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早期退職後の生活を省みて、ものの見え方、心持ち、生き方の変化を確認しながらの日記です。人生、社会の動きにも眼を向けたいと思っています。
最高級の省エネは
 レジ袋を止めてマイバッグを使う、近距離なら自動車を止めて自転車、シャワーより湯船湯で洗う、いろいろな省エネが推奨されている。だが、効果も含めて、エコの生活ファッション化が気になっている。
 覚悟を決めて言えば、最高級の、実効あるエコは人類の体重を十分の一程に「品種改良」することでる。食料も十分の一、衣料、住宅、交通機関等もそれで充分。CO2の排出量も何十年か前の水準に戻せるだろう。そんな無体な、人道に反するとの反論が予想される。しかし、我々人類は己の都合にあわせ、自然環境はもちろん、他生物を都合良いように,品種改良してきたのだ。最近イスラエルで、羽毛がない鶏が開発されたという。なるほど、学校ではヒューマニズムを人間中心主義と教えている。
「失うことなく奪う」その能力を理性と理解してきた。しかし、今、人類以外の全てがこれを拒否する姿勢を示している。悪意なき報復が温暖化に集約されて、我々は「失い」に気付かぬ振りはできなくなった。
 ヒューマニズムは人道主義ともいう。何が人の道なのかを考え直す必要があるだろう。にわか百姓は実感する。自然の営みを人間の営みに置き換えることは、もい、出来ない。人道は天理と同じではなく、天理は我々の外に在る。天理を我の道理とする生き方が、省エネの基礎になければならないだろう。 
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今昔、職業で人を判断するな
 職業や外見で人を判断してはいけない。これを建前だと言う方も居られようが、正論です。
 町工場を経営していた父が少し汚れた、多少油臭い作業服で電車に乗らなければならないことがありました。父の座席の周りには誰を座らなかったそうです。悠々と座れたと、笑っていました。五厘刈りで髭が濃い、元陸軍伍長、しかも作業服、警戒されてもしょうがないところです。父曰く「お父さんは200万円の手形を懐にしていた。だから、不安だったけど、作業服が安全にしてくれた」双方警戒していたのです。
 しかし、五厘刈りでも、背広を着ていたらそんなに警戒されなかったのではないでしょうか。40数年前、作業服、職人風の服装、野良衣の人物よりも、背広姿の人物が社会的に信用されていました。ブルーカラーよりもホワイトカラーになるための受験競争であったわけです。役人、銀行員、医者、研究教育者、技術者などの背広を着て仕事をする職業があこがれであり、尊敬、信用の対象でありました。そんな中で「職業で人を判断してはいけない」と言われたわけです。つまり、職人や工場労働者だから、人品卑しいと判断してはいけない、という意味合いだったのです。
 もちろん、今も職業や外見で人を判断してはいけないといわれます。しかし、今は、政治家・役人・経営者・銀行員・医者・教育者だからといって人品卑しいと判断してはいけない、尊敬できる人も中にいる、と言う意味合いに聞こえてしまうのです。むしろ、作業服・野良衣姿の方に、地道に、実直に仕事をして、まっとうに生きているという印象を与えられます。
 「人を職業で判断してはいけない」は社会的に、大きく重い責任を背負っている人がまっとうであることを前提として、成り立つ言葉です。その上での「背広姿だけが立派な人間ではなく、作業服、野良衣姿の人も同じように立派な人達なのだ」という教えなのです。
 上に立つ者が立派であり、それに劣らず、最前線で働く仕事人が高い人格を持ち働いている、そんな社会が健全であり、安心であり、お互いを幸せにする社会なはずです。これを踏まえて、「職業外見で人を判断してはいけない」と大人達は子ども達に教育するのではないでしょうか。
理不尽に不感ないやいや内閣
 今度こそは国民に眼を向けた堅実な内閣を期待していた。だが「貧乏くじを引いたかな」との発言に「円熟した首相かね」と、いぶかしく感じたことが当たってしまった。
 年金名寄せ問題で、彼が見せた姿勢は小心政治家そのものである。「自分がしたのではない公約の責任を感じられない」という本心がそう判断させてくれる。この本音は、自分に厳しい高徳・高潔な心根には宿らない。しかも、それに気付かず公言してしまった軽率さは大人らしくない。
 野党・マスコミの追及に「立場上、責任を感じていると言わなければならない」と答えた。、これは心から詫びではなく「いやいや」の責任表明であった。だから、今後、年金が正しく支払われると誰も思わないのだ。
 この「いやいや」政治は薬害肝炎訴訟問題にも現れた。「司法の判断を待つ」と言うだけで、首相は原告要求に正当性の有無を判断しようとしない。「いやいや」でもしない。司法の判断が出れば「いやいや」応じるという態度であった。
原告が言う「首相の政治判断」の意味が分からないのなら、お教えしよう。それは「世の中の理不尽に向き合う人間としての判断を、政治家としても行いなさい」ということである。
 今、「政治判断」は多くの政治問題を解決するに必要な能力となっている。人間としての判断を政治家としても行う、その勇気と気概がなくてはならない。税金の無駄遣い、天下り、特殊法人の改廃、大企業の下請け支配、史上最高益下の中小企業の倒産・労働分配率の低下、消費の低迷、非正規雇用の増加とワーキングプアー増加、少子高齢化問題に、医療・介護の危機的状況。どれをとっても人間が見れば、理不尽さを色濃く持っている。
 この理不尽さに人間福田康夫はどう向き合うのか、どう立ち向かうのか。「いやいや」では困るのだ。この理不尽を理不尽と感じないのなら、もう語るべきことはない。「いやいや」政治になることががよく理解できる。


 
不幸にさえなれない その④
 三省堂刊  「名言名句の辞典」の「幸福と不幸」ページを紹介します。


「人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないからだ。ただそれだけの理由なのだ」
                                    ドストエフスキー

「我々人間は馬鹿だから、足元に転がっている幸福を見過ごしてしまう。そして、手の届かないようなものばかり追い求める」                  ピンダロス

「しあわせは、ほんのすぐそばに、息を殺して待っている」   別役 実

「人生を幸福にするためには、日常の瑣事(とるにたらぬ小さいこと)っを愛さねばならない」
                                    芥川龍之介

「人生は学校である。そこでは幸福より不幸の方が良い教師である」  フリーチェ

 「人は幸福の時に、偉大に見えるかもしれないが、真に、向上するのは不運の時である」
                                          シラー

「幸運は偉大な教師である。不運はそれ以上に偉大な教師である」   ハズリット

「運命は神が考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ」  夏目漱石

「世界ぜんたいが幸福にならなければ、個人の幸福はありえない」   宮沢賢治

 具体的に、どうすれば幸せか、という答えはありません。やはり、それは各自が見つけ出すものらしいです。幸福であることに気付くのが下手な人が多いですよ、不幸であることが、実は、人生で意味覆いことなのですよ、といった言葉が多いです。


不幸にさえなれない その③
 四つの不幸になる方法
①どうなったら、幸せかを考えない。どうなれば、幸せなのかを意識していない者はたとえ、幸 せになってもそれに気付けないから、幸せと感じられない。幸せの目安がないのだから、不 幸かどうかもわからない。不幸にもなれない。
②不幸の原因を他人のせいにする。他人は変えられない。変えられるのは、自分と未来だけ である。不幸が他人によってもたらされているのなら、そして、他人が変わらないものなら ば、幸せは、永遠に来ない。自分が変わることが幸せへの近道、唯一の道だろう。
③自分を嫌いになること。自分が好きなことは、自己肯定感が幸福の基礎的感情でしょう。自 分を認められる、信じられることはそれだけで、満足でしょう。
④想像力を持たないこと。鈍感な人は人間関係を作れないということです。

「幸せとは何か」いまだ、納得する答えを持ち合わせていないのですが、ある作家が仰っていた次の言葉が、現在までの、最良の答えです。「やりたいことと、会いたい人と、そのために必要な命と時間があれば、幸せだ」
不幸にさえなれない その②
 8年前、父に逝かれてしまい、生きることが違って見えてきました。人生のゴールは地平線の下に隠れて見えなかったのですが、というか、見ようともしなかったし、知識ではありましたが、意識の中にはありませんでした。しかし、急に、白いゴールの帯が、誘い込むように、鮮やかに、浮かび上がってきたのです。
 そうすると、「生きる意味とは」「幸福とは」今までの自分の人生は」「このままで良いのか」という問いが巨大画面で迫ってくるようになりました。とはいえ、数十年間、答えを出せずに来たのですから、思うようにはなりません。そこで、攻め方を変えて、「不幸になれる方法」という形で入ってゆこうと思いついたわけです。「幸福とは何か」「幸福になるためには」が分からないものだから、「不幸になれる方法」という切り口を選んでしまっただけのことです。正面から立ち向かえない、無能なひねくれ者がよく使いゲリラ作戦です。
 まだまだ、先は遠いと思い知らされるだけのことでしたが、考えてみました。「不幸になれる四つの方法」 考えることは尽きず、時間と才能は有限である不幸を突きつけられました。
不幸にさえなれない その①
 ある有名なスポーツカウンセラーがなさった話です。イチロー選手や松井秀喜選手のような一流選手は「良いバッティングのイメージを語れる」そうです。この話を聞いて「何が幸せかを語れない人は幸せになれないなぁ」と、というか、「不幸にさえなれない」のではないかと、ふと、思い当たりました。
 とはいえ、突然「幸せとは何か」と聞かれて、自分を納得させることが出来る答えを言える人は、そう多くはないでしょう。という私も、気の利いた、しかも、答えて自分をスッキリさせられる答えを言える自信はありません。このことに付いて、人並みに、それ以上に、考えてきたように思うのですが、考えても、考えても、頭がもやもやし、こんがかかるだけで数十年が過ぎてしまった。「暇だから考えるのだ」とか「幸せとは何だと考えられる余裕があることがもう、幸せなのだ」とか「これでも不幸といったら、罰が当たる」とか言いながら、「そこそこ幸せだなぁ」と思っていたら、50代になっていたというのが本当のところです。
悲しみも感動だ
 感動とは成功し、達成された、美しいものを見た、尊敬に値する人物・事実に出会った時等に、使われる言葉である。送ってこられる「正」の、プラスのシグナルによって、呼び起こされる、心に満ち溢れる喜びという感情であると理解されているように思う。
 それに対して、失敗、落胆、失望、失恋、愛する者を失った喪失感等を感動と表現する人は少ない、むしろ、例外であろう。誰だって、悲しみや苦しみに出会いたくないし、好む者はいないと言ってよい。
 しかし、人は、悲しみに泣き続けて、その結果、癒されることもあるのではないだろうか。これに気付かされたのは、父に死なれたときである。悲しくて、もう会えないと言うことが受け入れがたく、寂しくて、悲しくて、いくらでも泣けた。ところが、泣き続け、情けない自分を感じつついる内に、親が死んで悲しいと泣けることは幸せなのではないか、そう感じさせてくれる瞬間があったのだ。
 同じことが、例えば、失恋した時、受験に失敗した時、大会で敗退してしまった時にも起きるのではないだろうか。「負」を背負った時、悲しみに、苦しみに泣いていると、そのことが「真剣に生きて居た自分」と「けなげに生きて居る自分」に気付かせてくれる。それがために、悲しみをもたらした自分とその過程を受け入れることが出来るようになる。運命を受け入れ、受け止め、自分の一部にすることが出来る、そんな気持ち、情緒がやってくるのではないだろうか。
 悲しいという感情・情緒も「心が動いている」という点ではで感動である。心が動くことで、人は生き、行動する心力を、意欲を再生産しつつ命を燃やしてゆくのではないだろうか。ならば、その力点が、発火点が「正」でも「負」でもいいではないのか。というか、正負分けることに意味があるのだろうか、そう思うのである。





まだ生きているご近所感覚
  我が家の隣に、空き地があります。父が花畑にし、整備することを条件にお借りする約束がありました。残念ながら、父は、8年前に他界、私が年一・ニ度草刈をしております。
 その空き地に、今までも、たまにはあったのですが、最近、頻繁に、缶、ビン、ペットボトルが捨てられるようになりました。その都度、拾っています。そんな中、ふと、集めて、まとめてそのまま空き地に置いておいたら、どうなるかとアイデアが浮かんできたのです。まとめてあるということは、ゴミを気にしている者がいるという合図になります。我が家は裏通りですから、ご近所といえる方が捨てていると察し、ならば、効果はあるとふんだのです。
 それ以後、一度、まとめて置いてある所から、少し、離れた場所に捨ててありましたが、それも、まとめて置いてからは、一度も、投げ捨てはありません。実は、不安だったのです。合図が無視されるのではないかと。しかし、ほっとしました。まだ、ご近所感覚が生きているなぁと、安堵、安心、そして、有難い思いにさせてもらいました。
 これを契機に、父の真似をして、花で一杯にしてみようかと言う気になっています。ベンチでも置いて、ご近所の散歩グループ、犬の散歩の休憩所、兼、語らいの場になれば、一つの文化になります。