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早期退職後の生活を省みて、ものの見え方、心持ち、生き方の変化を確認しながらの日記です。人生、社会の動きにも眼を向けたいと思っています。
地球を守る=地球を壊す
 よく、エコを論じる時に「地球を守る」と言うのを聞きます。これに、違和感があるのです。我々が「地球を守る」のではなく、実感は、我々が「地球に守られている」だからです。
 今の農民は米を一反で「10俵取った」と言いますが、「10俵いただいた」と、昔気質の百姓なら話すでしょう。大雨を想定して、欄干を造らずに橋を守る沈み橋。洪水には勝てぬと、激流がぶつかる部分には端から、堤防を作らず、そこから、一度、激流を遊ばせて、また、本流に戻す仕組みの「信玄堤」。これ等は地球・自然の方が大きく、自然が人間を包み込んでいるという認識が生む知恵です。
 いま都会で生活していても、冷静に観察すれば、生まれ生きているのではなく、生んでもらい生かされていると見るほうが事実に近いと見えるはずです。「地球を守る」という意識では、地球は守れないでしょう。「地球という命に合わせて生きてゆく」という思想に変わらなければ、我々は自分を守れないでしょう。我々には地球を守る能力を与えられていません。自分を守る力さえ、充分に、与えられていないのですから。その証拠に危機感から「地球を守る」と言い出しているではありませんか。


昨日は42個、今日は拾いませんでした。3月448個、今までの累計1264個
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溺愛と冷酷が同居
 8歳になる「ぼー」のえさを買いにペットショップに行きます。ショーケースのブランド犬を見るのが楽しみです。
 でも一方で、数頭の犬にほえられ心苦しくなるのです。ケースに入れない程大きくなっても買い手が付かず、今では、ガレージにつながれているワンちゃん達です。彼等も入れ替わっています。飼い主が決まっての結果なのか、それとも。後は怖くて聞けません。
 田んぼの畦道を散歩していると、野良犬を見かけます。生まれたばかりの子犬子猫がダンボール箱の中、かぼそい声で親を呼ぶのを聞きます。その上、業界がペットの、その命の在庫処分をしているとしたら、後ろめたさを覚えるのがあるべき感性というものでしょう。
 溺愛と冷酷のアンバランスな同居に、人間の勝手を感じます。「愛の対象」を売買することに抵抗感を失ってしまった我々に、ふと、驚かされます。せめて、最後まで一緒にと、今日も、スキンシップです。
ぼーは美しい、犬馬鹿で済みません
 愛犬を可愛いと何方も思うでしょう。私は、美しい、優美、優雅だとさえ感じることがあります。田んぼ道を疾走している「ぼー」の姿は優美です。「馬が走る姿が好きだから、競馬場に行っている」というギャンブラーは半分本当のことを言っているのかもしれません。
 お座りしている姿は優雅であります。特に、女の子座りをしている彼は少し色っぽくさえあります。IMG_0039.jpg
上の写真がそれです。左足を折っているのです。その関係で、右足を右に出しているの図です。
 正座している時の端正な姿は、良家のお坊ちゃまを思わせます。まさに、「坊」なのです。その写真を次に並べてしまいます。「付き合っていられないね」と言わずに、まずは、素直に見てください。IMG_0234.jpg
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キャベツが始めて収穫できそうです
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 夏のキャベツは、無農薬ではまず出来ないだろうと、冬キャベツに挑戦しました。小鳥に、啄ばまれてなかなか、大きくならず、葉が巻きだしませんでした。しかし、この春の陽気に、鳥達の食欲よりも、キャベツの成長する力の方が勝ったようです。
 母が待ちきれずに、今日、一つ収穫してしまいました。写真を見てください。ご覧の通り、まだまだ、巻きが足らない未熟物です。だからこそ、弱弱しさが愛おしい、薄きみどりです。
 私より数段腕が良かった父も、農薬を使わなければ作れなかったキャベツです。もしかしたら、一人前のキャベツに成長するかもしれません。また、この後をご報告させていただきます。
北京五輪不参加と憲法九条
 チベットは民族・文化・歴史からして、一国を為して自然な地域です。しかし、中国人民解放軍が、その名に反して侵攻しました。
 現在、この矛盾が、反政府行動に対する武力弾圧により、世界に示され、北京五輪ボイコットが論じられています。しかし、日本は立場を明確に示していません。
 武力侵攻に対して、一番敏感に反応すべきは、日本政府でなければなりません。なぜなら、憲法9条の軍隊を無くすと言う理想実現は、各国に武力侵攻をさせない環境創りにかかっており、この政策を政府は求められているからです。
 福田内閣は、直ちに、中国に武力弾圧をやめるように、事実を明らかにし、チベット代表と、対等真摯に、交渉するように求めるべきです。その上で、中国政府の対応いかんでは、北京五輪不参加も表明するべきだと考えます。



本日は、缶拾い45個。
てんとう虫の冬眠の場所は
 荒れてしまった畑を回復しています。たかだか、30坪ほどに過ぎません。これで、現在の40坪とあわせて70坪で今年は野菜を作ろうという算段です。
 鍬を入れ入れ、1時間もやったらふらふらになります。オーバーではありません。腰はちじまってしまい、しびれがきます。はああ#~と、腰を押さえ、伸ばそうとしますが、固まってしまっているので、これも痛た苦しいわけです。 
 そんな作業の中、土を起こしたら、てんとう虫が眼に入りました。「あれ、土の中に居た?」そう見えました。ってことは、てんとう虫は冬眠し、その上、その場所が土に中である、と言うことになります。てんとう虫が冬の間、どうしているのかと、想いが至らない、というか、存在していることが意識から消えています。そのてんとう虫が突然現れ、その生活を、照れることもなく、披露するので、面食らってしまいました。その上に、新しい知識を突きつけるものですから、これでまた、ふらふらです。この「新知識」が正しいかどうか、教えてください。
37万人と37万頭
 私とぼーの散歩コース全ての距離数は8キロぐらいでしょうか。東西南北一番外側の道を結んだ中の面積は2キロ平方はあるでしょうか。メインの散歩道だけに限っても1キロ平方はあると思います。
 缶に付いて言えば、この3ヶ月間の「缶歩」で、ほぼ、この1キロ平方の中には殆ど、落ちていません。もし、各地域で、缶やゴミを犬の散歩をしながら、拾う人物が居れば、日本国中の道はきれいになります。無邪気に、計算すれば、全国の面積は37万平方キロですから、一人と、一頭で1平方キロをエリアとするなら、37万人と37万頭のワンちゃんが居ればよいことになります。簡単に出来そうに思うのですが、そうではないですね。
 私は「なになに運動」と言うのは好きではありません。組織を創ることは苦手です。さてどうしたものでしょうか。
姪夫婦来る
 朝から、良い天気。午後から、二月に結婚したばかりの、姪が夫を、結婚式の出席できなかった母に紹介に来るので、母も楽しみにしていました。
 カレーうどんを私が作りご馳走すると言っておきました。そのカレーうどんを、二人とも「美味しい」というから、話半分に聞いていましたが、夫婦そろってお替りしたところをみると本当に美味しかったのかも。嬉しいかぎりです。IMG_0211.jpg
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 一番長く話したのは、住宅の話でした。私が「少し頑張って、共働きを期間を長く取って、ローンの額を少しでも減らしたほうがいい」と言ったことが始まりでした。借りた額と同額、それ以上の利子を払うことになるでしょうから、少しでも、自己資金を蓄えた方がいいということをいいました。一戸建てに住みたいようですが、そうなると、通勤時間が長くなります。「いっそ、賃貸で、一生、生活した方がいいのでは」と言いましたが、やはり、自分の城を持ちたいようです。その気持ちは良く分かります。そんな自然で、当たり前の思いを叶えるのが難しい、社会の仕組みです。
 が、冷たい風にめげることなく、心豊かに生きて欲しいと、そして、早く、母にひ孫の顔を見せて欲しいと願い、祈る、春本番を思わせる日曜日でした。



 (資本主義先進国の一つであるわが国ですが、福祉先進国ではなく、「福死先進国」だといったことを言っている人が居ました。言いえて妙です。国民のためにならない高級公務員がリムジンに乗れるリフジンな国です)



22日は42個、本日の空き缶拾いは41個でした。
缶拾い、二ヶ月の成果は
 一月17日から始めた缶拾いは二ヶ月やったことになります。17日までの成果をご報告します。合計は  1130個  となりました。結構拾ったと思いましたが、千個なんですね。
 全国1000を超える高校に、缶拾いを勧める手紙を送りましたが、反応は今のところ 0 です。600人の学校でしたら、私が二ヶ月かけて拾った1130個はあっという間に集まりますよね。非力です。歯がゆくもありますが、まだ二ヶ月です。継続は力なり、とも言います。続けることが非常な非力にするかもしれません。今日は雨、散歩にも入っていません。ゆえに0個です。
 
ぼーの怪我治る
 ぼーの太ももに傷が出来てしまい、嘗め回すものだから、直径6センチほど、毛が無くなり、肌が出でしまったという話をさせていただきました。そうそう、血液交じりの膿も大量に出、それをぼーが舐めているという話です。獣医の川辺先生に抗生物質をいただき、最近、治ったと確信できるようになりました。かさぶたが乾き、毛がそろそろ、穴を埋めるほどに、回復してきました。腫瘍の可能性もあるとのことでしたが、炎症・化膿していたのでしょう。
 芸を覚えず、オスを見れば喧嘩を仕掛け、メスに合えば、ちょっかいを出す、田んぼの畦で糞をすれば、爪を研ぎ、「散歩」と言えば、吼え走り回り我を忘れるぼーですが、元気で居てくれればそれで良しと思わされる今日この頃です。「腕白でもいい、生き生きしてみせてくれたら」と言うところですか。



(後日追加) 上の文では、ぼーがただのきかん坊のように思われたでしょう。元気ですが、暴れ者ではありません。30以上の言葉を聞き分けるインテリです。散歩に出て、田んぼ道でリードをはずすのですが、こちらに来いと合図すれば、走ってきますし、十字路では、後ろから、進むべき方向を、指差すとその方向に歩き出します。合図を見ずに、曲がってしまったときには、私がその道に入るのを待ってから進みます。


今日は散歩に行きましたが、缶はひりませんでした。17日は42個、昨日は、朝早くから、東京に出掛けましたので、散歩をしませんでした。
祖先の優しさ「力棒」の言われ
 ご近所のおばあさんが亡くなりました。町内で役割分担をし告別式当日を迎えました。
 納骨も終わり、親族も帰られた後に、「力棒」を忘れたことに気付いたのです。「もう、しようがない」という雰囲気が流れましたが、「どういう意味があるのか」という話になりました。「力棒」というのは、150センチほどの竹に、細長く割いた半紙に包んだ米を親族・参列者が結ぶ杖のことです。
 その言われはこうです。四十九日までの間、食べるものが無いと、体力が衰えてしまいます。それでは、三途の川を渡り、閻魔様の審判を受ける気力が維持できません。だから、みんなで、米を結わい付けた「力棒」を死者に贈り、まさに、力付けようというわけです。 それを聞いた、居残った者は、すごく行動に移りました。
 おばあさんは杖を突きつき、極楽に到着することでしょう。今日は、多くの檀家でお寺がにぎわっています。ご先祖達の優しさと、子孫達の祖先への思いが身にしみる、彼岸前の墓地でした。
「天そば」と「天ぷらそば」
 今日は、市役所等に用があったので、八日市場の街中に行きました。母が柔らかいご飯を食べる時に欠かせない「蕎麦味噌」を買おうと、人気店の「吾妻庵」で昼食となりました。
 店内はほぼ満席。幸運にも、私の定席が空いた直後でありました。座って、お品書きを見るまでもなく、珍しく、「天そば」と決めたのです。「迷うのも味の内」と言っている私が迷わなかったのは、前の人が食べた膳が未だあったからです。そうです。それが「天そば」だったのです。そば茶を持ってきた若旦那に、なぜか「天ぷらそば」と告げてしまいました。言い直そうと思いましたが、この店に「天ぷらそば」というメニューはないので「天そば」が来るだろうと待っていましたら、どんぶりにつゆと蕎麦が入った、その上に海老天が乗った「天ぷらそば」がやってきました。はぁはぁ~やはり。気を利かせでオーダーに応えたのでしょう。これもサービスです。あり難く「天ぷらそば」をいただきました。
 今日は、春が来たと思わせてくれるほどの暖かさ、やはり、「天そば」が食べたかったですね。日本語は難しく、日本人は融通が利く優秀な民族です。その両方が恨めしいわが身をもてあましました。


昨日は5個、本日は28個でした。ぼーが缶を拾う時に、立ち止まる回数が増えてきました。缶を銜えて、渡す日が来ることを夢見る渡すです。
「缶”歩」 も考えましたが
 昨日は「散歩から缶歩へのお勧め」を言わせていただきました。今日は 「缶”歩」 読み方は 「ガンポ」 です。捨てられた缶には、捨てた人の恥と言うか、不徳と言うか、汚点がこびりついているでしょう。その汚点が「”」です。ゆえに、缶ではなく「ガン」です。
 しかし、ガンは「癌」とすぐに結び付いてしまいます。私、父を癌で失っているものですから、どうしても、これは使う気になれないのです。発想は大変良かったのですが、残念です。やはり、缶を拾いながらの散歩を、「缶歩」と命名したいと思います。が、「カンポ」は郵便局の「簡易保険」の略である「簡保」を連想してしまいます。更に良いのがありましたら、お知らせ下さい。


本日の缶拾いは37個でした。
散歩から「缶歩」へのお勧め
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暑かったのか、ぼーも疲れ気味です。

庭の白梅が咲きました。手入れもしないのに花を付けてくれます。実も毎年沢山成ります。ちなみに、母の名は「うめ子」です。

 今日は、まさに、春本番を思わせる陽気でした。つい、庭、畑をいじってしまいました。人間も同じなのです。陽気につられて、顔を出してしまう、花を咲かせてしまう、新陳代謝が良くなることは。
 散歩も、ジャンパーを脱いで、出掛けました。人々の新陳代謝が良くなった分、缶も増えているようです。今日は、49個がすぐに拾えました。缶は相当拾い、少なくなったのですが、紙くず、ビニール、ビン等は依然、溢れています。やはり、ゴミ拾い散歩仲間が必要なのでしょうか。全国に、散歩かたがた、ゴミを拾っている人はどれほど居るのでしょうか。10万、百万人となってゆけば、いいですよね。単純には、そう思います。
 そこで、言ってしまいます。散歩をしながらの、ゴミ・缶拾いを「缶歩」と命名し、新しい文化に加えて試たいのですがどうでしょうか。賛同され、仲間に加わる方を期待します。


ということで、本日は49個です。
 
生きる意味は老人の生活に現れる。
 昨日は、先輩の畑に、ジャガイモの種芋を植え付けに行ってきました。退職2~3年の方がお二人いらしていて、四人で、10畝50坪ぐらいに植え付けをしました。
 昼食は、畑で採れた野菜がならび、豪華ではなく、豊かという感じです。奥様のカレイの煮付けに感激。豚肉と水菜の鍋も美味かったです。伊勢菜という菜の漬物も結構でした。その他、ブロッコリーと菜の花のおひたし、レタスのサラダと自給菜園の青物が一杯で、充実した先輩の豊かな生活が伺える食卓でありました。
 食後の休憩の時です。「いつ死んでもいいよな」「やることもなく、毎日が日曜日」「早く死んだ方か社会の貢献になる」等、冗談でありながら、半ば本音と察せられる言葉が交わされました。私も、そんな気分になることがありますから、まったく理解できないことではありません。が、今の自分に満足していない自虐が感じられ、気になりました。
 今日は、春を思わせる陽気でしたので、母を誘い、畑で、たまねぎの雑草取りをしました。日光浴と気分転換、仕事の緊張感と役立つという充実感を味わってもらえたらと思ってです。母の豊かな老後も私の関心事です。何が、豊かな老後なのか、それが分からないままの課題に戸惑いがある私です。
 上の課題に戸惑い、お二人に感じた違和感を抱えながら、気付かされたことがあります。それは、老人は、今まで背負ってきたものがなく、余分な要素が剥ぎ取られている分、生きる意味を考える上で、好条件にあるということです。換言すれば、収入を伴わない仕事と、その生活にこそ、生きる意味が浮き上がっていて、発見しやすいということです。
 いわゆる「植物人間」が人間といえるのか。寝たきり老人に生きる意味が在るのか。認知症の老人が永らえることが幸せなのか。身体障害者に生きる資格が在るのか。こう言うと「何でそんな冷たい言い方が出来るのかな」と思われるでしょう。しかし、今の社会はここに挙げた人々を尊重しているとはとてもいえない状況にありませんか。それは「人が何をして人であるのか」について、皆で共有する答えを持たないからです。働き、収入を得、国民総生産増大貢献できることが人間の条件であるなら、上で例としてあげた人々は、もちろん、私のような退職者・無職人は人間ではありません。しかし、私を冷たいと感じる人は、全ての境遇の人に生きる資格と意味が与えられていると思っているはずです。では、その意味とは何なのでしょうか。
 人が生きる普遍的な意味とは何なのか、また、そんなものはないのか。それを探りながらの、母の老後の豊かさを求める(同時に自分の老後の豊かさを求めての)無職生活が続きます。


本日の缶拾いは45個
農業・米そして百姓の価値に思う
 散歩の時、田んぼを見ています。田植えに向けて、田お越しが進んでいます。昔は、この作業、牛馬か鍬でしました。私が鍬で耕作できるのは、日に、15・6坪でしょう。田は、一反(収量は8~10俵)でも330坪です。
 そこで、農家はトラクターです。そのトラクターは農業外収入で買います。昨年の農協の米買い取り価格は13000円前後。中小米農家の採算ラインは18000円程、工場で働いた賃金を付けて出荷しているわけです。政府・財界は、このような農家は土地を手放した方が良いと言います、こんな農家が米を作るのは「もったいない」といったポスターも作られました。何か納得できません。
 従兄弟もそんな農家です。上のような経営状況でも米作りを止めないのは、彼が農業経営者ではなく、農民・百姓だからです。先祖からの農地を維持してゆきたいという思いの出何処は「血」なのです。先祖の、そして爺様婆様、両親、自分の命を繋いできたのは、つい最近まで、米であったわけです。田んぼや、そこに埋め込まれた祖先の想念に対する畏敬の想いは理屈では説明できない信仰に近いものなのでしょう。
 そう思ったのは、バブルで、ゴルフ場建設の話が持ち上がった時です。従兄弟の田んぼと山林が計画内にあり、業者がやってきて、まさに、札束でほほをなでることをしました。黒スーツの方々が脅しを掛けたといいます。しかし、従兄弟は拒否しつつけました。買取価格は、噂で、山林でさ坪、2~3万円でした。きっと億単位の金額が提示されたはずです。しかし、従兄弟に迷いはなかったと言います。
 米が高いといいますが、それは単に、価格から見た比較です。外国産の米の生産費用が日本のそれと比べて安いというだけです。ご飯一杯の価格は、一俵60キロ30000円の米でも、35円ほどです。これが、生活実感としても高いでしょうか。高くて生活できないでしょうか。農業はお荷物なのでしょうか。祖先を大切にし、田畑山林を守り、愚直なまでに、米を作っている農民が、我々と同じ空気を吸っている、そう思うだけで何か、安心ではないですか。その安心に価値はないのでしょうか。
国民主権を黄門様の印籠に ③
 自民党をぶっ壊すと言っていた小泉さんは自民党を強化・補強して総裁の職を辞した。結局、彼は自民党の救世主であったわけで、黄門さまでは決してなかった。有意義で有効性が高い税金の使い方を実現するために、構造的な壁を壊すことはしなかった。壊したのは国民の生活と、外交のバランスであったと言わなければならない。
 ここから生まれた反省は、国民主権の実効ある行使を一人のヒーローを信じ、期待し、任せてはならないということだ。やはり、我々の印籠に力を与えるのは国民だけである。黄門様が世を去っ多々眼ではないと思うが、18世紀には入ると、百姓一揆や打ちこわしが増加し、大規模化した。今の世の中、一揆を起こすことで、世直しをしてはならない。国会を通じて行うことを原則として守ってゆかねばならないことは解っている。
 しかし、既存政党に、国民の声を政治に反映し、市民が生活の中で掴んできた道理にかなう活動を期待することは困難である。しいて言えば、共産党がその姿勢を持っているが、力を持ち政治を主導することは、少なくとも、この10年にはありえない。政界再編が取りざたされているがそうして行われる離合集散は、今までと同じで、建設的・創造的な勢力を生み出さないだろう。
 ならば、市民・庶民の生活感覚から生まれ出る政治勢力が結集して新政党を作る以外に、この危機を回避する道はないと判断する。市民運動組織、NPO,NGO、個人はもちろん、老人会、文化サークル等のグループも含めて、これ等を支持勢力として糾合する政党を創る、そんな常識に拘らない政治勢力の創造が必要であると感じている。そこまで、日本の民主主義の危機が進んでしまったという見方である。
 阪神淡路大震災の時、あの危機的状況において、被災者に個人的金銭支援をしぶった政府に対して、国民は、確か、千数百億円の義捐金を送った。今の政治・国民生活の危機に際して、日本を救う新政党が現れたら、政治資金として百億円単位の浄財が献金されるのではないだろうか。
 こんな新党が出来るわけがないと言われるだろうが、出来るできないではなく、創られなければ、国は財政破綻し、国民生活は崩壊することになってしまう。そのぐらいの危機感をすでに持っている国民は少なからず居るに違いない。


本日も缶拾いしませんでした。
 
 
国民主権を黄門様の印籠に ②
 もう一つの構造改革である行政改革は、官僚の権限と利権拡大体質による行政の非効率・国富の無駄遣いをなくし、財政再建と国民生活の保障予算を確保することを目的とした。この方針の下、日本道路公団・郵政事業の民営化、特殊法人の統廃合、独立行政法人化が行われた。
 しかし、特殊法人の統廃合はほんの一部で、しかも、名を変えただけに等しい形式的で内実がないことを知らせることが目的と思わせるほどの子供だましであった。公務員攻撃が意図的と思わせるタイミングで行われた。世論が、サボり公務員を減らすこと政府に要求しだすと、これを意識した政府は動いた。しかし、官僚主導の独立行政法人化は、国家公務員減員政策による官僚の痛みを、医療・教育・文化分野の末端機関と公務員に転嫁すること目的に実施されたに過ぎない。そして、事業の効率化し、無駄遣いを無くす目的で実施された、日本道路公団・郵政事業に代表される国家事業の民営化や外部委託化は、逆に、官僚や族議員の権限利権拡大に役立てられている始末である。
 結局、行政改革は、したたかな、いや、国家の寄生虫たる官僚や族議員にとっては小波でしかなく、これを凌ぐことで、より強固な吸い口を与える結果になってしまった。そのことは、無駄遣いが温存されているとしか思えない予算案や、その結果、減るどころか増えて過去最高の838兆円に達した国家借財や、道路特定財源の扱い方や道路建設前提の暫定税率10年延長を決定しようとしていることが証明している。未だに、無駄遣いをすることで得られる、自分達の地位・職・利益を保持し、ことあればこの期に及んでも、拡大しようとしている。国富を食い物にし、己の安泰を最優先にし、国民生活を危機に向かわせている輩を黄門様に懲らしめて欲しいと心底思う。




3月3日の散歩の折、田んぼに落ちていた缶を拾う時に、無理な格好をしてせいで、腰を痛めてしまった。ゆえに、昨日は無理しなで、缶拾いはしませんでした。今日は、良かろうと思ったのですが、拾う姿勢を取ると、未だに、痛みます。人生で始めての生活に支障が生じた腰痛を経験しました。ということで、今日も0個でした。
国民主権を黄門様の印籠に ①
 テレビ時代劇「水戸黄門」は今も尚、人気番組である。確かに、話は、我々庶民が望む方向に、確実に、展開されてゆくから無理もない。黄門様の印籠は、苛立つほどのの事態を解決に導いてくれる、あるべき権力の象徴でる。
 現在は、国民主権の時代であるから、印籠は「国民主権」ということになる。しかし、この印籠を示しても、政治家も、官僚も、財界人も、額ずかず、我々の願いが結実しない民主主義国家日本の現実である。
 このような時に、国民主権に力を与えてくれるヒーローが期待される。小泉劇場がこれであったと思う。だからこそ、支持は熱狂的になり、嘘も本当に聞こえてしまい、聞いてしまう。そのクライマックスが一昨年の衆議院選挙であっただろう。
 いまこそ、小泉政治を正しく総括しなければ、進むべき未来への道が選べない。彼は、構造改革の実行を約束した。一つは規制緩和という、今から思えば、弱者保護の否定による経済の活性化=企業収益の回復である。。経済の活性化は規制緩和された労働法制によるところが大きい。派遣労働の規制撤廃に代表される非正規労働の拡大という労働者の犠牲が、生産性の向上の中身であった。ゆえに、生産構造の革新によるものではない。リストラクチャリングは企業の社会的責任とされ、リストラと言う名の首切りが正当化され、正社員も職を失った。規制緩和は農林水産業を無防備にし、衰退させた。
 規制緩和の裏側にくっついてセットになっているのが自己責任である。これを切り札に、黄門様の印籠のごとくに使い、国民をひれ伏せさせた。生活保護、母子家庭、身体障害者への支援は軽視されだした。この自己責任論の登場は、死に逝く自由をも自由とする適者生存論であり、百数十年資本主義を後退させたことを示す。


3月2日の缶拾いは40個、3日が32個。そして今日は0個でした。