旭中央病院でMRAを撮ってみたら、連絡しておくよ」と言われ、益々、不安になってしまいました。
 今日は、頂いた、便秘薬・下剤のお陰で、便通はありました。それで、元気は良くなりました。それは一応安心はしているのですが。検査をどうしましょうか。健康の不安が一番怖いです。どうすることもできない性質を持っていますから。死という、生きている人間にとっての不条理由来の性質のことです。
政党の資格、授業を思い出そう!!
 桂三枝師匠が参院選に立候補しようとした時に娘さんから「パパも悪いことしたいの」と言われ、断念したと聞きます。一昨日、「さんまのスーパーからくりテレビ」で「じゃあ、政治家になるの」と聞かれた園児が「悪いことはしたくないよ」と答えていました。
 これだけ、政治と政治家が国民から信頼されないことは残念というより、健全な民主主義社会にとって、危険です。戦前、政党政治が終焉した時も、その前段階として、政治政党不信がありました。そこで、近代政治の主体である政党とはどんなものなのかを確認したいと思うのです。
 高校の「政治経済」や、大学の一般教養「政治学」で、政党をどのように教わったでしょうか。一般的には、

① 同じ主義主張を持つ人々を党員とする団体である。

② 党員が納める党費、事業収入、寄付などを自主財源として持つ。

③ 主義主張に基づく、綱領、方針、計画、政策を立案し、党大会において、議論決定する。

④ 主義政策を国民に広めるために、機関紙発行、講演会、演説会などの政治活動をする。

⑤ 政治活動により、選挙に勝ち、政権を取り、政策実現しようとする。

 このように説明されたのでしょう。そうすると、おかしなことに気付きます。それは、わが国には「政党助成金制度」というものがあるからです。現在、年319億円が共産党を除く、国会議員を有する政党に給付されています。しかも、これを4倍にするという案が自民党内で検討されているといいます。
 この制度を廃止しることから、政治の信頼回復を行うべきでしょう。



本日、缶歩で14個でした。





国家の威信は金メダル?
 国家の威信を掛けてオリンッピクを開催する、参加する。では、開催できない、参加できない、メダルが取れない国には威信がないのでしょうか、尊敬されないのでしょうか?!
 威信というと聞こえが良いですが、日常語で言えば「かっこいいし」「見栄」であり、「虚勢」とも受け取れます。今回の中国のやりように、これと近いものを感じます。日常世間は、これ等を尊敬するでしょうか?しかし、国家であると核兵器を持ち、経済成長もし、オリンピックも成功させ、金メダルを一番多く獲得した中国はすごいじゃないかと、なるのです。
 「威信」を言うものは「自信」がないのです。国家で言えば、政治理念を掲げ、それを実行し、それに近い現実を築き、国民は満足し、ゆえに支持されている、ここから自信が生まれます。最近、南米ボリビアでは政党助成金制度を廃止し、その分を障害者支援基金に当てる法案が可決されたといいます。中米コスタリカは「政治を混乱させる装置にしかならない」と軍隊を廃止し、福祉・教育を充実させました。大統領アリアスは中米紛争解決したとして、ノーベル平和賞を受賞しています。
今回のオリンピックで、ボリビアもコスタリカもメダルはありませんでした。しかし、平和を愛し、その実現に本気に取り組み、国民を愛する国家です。この国にこそ尊敬が集まる、そんな世界にしなければいけないと思うのです。高徳の人物は謙虚です。その姿の真実に、世間は頭を下げ、逆に、尊敬を示すのです。国家の威信とは発信し、誇るものではなく、謙虚に、受け取るものです。
自家製すいか、味上出来
 今日、すいかを開きました。母が「真赤で色は良い様だね」と皮肉とも、期待とも取れる言い方をします。「お塩かける?」と聞くので、「いらない」とそっけなく答えてやりました。「はいどうぞ」と持ってきた西瓜、確かに食べごろです。冷たく冷えた奴を一口、何と匂い、甘いことか。昔懐かしい匂いと舌ざわりです。さほど暑くないのに、たちまち、4切れやってしまいました。
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 なかなかでしょう。味としてはプロに負けないと思います。
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 前にお話しました「ゴウヤ」です。未だ、西日を防ぐまでに成長しません。今年も失敗でした。もう少し真面目に、農生活をしなければなりません。


今日の缶拾いは3個でした。
義家弘介氏の主張に一言
 東京新聞8月24日「私が正しい!蟹工船ブーム」を読みました。そこで述べられている義家弘介氏の意見は聞き流せない内容でした。
 「冷戦以後、弱い者が切り捨てられる新自由主義の元、頑張っても這い上がれない時代になっているのではないか」との問いに、「そんなことはない。労働が苦しいなら、そうでない仕事に就くために、今手に入れられるものは何かを考えなければならない。抜本的に改革すべきは環境よりも本人の意志」と答えています。
 彼の指導に乗り、資格を取り、「底辺から這い上がる人」になりましょう。しかし、自分が他の職業に就いても、その仕事と職場は残ります。自分が苦しいと感じた現実は、仲間を苦しめ続けるのです。これに対して、仲間を「這い上がる意志がない」と突き放すのが氏の態度です。生徒にも、このように指導していたのでしょうか。ならば、同じ元高校教諭として理解に苦しみます。与えられた社会の中で、這い上がる意志と強さを教えることだけが教育ではありません。仲間が抱える問題を共有する意志と強さもその対象でなければならないと思うからです。
 確かに、我々は社会によってつくられます。しかし、同時に、社会を変え、創って行く主体でもあるのです。仲間と一緒に、環境を変える意志を育てることも教育の課題です。この見識が義家さんから欠落しています。



昨日は、久しぶりに、隣町の旭市方面に散歩道をとりました。それで、44個拾いました。
遊べる先生
 昨日は、ソフトボール対アメリカ戦を起き上がって観てしまいました。優勝の瞬間、思わず、畳を両手で叩いていました。今回のオリンピックで最も興奮したのがこの試合です。
 すぐに、神奈川舞岡高校時代のソフト部員の一人にメールを入れました。やはり、興奮したとのこと。娘さんが「ソフトって面白いね」と言ってくれたそうです。興奮を共有できて、さらに、幸せな気分になりました。
 「全国学校レク研究大会」があり、その準備で大変な夏であったとの近況報告。大分前から、レクリエーションの研究・実践に頑張っていることは知っていました。この大会の実行委員だったようです。彼女が属するYSRSは「遊べる先生」を目指しています。曰く、「遊べる先生」とはゲームを知っているだけの先生ではありません。遊び心を持って、学校教育を再創造できる先生です。「無」から「有」を生み出すことが出来る先生です。人間関係がうまく構築できる先生です。楽しく生き生きしている先生です。
 素晴らしいですよね。自分達の理想に向かって頑張っている教師の姿が思い浮かびます。それはそうなのですが、裏を返せば、現実はそうでないとも見えてきます。素直でない、ひねくれ者の私はそう観てしまいます。
 この運動が広がることを願います。また、これを応援する気運が、PTA、地域にも広がって欲しいものです。問題は教育行政です。広がった時に、活気溢れ、改革意欲に満ちた、スクラムを組む教師集団を、今の教育委員会体質は受け入れるでしょうか。そこが問題です。
 教師の仲間意識を、そこから生まれる団結心を教育行政が恐れ、壊してきた歴史を忘れてはいけません。官僚化した教育委員会は、まずは校長・教頭を役人化してきました。今や、校長室は教育委員会の主張所と化しています。そして、一般教員も小役人として育成しているのです。言われるままに無反省に動く教員が教育委員会が理想とする教員像です。どんなに、違うと言っても、やってきたことから判断すれば、こう言わなければなりません。その結果が「YSRS」の先ほどの目標に、逆の形で表れています。
 「学校教育の再創造」「無から有を生み出す」ことを、その通りになし進めれば、必ず、教育委員会とぶつかります。教師は生徒の個性と人格を尊重するでしょう。しかし、教育委員会は教育を国家権力の再生産の場としか見ていませんから、教師の改革精神は教育委員会の改正方向とは真反対を向くでしょう。教師が「生き生きとしている」まさにそのことによって、不安になるのが小役人の習性です。


YSRSのホームページ    http://www.ysrs.org/  です。


今日は2個でした。

 
食欲は作られる
 今日は、母も、ぼーも朝食を摂らない。母は下腹が張っていると言います。便秘だと思うが本人は朝出たから違うと言います。鵜呑みに出来ないことは、もう経験済みのことです。食べるものが限られているから、どうしてもそうなります。ぼーも食べません。夏ばてか、朝から蒸し暑いからか、どうかは不明です。
 昼はそうめんを食べているので、その準備を始めました。めんつゆは市販のものを使うのですが、今日は、かつをと昆布で取りました。かつをの厚切りをぼーにやろうとしたら、勝手口の来ています。さては、臭ったか。朝出してやった、ドッグフードと肉をよそ目に、かつをを完食しました。犬でも食欲はデリケートなものなのです。それを改めて実感。
 さて、母です。めんつゆを冷蔵庫で冷やし、めんも氷で冷やすことにしました。いつもは、冷たいと身体に良くないかなと、常温で食べるのですが、今日は、ボーのことがありましたから、そうしました。が、母は昼も食べたくないと言います。どんよりと曇り、蒸し暑い天候も影響しているのでしょうか。空が低く、雲がうっとおしいい、気が重いお昼です。私も食欲がなくなりました。
まともな食品
 12日に弟の家族、16日に上の姉夫婦が来ました。こちらも食材食品を用意しましたし、姉弟も買ってきましたので、冷蔵庫が一杯なのです。整理するつもりで、空けると、「芋羊羹」が発掘されました。開けて、においを嗅ぐと、食材の臭いがするものの、すぐに、痛んでいるよう臭いにも気付きました。これは駄目だ、と思いつつ、未練がある私は、数千倍の臭覚を持つ「ぼー」を呼ぶのです。
 ぼーは、甘いもの、サツマイモ大好きです。が、少し嗅いだだけで、鼻を離します。もう一度しつこく、鼻の前に持っていくと、今度は、はっきり拒否反応を示しました。もう一度、自分でも確認し、残念ながら、残飯扱いとしました。
 産地=茨城   品名=芋羊羹   業者=蓑輪商店    原材料=さつまいも、紫芋、砂糖、かぼちゃ、食塩、寒天     趣味期限=08,8、14     とあります。ということは、買ってきたのは弟です。今日が、20日ですから、賞味期限が過ぎて、6日。あの臭いからすると、ぼーも二日前だったら、食べたかな、という感じです。と言うことは、賞味期限を4日過ぎてまでが、食味期限だったと思われます。
 スーパーで買う、加工食品の食味期限は賞味期限を2週間過ぎても終わりません。牛乳は10日大丈夫だったこともありました。ハムなどはもっと大丈夫です。パンも丈夫です。しかし、この芋羊羹はひ弱です。その訳は食品添加物を一切使っていないことにあるのでしょう。皮肉なことに、そのひ弱な食品を食べた方か丈夫になるのです。
 今度、弟が来るだろう11月2日(父の命日の前日)、蓑輪商店の芋羊羹を買ってきてもらいましょう。今回は蓑輪商店さん、ごめんなさい。
 
惰性のまま走り続ける
 18日、千葉東総地方から、高速道路で東京へ向かいました。前回の半年前よりすいていると感じました。現に、目的地江東区新砂までの所要時間も、以前は8時55分着のところ、今回は8時44分でした。
 高速道路がすいている一方、一般道はひどい渋滞。やはり、ガソリン価格高騰ゆえ、高速料金を節約しての現象なのでしょう。しかし、気になったのはそのことではありません。ガソリンが上がり、苦しくても、あれだけの車が走っていることです。「当たり前だろう、仕事があるのだから。」仰る通りなのです。何があろうと、皆、仕事をして、お得意様に迷惑を掛けずに、普段どおりを維持しなければなりません。その結果、己の生活も維持できるのですから。それは百も承知です。でも、その上での「でも」なのです。
 エコを言うのは、安全で、心地よい環境を維持したいからだけでしょうか。そうではなく、もっと総合的に、将来を安心したいとの、みんなの想いがあると感じるのです。その眼で見ると、安全な空気・水・土壌・農産物・水産物に加えて、エネルギー・鉱物資源のことも考えなければなりません。
 18日、10チャンネル午後8時からの「Qさま、能力検定プレッシャー学力試験」で、「次に中で、2050年以前に、採掘できなくなる資源を選びなさい」一つだけ枯渇しない資源があるのです。それを選んだらクリアーにならない、というテストがありました。電話がかかってきて、答えを確認できませんでしたが「物質・材料研究機構」の原田幸明さんの研究を元にした出題でしょうから、仲間はずれは「石炭」だと思います。他はすべて、枯渇するとのことです。そうなると、資源を奪い合うため起きる戦争という、最も安全を脅かす事態の回避に向けての努力も必要になります。
 この現実を前にして、我々がなさねばならないことは、そう簡単ではありません。今まで、築き上げてきた 「当たり前」 や 「普段通り」 を維持する努力をやめ、これを根底から覆す変化を意欲しなければならないからです。高速道路を緊張し、飛ばし続けて、豊かで、快適な消費生活を維持するたけに頑張っているトラックや車の姿は我々の文明の象徴に見えます。走り出してしまった惰性で、走り続けるています。しかし、このまま、走り続けるにことに不安がないといったら、嘘を言ったことになりませんか。不安を感じながら、これでいいのかと疑問を感じながら走り続けることは健康なことではありません。
 麻薬を、というか、もっと、身近なタバコを止めなければ病気になると不安に思い、恐れながら、でも、その知ってしまった魅力に執着している人の姿は、今の我々の多くの、文明執着のそれです。安全・快適・豊か・自由を享受してきた私達が、それゆえに、危険・不快・貧しさ、不自由にまとわり付かれて居ることに気付かされてしまいました。それでも、このまま「普段通り」をし続けるのでしょうか。この惰性は不健全だと思います。
 
 
逆効果都バス車体広告
 今日は、三ヶ月に一回の母の定期診察の日です。朝7時に、東京は江東区の順天堂高齢者医療センター(もちろん、「後期」 は付きません)に向けて、出発しました。
 診察を終え、薬をもらうために、駅前の薬局で待っていると、都バスがロータリーに入ってきました。大分驚き、興ざめしてしまいました。バスの車体一面に、大きく、どぎつい色で、焼肉やさんの名が幾つも書いてあると思ってください。眼線が錯乱、紙くずが飛び交います。
 地下鉄やJRの車両も広告を背負って走っています。その車両にいたずら書きをする事件が報道されましたが、ならばこれも「事件」でしょう。美しい町並み・景観を財産と考え、守ろうと言う時代に、首都を走る、その都が運営するバスが景観を壊すゴミを振りまいて走っているのです。この感覚が分かりません。落書きが良いわけが無く、広告とは違います。しかし、田舎から出てきた者にとって、あの広告もいたずら書きもこころ乱すものであると言う点では同じなのです。
 落書きが醜悪なら、車体広告は醜態です。経済合理性を追求することが最高に理性的であると信じて疑わない軽薄さをさらけ出して憚らないことを言っています。まずは、こうしましょう。この焼き肉屋さんで食事をするのは止めましょう。



本日は、学校に野暮用に行った帰りに6個、散歩で、2個の8個でした。
すいかを収穫しました
 放るだけ放って置いた畑に、二つのすいかが生りました。先ほど、「ビックハウス」というスーパーで同じ中玉すいかを叩いて音を聞いてきました。帰るなり直ぐに、畑のすいかも叩いて見ましたら、同じような音がしましたので、収穫を決心しました。
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 畑に生っていた状態がこれです。一人前に見えるでしょう。周りの草に負けまいと、高く上にも伸びていました。
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甘く匂うのでしょうか、ぼーが呼ぶ前に、自ら、写真舞台の方にやってきました。今日は涼しいので、食欲があります(現在、16時半、29,8度です)。今日はあんたは脇役ですよ。IMG_0378.jpg
大きさはこの程度です。冷やして、明日食べます。味を紹介出来ないことが残念です。甘くなくても甘いと、書くことが出来ますから。


今日は「缶物」帰りに、11個でした。「缶歩」で1個の計12個。
個人の良心が国家の良識にならないのは、なぜ?
 日本人の多くが気付いている国家の我が儘に「核兵器を保有している大国が持とうとする国を批難し、脅す」があります。国家を個人になぞらえれば、こんな我が儘は批判されるでしょう。生徒が行えば、まともな教師の全てが、指導の対象とするに違いありません。社会人であれば、信用を失い、相手にされなくなるでしょう。
 しかし、その我が儘を、恥じることなく、主張し、やってのけるのです。その問題児が世界のリーダーである現在を、そんな問題児だからこそリーダーになれる我々の時代を、後世の歴史書は「野蛮な理性全盛期」とでも呼ぶのでしょうか。中世、小人が領主や代官である地は荒廃しました。その例に漏れず、厚顔無恥な大国が力を持つ現代世界は、歴史上、最も、荒廃した時代になってきました。
 高い人格を持つ人物はその徳を行動に表わします。その個人が一国のリーダーになっても、国家にその人格・品格が乗り移らないのはどうしてなのでしょうか。この疑問を解かないで居続ければ、22世紀は訪れないと感じています。「野蛮な理性」の時代を終わらせ、「誠実な理性」の時代を切り開くポイントは、きっと、「個人の良心を国家の良識にする] ことに掛かっています。
ロシアは TAC(東南アジア友好協力条約)を守れ!!
 「東南アジア友好協力条約」をご存知でしたか。私、知りませんでした。ASEAN加盟国が、「紛争の平和的解決」などを決めたバンドン十原則に反し、ベトナム戦争に参戦(タイとフィリピン)してしまったことの反省から、1976年に、締結したといいます。ASEAN10各国に加え、2003年に、中国・インド、2004年に、日本・パキスタン・韓国・ロシアが加入、現在、計25カ国になっています。ちなみに、北朝鮮も入っています。
 この条約の前文は「世界の平和、安定および調和をいっそう促進するために、東南アジアの内外全ての平和友好国との協力が必要」と言っています。それを踏まえ、第二条では「武力による威嚇または武力の行使の放棄」を明記しています。この特徴は、対決よりも、協力を優先し、武力ではなく、話し合いによる紛争解決による戦争防止を追及していることです。
 これを知って間もなく、「ロシアがグルジアに侵攻」とのニュースを聞きました。グルジアが南オセアチアの分離独立を抑えるために、武力を使ったこととは言え、武力を行使した時点で、ロシアはこの条約に違反しました。調停にも応ぜず、NATO議長国フランスの調停に、しぶしぶ、応じましたが、ロシア軍は撤退の動きを見せていません。その名目は「治安維持と人道支援」です。侵略者はいつも同じような正当化をして、兵隊を殺人者にします。
 条約を守らないことは、それこそ、世界の「秩序維持」に反し、信頼と安心の拠り所を世界市民から奪う行為と言わなければなりません。ロシアは直ちに軍を引き、話し合い、交渉の場に着くことことです。それがすべての人間に共通の道理に従うということです。
 
敗戦忌  命は使わず置いておく
 敗戦の日です。63年前も晴天、これぞ夏という暑い日だったと聞きます。今日も、うだる様な猛暑日、しかも、祖先の霊と向き合うお盆なのですが、それでも、働き、何かしていないと居られない日本人です。そんな我々を尻目に、愛犬ぼーは動こうとしません。穴を掘り、その身を沈め、揃えた前足の上に顔を乗せて居ます、その姿は、可愛いく、癒されるのですが、増して、異質な魂を感じさせ、心惑わせるのです。
 そのぼーを見ていて、ふと 「敗戦忌  命は使わず置いておく」 がやって来ました。 国体維持、国家総動員運動、大東亜共栄圏実現、これ等を目的とし、追いまくられて走らされている内に、気が付いたら、家族も財産も奪われていた。その果ての「敗戦」だったのではないでしょうか。
 「我を忘れ夢中になる」と言います。これは、目的目標を持つことに最大の価値を置く人には、褒め言葉でしょう。しかし、心を見詰め続けること修業とする人には迷いです。しかも、目の前の役割、目的、使命に集中している時は、大きな流れ、人を超えた天運に気付けません。「天」 そんなものはないと思うことでしょう。
 「命を使わず置いている」ぼーを見ていると、その姿が「永遠なるものにつながっている」ように見えてくる時があります。「命を使わずに置いておく」と自分の存在だけが気になるものです。その時の対話者は「永遠なるもの」です。現に、ぼーは、時々、この世ならぬものを見ている風を見せます。カマキリ以上に哲学者、あるいは修養者に見える時があるのです。その姿は人間より、真理に近づいています。今度、その時の写真を撮りたいと思っています。


今日も買い物の帰り、10個でした。缶歩で4個。計14個でした。
出世は災難=江戸落語の世界
 高校時代「次の授業が始まるまでに、答えを黒板に書いて置くように」と数学や物理の先生に指名されると、その日は、決まって、寄席に足を向けまていました。
 お気に入りは人形町末広亭。制服姿で入ってゆくと、そこは、落語世界と同じ色の、ご隠居達のご町内でありました。ご老人が火鉢の前に呼ぶので、「学校はどうした」と説教されるかと思ったら「当んなよ。落語好きかい。学校なんか、此処の方がよっぽど勉強になるよ」客席も高座も、私には、同じ落語世界に見えました。
 寄席の中には、未だ、江戸の庶民文化が息づいていました。「そんなに勉強して出世したらどうすんだい」「偉くなる、そんな災難だけは御免こうむりたいね」 またもまた、意外な人生観に、こころが動かされ、迷わされ、引き付けられるのです。
 「出世が災難」 職人達は自分の人生の正しさに確信を持っているのでしょうか?力、金、名誉がなくっても、今の生活が一番と疑わないのでしょうか?それとも、届かぬ世界に対して、今を肯定するしかないゆえの強がりなのでしょうか?
 力、金、名誉を手に入れようと、受験に備える場に身を置きながら、本気になれないで居る自分をもてあましていました。寄席に行くと、落語世界に生きる職人達の見識に共感する美意識を自分も持っていたのかと思わされました。一方、目の前の苦しさから逃げ、人生の落伍者になろうとするのかという声も聞こえて来るのでした。
 あれから40年、一つの仕事を終えた格好になっています。その今、職人達が「出世は災難」と言った真意を次のように理解しています。・・・・・・・・「権力や金力、名誉を手に入れると、凡夫である自分は見えるものが見えなくなってしまい、真心を持って、まっとうには、生きられなくなるだろう。誠を持って生きられないのは災難である」。もちろん、正解は分かりません。



今日は旭の「カスミ」で買い物。帰り道で、20個拾いました。20個「缶物」しました。
父怒る、ぼーを合葬の話
 一昨日から、ぼーが食事を摂りません。昨日から来ていた弟が「ぼーが吐いた」と言うのです。心配しながら、犬が大嫌いだった父を向かえにお墓に行きました。
 ぼーも8歳と8ヶ月、人間で言えば50歳代です。「あと何年生きてくれるかね。死ぬ時のことを想像すると寒気が起きる。犬に葬式はないよね。でも、火葬はしてやろう。」「どこに埋めるの。」「庭かな。否、お墓にお父さんと合葬しようか。(自ら大笑い)そんなことしたら、死んだ後も親不孝をするかと怒るだろうな。」とさらに大笑い。
 ぼーは「散歩行くぞ」と言った途端に、いつもの大騒ぎ。結局、ただの夏ばてと判明しました。今、掘った穴にうずくまって可愛く寝ています。その姿は星野ジャパンがキューバに負けても、「私には、これが有るさ」と思わせるに十分な喜びを、充実感を与えてくれますです。ぼーは、今や、趣味のいい「趣味」です。
 「やってくれた」と「やった」
 オリンピックが始まりました。競技のゆくえよりも、平和のゆくえが気になる大会です。
 しかし、嫌でも、情報は入ってきます。アナウンサーが「金メダル、やってくれました」と興奮気味に伝えます。一方、出場経験者のゲストは「やりましたね。すごいです」この差が気になりました。
 「やってくれた」は「業績を讃える」のではなく、「期待に応えたことを褒める」心理を表現しています。マスコミや世間は、勝手に、期待し、注目している内に、応援ゆえにか「期待」を「義務」に変えてゆくのです。その義務を果たしたことを褒めているのが「やってくれた」です。優勝したこと自体に、心を向けている「やった」とは違うのです。
 期待される本人が、応えることを義務とすることはよいでしょう。しかし、他者であれば、美しいとは言えません。「期待=義務」心理は、失敗を「裏切り」と理解する者達を生みます。なるほど、「やってくれた」は失敗した時にも使います。メダルを取れなかった選手を批判したり、おとしめたりする悪意を助長する「やってくれた」報道です。


昨日は一個、今日は墓参りの帰りに9個でした。
「缶歩」に加え「缶物」
 ここ久しく、「缶歩」で拾える缶数は一桁です。二桁拾えるのは、買い物等家事にまつわる外出の時に限られてきました。
 一昨日から、母が食欲がないので、好物の「ねぎとろ巻き」をと思い、旭の「カスミ」に買い物に出て、今帰ってきたところです。その道すがら、空き缶を拾いました。21個です。目に付いたもの全て拾ったら、100個前後になったでしょう。拾いながら、「ここのところ、買い物に出ると缶を拾っているなあ」とつぶやくと、「缶物」という言葉がやってきました。 「缶を拾いながらの買い物 」 これを 「缶物」
と言う。なかなかの造語と、浮き浮きしながら帰って来ました。
 「缶歩」と「缶物」  なかなかです。すでに、マイ・コンピューターは「かんぽ」と打つと、そくざに「缶歩」と表示します。「缶物」はどうでしょうか。あっと、すでにこれも覚えたようです。後は世間の方々が覚えてくれ、始めてくれるかどうか?です。


昨日は、お通夜の帰り道で20個。今日は、今のところ21個です。
学校を活性化する職員会議採決
 先生方は、はつらつと、仕事をしているでしょうか。その様に見えない昨今であります。理由は多忙化等、様々あるでしょうが、職員会議が問題であるとに間違いはありません。
 職員会議で、先生方は決定したことを確認する質問はしますが、反対意見を言うことはもちろん、懸念を示すことさえ、少なくなってしまいました。それが憚れる、それを許さない空気の学校もあるのです。職員会議の墓場のような静けさは不気味であり、現場の不健全さの現われとなっています。都立三鷹高校長が「挙手・採決禁止通知」を撤回するよう求め、公開討論を提案するほどに、深刻なのです。というか、他の多くの県では、とっくに、採決は禁止されています。
 なぜ、県教委は採決をさせないのでしょうか。それは、理念ゆえに、独自の構想を持つ人物を管理職に登用しなくしたことと、校長の裁量権を奪い尽くしてきたこととの3点セットになっているのです。構想力がない校長は県教委の方針・施策に従うしかありません。たとえ、志ある校長がいても、裁量権を奪ってあります。これにより、校長室を県教委の主張所にすることに成功したのです。しかし、職員会議での採決による多数決が最後の最後で県教委の目論見を台無しにしてしまうと言うわけなのです。その一方で、県教委は特色ある学校創りを指示していますと公言するのです。
 採決することの大切さを次のように理解しています。まず、挙手を求めることは、責任を意識させ、意見を固めるために真剣に討議参加する姿勢を促します。だから、第二に、議論が成立し、原案に吟味が加わり、修正意見や反対論を引き出します。双方の意見の、利点と難点が参加者全員に意識化されるのです。第三に、これが、どちらに決まっても実施の際に、良い結果をもたらします。議論の充実に比例し、決定事項が尊重され、案が生かされるように先生方が働くのです。最後に、このような会議が教師の基本的姿勢を学ぶ最高の場になるというわけです。
 「安全なところに身を置いて、当事者を笑ったり、気楽にものを言っていてはだめだ」「民主的とは、皆が校長と思い、考え、行動することだ」「担任は生徒が救われるように、発言し続けるものだ」等、教わりました。
 本心をさらけ出すのも、採決あってのこと。本音の言い合いは職員間の理解・信頼と一体感を高め、職場が大切な生活の場と意識され、教育の質を高めるのです。



本日は1個でした。
生野菜沢山食べられるドレッシング
 4日、下の姉の長男健史と御茶ノ水で待ち合わせ、三省堂で本を買い、銀座に行きました。買い物をし、東京駅から「しおさい号」で、そのまま、我が家に行き、二泊して、今日帰りました。
 昨日は、放置してしまった畑に、トマトは大きな実をつけ完熟しましたので、それを甥に摘ませ、冷蔵庫へ。冷やして、夜、レタスとで生野菜サラダを作りました。ちなみに、メインは焼き飯、餃子スープに水餃子にしました。サラダのドレッシングは市販のゴマドレッシングですが、あるものを混ぜます。これはエストエストのマスターから教わりました。何を入れるのでしょうか、考えてください・・・・・・・・・・・・・・。それは   「牛乳」   です。マスター曰く 「市販のドレッシングはどろどろしていて、上にある野菜にだけ付いて、下の野菜を食べる段になると、ドレッシングがもうない、ということになる」 レストランでも、よく経験することです 「しかも、少し塩分が強いので、薄めて使おうと思ったのです。一番良いのが、ゴマドレッシングに牛乳となりました」と説明してくれたのです。
 これお勧めです。私は「明治のおいしい牛乳」を使っています。どのゴマドレッシングにするかはご研究を。レタスを沢山食べられるので、便通も良いようです。トマトが苦手な人も、ゴマドレッシングゆえに美味しく食べられると思います。野菜は出来れば、生で沢山食べた方が良いようです。生野菜には多くの酵素が生きているからだと聞きました。煮込んだ野菜には酵素が少ないそうです。ただ、沢山食べられることが良い訳なのでしょう。
 ということは、ベストは生野菜を沢山食べることとなります。そのためのゴマドレッシングです。薄めますので、カロリーも控えめになります。牛乳との割合は牛乳1にドレッシング4です。が、好みでしょう。明日の朝もゴマドレッシングサラダが食べられると思うと、幸せな気分になります。


昨日は買い物の帰りに5個でした。
自己責任論=強者のために弱者を用意する社会
 昔と意味が違ってしまった「ことわざ」が増えていると新聞にありました。「情けは人のためならず」もその中にあったように記憶します。
 「終わりよければ全てよし」とは、途中、失敗したり対立があっても、最後が好ければ、帳消しになるという意味でしょう。しかし、自己責任論のために「自分で身を処し、後始末をし、迷惑を掛けずに、人生を完結すること」と意味を変えて理解され兼ねない状況にあります。
 障害者が苦しいのは、今も変わりません。その原因の一つが「迷惑を掛けたくない気持ち」という指摘があります。それは、健常者の「障害者は迷惑になる」と裏腹の関係にあるでしょう。一人で生きてゆけない場合、迷惑を掛けてもいいのです。この了解がされている社会は安心です。誰でも障害者になる可能性があるし、老人になるからです。
 一人ひとりが自己責任で生きる状況が政治、経済、そして心理的にも非合理で、苦しいからこそ、社会を形成してきたはずなのです。もし、自己責任論を徹底すれば、社会は不要になります。それを承知の上で作る、自己責任を徹する社会は強者のために弱者を用意することを目的にしていると言わなければなりません。いま、自己責任が流行です。この論者の一番の主張は、「大企業の多くは自己責任を果たしているが、その他は、その姿勢と意欲に欠ける」であります。
 しかし、それがまやかしだと、皆が気付いています。大企業が自力でやってゆけるのは、その様に政治を動かすからです。政治がそれに応え動くからです。非正規社員が農民漁民が、下請け関連企業がやってゆけないのはそれがなされないからです。
 「自己責任論」の目的は強者の、その地位の恒久化でしょう。ですから、弱者の固定化も必要になります。この固定化の論拠としての自己責任論です。「弱者は、意欲も能力もなく弱いから、貧しい」というそれです。
 これに連なる者達が、私には、政治家、官僚、マスコミ、大組合幹部の多数であるように見えてなりません。国民の多数が「これに連なる者」になる愚を犯してはなりません。荒削りな見識は円熟社会に似合わないのです。