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早期退職後の生活を省みて、ものの見え方、心持ち、生き方の変化を確認しながらの日記です。人生、社会の動きにも眼を向けたいと思っています。
空き缶が縁で教えられる
 空き缶が2袋半になったので、持って行きました。またもや、いい話、勉強になります。
 住民が分別して出した缶を持ってゆくことは、けしからんと言うことになっています。裁判でも、条例化した行政側が勝ちました。市民が市の収入になることも考えて分別に協力しているからだというのです。しかし、市の収入にはなっていません。委託回収業者の収入に結果的になっているらしいのです。ならば、市民はゴミだし場に缶を出さずに、窃盗犯と白い眼で見られている業者に、直接、売っても良いことになるでしょう。新聞古雑誌を回収している「ちり紙交換」業者が正当な職業なら、缶を回収して、缶ドリンクと交換する商売も立派な商売です。市がその職権で統制・指導するのはおかしい。条例化し、起訴するのはやりすぎというものです。
 回収業界も上・中・下層があるのです。下層の業者がリサイクルに乗せるための、手間隙掛かる分別作業をやっているとのこと。その引き取り価格は上位者に決定権があります。その上位者の中には、市から委託を受けたり、資格を与えられている業者が多いのです。「そうだろうな」と思いますよね。リサイクルの最前線で労力を惜しまずに頑張っている人達の仕事が、割りの合わない職に位置づけられています。
 なにか、他の業種、例えば、自動車、家電、鉄鋼業界にもありますよね。正社員と派遣・臨時・日雇い社員の区別と言う差別もありますよね。こんなことが一般化してしまった日本です。
 


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繰返す虐待保護失敗に思う
 親による子供虐待が後を絶たない。権限が強化されてた後も、児童相談所が保護の機会を逃していることが残念である。だが、職員が面倒ゆえに放置しているのではないと信じたい。
 ならば、どうして救えないのか。虐待の事実がないのに捜査・追及してしまう過ちを恐れているからではないか。その結果、保護しない過ちを犯してしまう。同じ過ちならば、前者を選ぶべきだろう。そうしないのは、誤審ゆえの批判される苦しみが自分を襲うからである。厳しいようだが、子供の痛みよりも、自分の痛みを避けようとしていると言わなければならない。
 プロとは、場合によっては、己を犠牲にしてでも、職務を遂行する者のことである。その了解の上で、お互いが仕事をし合っての、安心な社会生活である。その了解が崩れている、そんな事件が多すぎる。



本日は45個でした。風が強く前に進めないほどでした。ぼーの上に上げている尻尾が風の方向に真横に流れていたのが、またこれが可愛い。
知っているつもり
 なぜ、親孝行をするのか?なぜ、年寄りを大切にせよと言うのか?なぜ、頑張るのか?感謝する気持ちにが大切なのか?悪とは、正義とは、愛とは、慈悲とは、美とは、真実と、人権とは・・・・。分かっているつもりでいるが上手く説明できないものだ。そのことにさえ気付いていない。
 辞書で人権を調べると「権利」とあり、権利を調べると「人権」と書いてある。これでは悪は「良くないこと」善は「悪くないこと」と説明しているに等しいく、説明になっていない。この類辞書を調べると多い。
 例えば、「悪」ってなんだとお思もいか?私、西田幾多郎の「善の研究」樫山欽四郎の「悪」ドストエフスキーの「罪と罰」、清水幾太郎「倫理学ノート」を読み始めたことが何度かあったが、、読み通したことは一度もない。あまりにも難しいく何を言っているのか良く分からないから、眠くなってしまうのだ。この手の本で読み通したのは夏目漱石の「私の個人主義」石川達三「いのちの重み」ぐらいしかすぐに浮かんでこない。
 自分の悪を意識して以来(比較的幸せな人は自分の悪をいつ意識するかといえば、恋愛をしだした時ではないだろうか。私がそうであったからだけのことだが)、これについて考えてきたが、納得できるものはない。
 しかし、ヒントが一つ浮かんできている。それは「人と人の関係を切り裂く行為は悪であり、人と人とを結び付ける行為は善に関係している」ということである。密かに、生徒に説明するのには良いと思っている。
不寛容と言う切断・・・・めんどくさいは現代病
 今日も、自転車をこいでいました。前から、70歳を過ぎた女性(フェミニストは老女とは言わない)が道路の真ん中をふらつきながら、自転車をこいでこちらに向かってきていました。そこに、彼女の後ろからトラックが来ています。避けない自転車に「ぷっプー」それでもふらつくので更に激しくクラクッションを鳴らします。追い越し際、怒りをあらわに、にらみ見つけていました。
 彼女に怒りを向けるのではなく、上手に避けた自分を褒めてやればいいのにと思ってしまった私です。おばあさんは一生懸命に自転車をこいでいるのです。ただ、ちょっとしたことで、バランスを崩しただけなのです。高齢化社会への準備をしていないのは、政府・官僚だけではないことが分かり、寒々しい気持ちになりました。
 不寛容は、いつも、人間の関係を切ってゆきます。というか、関係を持ちたくない気持ちが不寛容を生んでいるというのが事実に近いでしょう。手を焼く、面倒を見る、それを面倒と思うから、関係を持ちたくない、絶ちたい。関係を持たない人間に人は冷淡です。「めんどくさい」は現代人の病です。思い当たることが沢山ある私です。自戒を込めて。


 本日は58個でした。また、新たに捨てられています。それも、けっこうな数です。
 ぼーは、今日も、田んぼの中を駆け回っていました。とても老犬とは思えません。帰ってから、水を飲み終えると、ボールをくわえて「遊ぼう」の要求です。思いを叶えてやる事が信頼と絆の元です。傷にオロナインを付けてやる時も、安心しきっています。自分のためになることをしていることに疑いがないのでしょう。嬉しいですね。
最近の母の口癖
 母が最近繰り返し話すことには、8年前に亡くなった父に関することが多くなりました。「若い頃は割と、いい男だった」「お父さんは一度もお母さんに手を挙げたことはなかった」そして、最も多いのは「自分は学校に行けなかったから、子供には行かせたい。そのためには、独立すると言っていた」これ等を繰り返し聞かされています。
 父は旋盤工でした。約束どおり年31歳で独立。高度経済成長に乗り、会社は成長。子供達に大学で学ぶ機会を与えたのです。
 この8年間、後悔の私でしたが、母の話を聞いている内に、、一つだけ、父親孝行をしていたのではないかと思えるようになりました。それは、私も、弟も大学を出なければ就けない職業を得たこす。父は何も言わなかったけれど、このことを、密かに、喜んでいたのではないでしょうか。
 そう思うと、少し晴れがましい気持ちになります。母の少し、いや、大分迷惑な繰り返し話に救われる皮肉を、にや笑いしながら、レモンティーで温まる梅雨寒の宵です。
 そう想うと、少し、晴れがましい気持ちになります。いつもよりも、レモンティーを甘く感じる春めいた、こころ穏やかな晩宵を楽しんでいます。


本日も、ぼーの足の傷が心配なので、散歩に集中しました。ゆえに、缶は0個です。
 
ぼーの足の怪我を診てもらう
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膿が出ているほどの状況なのに、平然としているぼーです。今、午後10時20分、先ほど、様子を見に行った時は、心なしか、元気がないようにも見えました。落ち着かない私です。



 今日は、旭市の動物病院の川辺先生に、ぼーの太ももの怪我を診てもらいました。怪我ではなく、おでき、腫瘍の可能性も在るとのことで、心配が大きくなっています。抗生物質を頂き、炎症を抑えることになりました。にもかかわらず、ぼーは痛がる様子もなく、散歩には行きたがり、今日も、田んぼの中を走り回っていました。
 飼い主として、気楽に考えてしまったかなと、自分を情けなく思っています。そんな私にかまわずに、ぼーは、傷を嘗め回しながらも、、めげることもなく、元気で強気一辺倒です。たくましいかぎりです。
 そんなわけで、私は、缶拾いをする気になれず、今日は0個となりました。
生活者重視と言うのであれば
 政府が高齢化社会が来ると言い出し大分たった。。なのに、それへの備えは不十分である。
 備えどころか、逆に、福祉は後退している。年金改革はされずそれは消えた。老人医療費は有料化され、後期高齢者医療制度導入を政府は決定した。介護保険制度が導入されたが、かえって介護の質は低下している。導入後の介護労働者賃金は激しく下げられ、今や、人材が集まらない惨状である。
そうして、分かったことがある。高齢化、高齢化と騒いだのは、政府が積極的にこれに対応する覚悟を示すためではなかったということだ。「予告しましたよ。自己責任ですから皆さん備えてください。貧乏人は覚悟してください」というメッセージだったのである。
 福田さんは「生活者重視」を言っている。ならば、生活者を支持基盤と認識し、財界・官界・業界の利害と縁を切る、その覚悟を己に課さなければならないだろう。間違っても、後になって「生活者重視」とは「生活者を負担・課税対象者として重視するという意味であった」などとは言わないで欲しい。



評価し、生徒が教師を選ぶ
 親が評価し、学校を選ぶ制度はすでに存在している。更に、生徒が学校内で教師を選べるようにするべきだ、という意見がある。私は、双方とも、その教育が目指す方向性や教育効果に疑問を感じている。
 そもそも、評価はどうしてするのかである。その目的は、大きく分ければ、二つある。一つは、育てるための評価であり、もう一つは、切り捨てるための評価である。教師が行う生徒の学習評価は、本来、育てるための評価である。しかし、切捨てるための評価であると感じている生徒が多いことは、今の教師と教育の課題であろう。
 では、冒頭に示した「バウチャー制度」はどうだろうか。これは、親はもちろん、教育委員会までもが学校を育てるのではなく、切り捨てる姿勢を持っている。なぜなら、入学を希望した児童生徒数により、予算面での厚遇、冷遇が制度化されているからである。評価は、より良く改善されることを目指して行われることが肝要である。
 不要であるとの烙印を押す前に、生かす術を捜すべきだろう。それは生活用品や食材にもいえる。あまりに簡単に、捨てている我々が居る。人間も同じように扱うと言うのか。人間が人間を物として扱う社会でいいのだろうか。
 生徒が教師を選ぶ。「その地位に甘えている教師どもに緊張を与えてやれ」という裏の声が聞こえてくる。これに対しては、まず、教師は今、安穏としていられる状況にないことをまず、指摘しておきたい。最近、ようよう、それが理解されてきて、正しい教育論議を可能にしているようだ。
 さて、「教師を選べる」と聞いた生徒が、どんな反応をして欲しいとお思いだろうか。私は「もし、誰からも選ばれない先生が居たら可哀そう」と思える人間に生徒が育って欲しいと思う。それは、修学旅行の班分けや、部屋割りの時に、誰からも声をかけられない生徒が居ることを恐れて、前もって、手を打っておく教師であって欲しいと思うのと同じである。或いは、その場面で、気を使える生徒が居てほしいと思うのと同じである。


本日の缶拾い。もう拾う缶がなくなってしまいました。そこで、ぼーの安全を考えれば、危険ではありますが、交通量が多く、ポイ捨てが激しい市道に出ました。左側30メートルを歩いただけで、袋が一杯になりました。危ないので、缶をつぶせませんから、36個で一杯になってしまいました。ということで、本日36個でした。
 
「有難い」から「ラッキー」へ
 
 「今日はご馳走するよ」と言うと「ラッキー」と返されることが多くなってきました。今までなら「ありがとうございます」でしょう。ラッキー・幸運とは自分に付いている己の付属物です。ですから、レストランで、ただで、ご馳走が食べられるのは己がなせる業であり、感謝することではない。この認識が言わせるのが「ラッキー」なのです。
 起きている事態を自分の側からしか見られないなら、「自己中」です。自己中心的な人間が増えたと嘆く世相であります。しかし、考えれば、人間は昔から自己中心的な存在です。何が変わってしまい「ありがとうございます」と言えない「ラッキー人間」が生まれたのでしょうか。
 この答えは、そう簡単に、言えないでしょう。でも、敢えて、言えば「一人で生きて行けるという錯覚へと逃げ込める時代になったからだ」と思っています。この考え方は、政府が言う「自己責任」論や、財界が言う「有能な者だけが生き残れるとする適者生存」論や新自由競争論ともあいまって、時代から人のつながりや、情を交わし合う潤いや、他者・自然から多くを与えられていると感ずる想像力や、様々な人々を受け入れる寛容という美徳を奪っています。
 人は「一人で生きてゆける、生きてゆけ、行くべきだ」は強者の論理です。強者は、この論理を一般化し、普遍的価値として押し付け、巻き込もうとするのです。また、強者でない者までもがこの論理を振り回すのです。多くの人々がこれで苦しんでいます。強者でない人々が自分らしい生き方が出来るようにしなければなりません。
 船橋芝山高校でご一緒だった松村範子さんが、生徒指導に関わる議題で揉めた時に、「この中に、どんな生徒にも、どんな事態にも、自分ひとりで対処できると自信がある方はいますか」と問いかけたことを思い出します。もちろん、誰一人、「イエス」と思った教師はいなかったでしょう。
 何が起きるか分からない時代です。一人で生きて行けると錯覚してしまう幼稚さとか、自己責任とか、適者生存とかを振り回さずに、弱さを見せ合える、認め、受け入れ合える、ゆえに、補い合いながら生きて行く、そんな関係の網を作ることが大切だと深く、思う日々です。しかし、現実は悲しくも、寒々しい限りです。今日も、ぼーと、缶を拾います。
 
 
 本日は、51個の缶を拾ってきました。以前に、まとめて捨てあったので全て拾ってきた同じ場所に、また、五つ六つ転がっていました。なくなったことに、気付いたのでしょうか。 
愛犬ぼーは他にもいました
 我が愛犬ぼーがどのぐらいインターネット上で取り上げられているか、検索してみました。すると、「ぼー」君は他に、数頭いることが、いたことが分かりました。どんな経緯で「ぼー」と命名したのか興味があるところです。
 我がぼーは、連れてきた日、恐れてか、寄り付かず、かくれんぼばかりしていました。そこで「かくれんぼ」のぼを取って「ぼー」としようか、と思いつきました。そういえば、12月25日生まれだから、キリスト様と同じだから「坊さん」のぼーでもよいし「ぼんぼん」の「ぼー」でも良いかと思った訳です。
 名前は単純なのがいいと思っていました。呼びずらく、覚えずらい名前は避けようとも。なら、いっそうのこと、一音が良いとも思っていたのです。ということで、我ながら最良の命名ができたと自負してきました。その選択をしている人がこんなにいるとは思いませんでした。私だけの独創的な命名と思っていたのに、残念という思い同時に、親近感も感じました。そこで、お一人選んで、コメントを入れてあります。ご返事が在るかどうか楽しみにしているところです。


 昨日今日と散歩しましたが、缶は拾いませんでした。純粋に、散歩を楽しみました。



今、なぜ、大食いに関心が
 大食いが注目されている。力持ちやアクロバットのような特技の一つとして見られている面もあろうが、それだけではないように思う。なぜ、平成のこの時期にテレビが取り上げ、視聴率を稼いでいるのか。
 日本古来からの生活の基本は「あるもので満足する」であった。これは、ものがなく、貧しかったからであろう。しかし、それだけではなかったのではないか。「あるもので満足する」は天然の道理を受け取ってのことであったように思えるのだ。これは、結果的に、社会の急激な変化を抑え、社会の歪みを最小限にする知恵をも含んでいたようにも思うのである。
 それがいつからか「あっても満足したくない人間」が作られて行く。ここには「したくない」という意志が入っている。「満足をしてしまったら、進歩がない」という人生訓の内面化である。欲望を拡大してゆくことが進歩を可能にするという歴史観である。進歩が価値であり、目的である以上「満足したくない」生き方は、前向きで、有意義とされる。欲望を拡大することは正しく、奨励される時代。ゆえに、満足を知らない「大食い」は、美しく、羨ましくもあり、尊敬の対象にさえなるのだ。
 グルメはすでに、一般化してしまった。多くの人はうまいものを食べ、知っている。もう、グルメ情報は飽和状態にある。ならば次は、そのグルメを我々の、数倍楽しめる人物を登場させ、経験できない欲望の満足を見せ付けて、羨ましがらせて、引き付ける。大食い番組が企画され、登場するや、関心を集めることとなった。


 今日は、長距離コースを周りました。39個でした。ほぼ、缶はなくなりましたが、見落としているものも、少なからずあります。
 
暴力は相撲の伝統ではない・・・相撲協会は高い精神性を示せ
 前時津風親方が逮捕された。あくまでも、指導と主張しているという。たとえ気持ちは、指導であったとしても、それが死に至れば、事件である。教育現場では体罰とされ、懲戒の対象であり、刑事事件にもなる。
 教育である以上、厳しさは必要だろう。なぜなら、厳しさのない教育は無力だからである。しかし、愛情のない厳しさは冷酷なのだ。子供たちは、愛情の裏づけがある、自分を思ってくれての厳しさと感じ取れば、付いてゆく。しかし、指導者が自分達を道具とみなすがゆえの、蔑みからにじみ出る冷酷さには、付いてゆかないだろう。被害者は逃げようとしていたと言う。指導でなく冷酷な暴力であると感じ取っていたに違いない。
 相撲界はその神事的性格、長い伝統、国技としての格式を盾に、様々な意見・提案を退けてきた。これが許されてきたのは、これ等を司り、守る使命を与えられた者達が、常人とは違う厳しさを自らに課し、社会の期待応えていると信じられてきたからである。しかし、その伝統は守られずに、伝統になかった暴力による支配が体質化してしまった。斉藤君のような不自然死が他に、10件以上あると聞いている。
 相撲は「道」が付くほど、精神性が高い競技である。だから、横綱に高い人間的完成度を求めるのは自然であろう。。真摯な誠実さ欠ける朝青龍が批判される所以である。しかし、その朝青龍を指導するだけの精神性や高徳・高潔さを親方達が持ち合わせているのだろうか。事件後の協会人事だけを見てもそう思う。


本日は散歩に専念したくなり、缶拾いは1個だけでした。おかげで、久しぶりに、体操、ストレッチができました。
「グランドプリンスホテル新高輪」は確信犯では!?
 日教組の全国教研集会全体会場であった「グランドプリンスホテル新高輪」への批判が多くの新聞、識者に共通して見られることは当然であろう。もし「プリンス、よくぞやった」と言う人がいれば、民主主義、自由主義を語る資格がない方である。
 日教組に批判的な方々も多いと思う。それは自由に判断することを認め合う日本では、おかしなことではなく、自然なことであろう。しかし、気に食わない組織がその権利を奪われたら喜んで、支持する組織の場合には、大騒ぎをするというのであれば、民主義者でも、自由主義者でももない。アメリカ独立宣言を起草し、第三代大統領になったトーマス・ジェファーソンであったと思うが、「あなたと私は主義主張が違う。しかし、もし、あなたの言論の自由を奪う者が現れたら、私は、命を賭けて、その者と戦うだろう」と述べたと聞いている。
 裁判所は契約を履行しなさいという仮決定を下した。ホテルがそれに従わなかったことも、法治国家の基礎を揺るがすものとして、批判の対象になっている。また、企業の社会的責任
の面からの指摘もある。しかし、ホテルは己の正当性を主張して、開き直りとも取れる態度を採り続けている。「仮決定に従う法的必要性はない」がそれでる。
 ここまで来ると、ホテルは、最初から、妨害する意図を隠し持ち、契約したのではないかと疑いたくなる。右翼の妨害を理由に契約を破棄したホテルが、実は、最強の妨害者ではなかったのか。プリンスホテルグループが仕掛けた罠でないのか。そういう推論が可能な事実経過ではある。しかし、あくまでも推論とする。
 このことで、政府が重大な危機意識を持ったとは感じられない。そのことが、より怖い。自民公明連立政権が自由主義を最高の価値としていない、そのことの表れになるからだ。元自民党幹事長加藤紘一氏自宅が放火された時でさえ、当時の小泉政権は淡々としていた。自由民主党の看板に偽りはないか。公明の名に恥じることはないか。
 全体会が出来なかったことに対して、日教組内部から執行部を批判する意見もあったと聞く。批判する相手を間違ってはいけない。組織内部で揉めることはホテルを批判する上でマイナスになる。国民の敵は反民主主義、反自由主義であることを肝に銘じるべきであろう。


本日、散歩はしましたが、缶は拾いませんでした。成果は0。
 
外国人が満足する観光は可能か?
 昨日、我が家の畑の前で、ご近所の奥さんと立ち話になった。
 娘さんの友人がニュージーランドからやってきた時に、成田から、わが町匝瑳までの道を来て、両側に散らばり落ちているゴミに驚かされ「日本がこんなに汚いとは思わなかった」が、彼女の第一声であったというのだ。さもありなん、と思う私である。納得してしまう自分である。この道は何度も通っているが、のどかな田園風景とは言いがたい状況にある。道端にゴミがなければ、澄み切って広がる田舎の、奥深い里山を思い浮かべられるだろう。しかし、あのゴミ、ゴミ、ゴミの散乱を目撃したのでは、山々の奥までゴミと想像して当然である。
 ゴミは漢字で「護美」、美しさを護る、と書くのだ。美しく護る結果出てくるのがゴミである。沿道の放棄物は、己の身の周りだけきれいにして、その他をゴミで汚している日本人の姿をも教えてくれる。日本人も美しくない。そうニュージーランド人が理解してもおかしくない。
 見も心も、住まい環境もきれいにして、お客様を迎えたおもてなしの心意気は、もう、我々にはないのか。外国人観光客を増やして、経済の復興を目指している地域は多い。確かに、良いアイデアだとも思う。しかし、その資格が我々にあるのだろうか。また、初めても、成功するだろうか。戸惑う自分が居る。



本日は18個。もう、拾う缶がない。そこで、市道に出て少し拾いました。ぼーの安全のため18個で終わりにしました。
ほうれん草とコカブを摘む
 小鳥に啄ばまれて惨めな様子のキャベツに気をとられ、他の作物に薄情になっていました。そんな私に、突然、畑に行ってきた母が「今晩はほうれん草のおひたしにコカブのお吸い物作る」と言うのです。
 確かに、小さいけれど、食べごろと言えばそうです。メインは、きっと、得意の「おにぎり」でしょう。以前なら「これが晩御飯はないよ」と不満を言うところですが、諸諸の理由から、そう思うこともなく晩飯となりました。
 おにぎりは、前にもご紹介した匝瑳内山の谷津田米ですからおいしい。お吸い物はパック入りのかつおだしと醤油だけなのですが、甘い上に、出汁を強く感じました。いのち(生命)という清新さは澄んだ味わいとなって食感を刺激するのでしょう。自然の恵みを濃厚に閉じ込める土がコカブをっ健康にし、その健康が人間の滋養になる。
 極めつけは、ほうれん草。ただ「あまい」と言うだけでは嘘になってしまう、正確ではない。しかし、付け足すべき味わい表現はないのです。あまさの後ろ盾に「健やかな、息吹き」という肌触りがあるのです。充分、満足して、お茶をいただきました。


本日は空き缶35個、昨日はお休み、一昨日は40個でした。また、知り合いに業者さんに大きなゴミ袋2つ分持ち込みました。
また、雪にならず
 関東は、積雪するほどの雪との予報でしたが、またもや、東総地方だけは冷たい雨です。子どもじみている、生活者の目を失っていると言われそうですが、雪の日が好きな私です。
 すべての音を吸い寄せて、雪が置いてくれる静寂、生命(いのち)すべての活動を休ませて、白く安めてしまう、そんな雪の、悪意なき魔力に魅せられてしまうのです。雪にふれたいとか、遊びたいとかではないのです。むしろ、雪を感じたくないのです。雪そのものではなく、雪という気象が創りだす非日常性を味わい、楽しみたいようです。
 普段の景色は色を失い、生命感を奪われ、死して、屍と化すかと思いきや、雪は新しい生命を与えるのです。すべてのものが纏う白は命を生かしても主張させない冬将軍、宇宙の暗黒と無限と空疎さを伝えます。
 自分の中にある疲れた記憶が受け入れられ、暖められ、「疲れたっていいじゃないか」「穏やかに命を使うのも大切だよ」と言ってくれる雪景色なのです。先月17日の雪に、55年生きた命を感じました。


 ということで、ぼーにも「今日は散歩ないない、だめだめ」と、もう、伝えている今です。缶拾いの成果もありません。
缶拾を東総工業高校に提案
 先日、一昨年まで、勤めていた東総工業高校に用があり、行ったついでに、事務室に寄り、事務長さんと小一時間お話しする機会がありました。 その中で、私が「生徒が登校してくる間に、缶一個を拾って、昇降口近くに、それを入れる容器を用意するだけで、年、10万以上になると思いますよ。生徒減で部活動費が足らないで、生徒が自腹切っているでしょう。まず、部活の連中に話、定着したら、全校生徒に呼びかけるというのはどうですか」というと、何にも前向き、改善策を積極的に実行する事務長は、耳を傾けてくれました。早速、校長には話したと連絡が入りました。
 アルミ缶6個で100グラム10円で、スチール缶3個100グラム1,7円で、古物商が引き取ってくれます。生徒が600人、登校日が200日としても、12万個。アルミが6万個で1000キロ。1キロ100円ですから、10万円。鉄6万個で2000キロ、1キロ17円ですから、34000円。合計134000円となります。
 資源高は困ったものですが、逆手にとって、学校の費用にする。東総工業高校はどうするでしょうか。期待しているところです。


本日の空き缶拾い、40個でした。今日は、買い物に行く時に、気になっていたゴミ捨て場のようになっているところまで、行ってみました。まだまだ、そこはきれいになりません。
半月の空き缶拾い成果報告
 ここのところ、胃痛から気弱になっていました。そういう時は、今までやってきたことを確認して、自分も、それなりに頑張っているではないかと思うことにしてきました。それが今までのやり方でしたので、それに従い、今日は、缶拾い半月の報告と、自らも確認をしたいと思います。1月17日42個、19日55個、21日48個、21日39個、22日31個、24日18個、25日21個、26日36個、27日43個、28日32個、30日33個、31日49個、2月1日6個。


合計453個


 今日は、疲れが激しいので、最短コース2キロメートルの定コースを行きました。もう、ここには缶は殆どありませんでした。さびた2個を発見しました。もうないでしょう。あとの4つはご近所の前の道路にあると昨日気付いていたその4つです。すでに、現在、空き缶の買い取り価格を教えていただいた古物商に、半分は引き取ってもらいました。お礼に、缶入りお茶をいただきました。もちろん、ポイ捨てはしていません。