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早期退職後の生活を省みて、ものの見え方、心持ち、生き方の変化を確認しながらの日記です。人生、社会の動きにも眼を向けたいと思っています。
三光作戦とイラク戦争
 ある必要のため、受験参考書を学習中です。明治時代までは、学習に専念できたのですが、大正あたりから、考えさせられることが多くて、進度が落ちています。
 なぜ、憲法原則である立憲政治を否定してしまう国家総動員法を、いとも簡単に、成立させてしまうのか。広く承認されてきた天皇機関説が、軍出身議員の「国体にそむく不敬な説だ」発言だけで、軽く、葬り去られましまうのか。政党政治を揺さぶってきた軍部大臣現役武官制の復活を許してしまうのか。これ等に苦しみ、今の政治と照らし合わせながら、考えてしまうと先に進まないわけです。
 その中で、現在と、ピッタリ合致する事例に気付きました。盧溝橋事件後、予想に反して、収まらない事態に焦る中で行われた「三光作戦」と、アフガン・イラクでの米軍軍事行動が酷似していることです。参考書は次のように言います。「中国では、抗日の気運が強く、日本軍は抗日ゲリラの拠点と目される村々を焼き払い、住民を殺害する武力掃蕩作戦を実施した。この三光作戦は中国側の非難を浴び、中国の抗日運動は更に活発になり、抗日根拠地は拡大されていった」今後、イラクで何が起きるのか。これに従えば、ますます、民心は離れ、ゲリラは支持されてゆくことでしょう。
 米国は相手をテロと言います。しかし、貧者弱者はテロでしか対抗軍事行動をとれないだけで、彼らにすれば、テロは軍事行動なのです。一方、米軍による軍事行動は一般市民を殺していると言う点ではテロです。己のテロを「テロとの戦い」としている欺瞞に気付かないのなら、事はこじれるだけでしょう。
 日本は中国北東部支配を諦めなかったために、世界を敵にして戦わなければなりませんでした。これに伴う自他の損失は数値を超えるものがあります。米国政府に、自国の平和運動や、国際市民の声に耳を傾け、事態を収める賢明さを要請します。
  
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魂を感じる
 死を意識させられる時、我々は己が生き物であることを思い出す。死にたくないという正直な気持ちがあぶりだされて、生物に帰るのだ。死を突きつけ、生き物であることを思い知らせて置いて、死が怖いと言わせず、死を強制した戦前の国家の理不尽さが、改めて、憎い。
 それはさて置き、死が恐ろしいのは、自分が無くなってしまう恐怖である。だから、死は肉体の死であり、魂は、意識はなくならず、あり続けると思いたい。その居場所としてあの世もあると思いたい。こうして、魂とあの世はあると期待されているに過ぎないのであり、そんなものはないのだ。これが21世紀科学時代の知性である。だから、これに敢えて反論するには勇気が必要だろう。理知的であることに価値を置く我々は、魂やあの世はあって欲しいと思っていても、在るとは言えず、信じることを躊躇しているのが実情ではないだろうか。
 しかし、思うのである。昔の人達だって、目に見えないものを「在る」というには、それなりの存在実感体験をした上で「在る」と主張したのではないだろうか。あまり、ご先祖様を馬鹿にしてはいけないと思うのだが、どうだろう。
 私の場合、「信じてみたい」と思うのは、死者の無表情と化した、下手な人形の面のような顔を見るからである。この「面」には表情がない。それは何かが抜け出したとしか思えないほどに、物化している。生気がなく、動き出すだろうことを諦めざるを得ない絶望がある。それにはこの世との連絡が絶えてしまったと思わせる断絶がある。電池を抜いてしまった人形が動かぬように、人からも電池が抜けてしまったと思うしかない。その電池を「魂」と呼ぶ気持ちを祖先と共有できる自分がいる。
 能面は、不気味である。無表情に作られているからだ。そのわけは、能が能面一枚で、喜怒哀楽全てを表現しなくてはならからだという。演者が面に表情と感情と更には、人格を与える。だから、はずされた能面には人格も魂もない。死顔と能面は抜け殻で在る点で同じであろう。ただ、抜け出たのが死者の魂か、生きている演者の魂かの違いがあるだけでなのだ。
 魂の存在を感じられない、信じられない、あるいは、ないと言うのであれば、魂が感じるほとばしる様な「生・命の喜び」も他者の「生・命の喜び」も感受できないだろう。「酒を楽しめないことは人生の楽しみの半分は捨てているようのもの」と酒好きは言う。魂を感じ始めた私は、同じことを言いたい。「魂とあの世を信じられないことは、命を半分も膨らさずに生き、死ぬことだ」
楽しく仕事が出来る権利
 「楽しく仕事がしたいんです」「馬鹿野郎、仕事が楽しかったら、給料もらえるか。楽しませてもらって、その上、金を持って行くか」こんな会話が交わされていませんか。「苦しさと我慢の報酬が給料である」と言う見方は、一般化しているように見えます。
 もし、経営者が、「仕事は辛くて当たりまえ」「楽しさを求める者はいらない」と、本心そう思っているのなら、「勉強は、苦しく、我慢してやるだけのもの」と考えている教師と同じです。学校では、授業中、生徒を拘束し、生徒の命を教師が占有しています。なのに、「興味深く、成長させる楽しい」授業をしないならば、許されないでしょう。少なくとも、「授業は苦痛なもの」と決め込んではなりません。もし、教師が教材研究に熱心でないなら、生徒の時間を預かっているという自覚がないなら、生徒は抗議して当然と言うものです。
 授業を仕事に置き換えれば、同じことが企業にも言えます。経営者は、楽しく仕事が出来る環境を創る責務があり、社員には権利がある。基本的人権に「楽しく仕事ができる権利」を加えなければならない程に、切羽詰まった労働環境にあるのではないでしょうか。
 先日の、秋葉原殺傷事件は、道義法律的には、もちろん、個人の責任です。しかし、時代がその背景にあることは誰にも否定できないでしょう。自分が頑張り、たとえ、評価されたとしても、安定した仕事と収入は与えられない仕組みになっている。機械の部品を変えるかのように、つげ替えられるだけの存在として雇われ続ける。それを思い知ることは、アウシュビッツのユダヤ人が覚えた絶望と低通しているように思われるのです。
 派遣労働法は、そもそも、労働基準法と矛盾する内容を持っています。はっきり言えば、労働基準法違反です。だから、多くの規制を掛けたのです。その規制を緩和し、殆どの職種に適応したことは労働基準法を骨抜きにすることだったのです。その悪影響が、サービス残業、過労死、派遣労働法違反、外国人研修制度の悪用等になっているとも見えます。
 「楽しく仕事が出来る権利」を念頭に、労働法制改革をしなければならないでしょう。また、市民もこの権利の意識化を心掛けて見る必要があるように思えるのです。
 
生活の眼で見るとテロ国家
 テレビ報道で「テロ支援国家」と聞くたびに、違和感を覚えてきました。私には北朝鮮が「テロ国家」に見えるからです。
 拉致被害者は日本・韓国だけでも数百人います。ドル札の偽造、麻薬の生産販売もしていると聞きます。国語辞書は「テロ」を「暴力や、恐怖手段によって、政治的、思想的対立者を倒そうとする思想と行動」と説明しています。ならば、テロそのものです。
 一方、辞書に従えば、最上級のテロは戦争となりませんか。言われるまでもなく、庶民の生活感覚には、イラク戦争は「テロ」に見えてました。こう見ると、ややこしいことになります。「福田さんは、テロ国家(アメリカ)に他のテロ国家(北朝鮮)のテロ支援国家指定を解除しないように頼みに行った」となるからです。首相が「暴力団に、他の暴力団の暴力団指定解除をしないように頼む」これは文章になっていませんし、あり得ません。しかし、福田首相は渡米しました。生活者の目で見ると、政治が国民生活から学ばないと、滑稽なことになる良い例です。 しかし、あまりにも例が多いために、可笑しくても笑えません。市民の生活から未来は生まれるのです。
焼きいも持って落葉のお礼
 旧職場では、落ち葉を掃き集め、ごみとして出しています。お願いしておいた「ごみ」が40袋も届きました。そのお礼も含め、我が家産のサツマイモを、焼き芋にして持ってゆきました。
 この焼き芋、50年前なら、多くの家庭でやっていましたが、あまり、見られない風景になりました。その物の命を生かし、使えるものは利用して、いただいてから、自然に戻す営みを、あたり前に、やっていたものです。リサイクルと言う言葉はありませんでしたのにです。リサイクルと言う言葉を皆がを知らなかった時に比べ、今の方がリサイクルはされていません。ボランティアという言葉がなかった時の方が、ボランティアが自ずと行われていたのに似ています。
 季節が与えてくれた枯葉とサツマイモと、それが作ってくれた交流が有難く、その上、皆さんに喜んでいただき、楽しい日となりました。というか、たいしたものでないのに、「美味しい」と言って見せてくれた気遣いが嬉しい小春でありました。これが、自ずと為されるボランティアであり、リサイクルなのかもしれません。
都は花盛り
 卒業生と東京に出ました。六義園と旧古河庭園を見学し、こころ和ませ、多少贅沢な食事をし、秋葉原でDVDを、駿河台下で本を買う一日です。
 しかし、いらぬことに出っくわすのが、都です。国電に乗って、二人並んで腰掛けるために「済みません、一席移っていただけますか」と若い女性に声を掛けましたら、眼も合わせずに前の席に移っていきました。そして、私を睨んでみているのです。様子を見て、自ら、席を空けるくらいの目配りができて、大人です。それを私からはいえませんが、誰かが教えてやらねばと思った次第です。
 そういえば、私達が子供の頃は、席に座っている者が前に居る人に「荷物を持ちましょうか」と声を掛けたものです。必要な人に、席を譲るだけではなかったのです。何か安心できる時代でした。銭湯に行かなくなったせいでしょうか。人と人との壁が高く、厚くなったのは。
 上野広小路を歩いていたら「うるせんだよ。馬鹿野郎なんだかんだ」目線が定まっていないので、誰に言っているのか分からないのです。すると、秋葉原への道で「やっとなそれそれ、ハアハア・・・・」やはり、目がうつろです。「おいおい、色々、いるなあ」と言ったら、連れが「先生、さっきの駒込の男と似た症状ですね」と言うから「ええ、居たかいそんなの」一時間あまりで三人もお会いさせていただきました。連れ曰く「東京は病んでますね」
 それにしても、色々買ってしまいました。六義園では「ゆず羊羹」(お土産として)、上野では「漬物」「鯛みそ」そして「うな重」に惹か、のれんをくぐってしまいました。秋葉原では、一枚と思っていたのですが、枝雀、金馬、志ん生、志ん朝と計五枚買ってしまいました。なんと、19000円と言われてビックリ、確かに、3800×5=19000です。ということで、本は買わずに、チェックして、図書館で借りることにしました。
 大丸地下では「西京焼き」「果物」「和菓子」を土産に買い求めてしまいました。大きな口を開けて、私の財布に触手を伸ばしてきます。都は楽しや、恐ろしやで、花盛りです。。
ストレスないでしょう?
 早期退職をしてから、19ヶ月目、今までにされた質問のベスト3は「なぜ辞めちゃったの?」「毎日何しているの?」「ストレスないでしょう?」です。
 「なぜ辞めちゃったの」の響きには「もったいないね」「軽率じゃあないの」「辛かったのね」が読み取れることもあります。「毎日何しているの」には「まだ若いのに、ぐうたらしていていいのかね」「暇でしょうがないでしょう」「羨ましいな」が聞き取れることがありますし、現に、その様に仰る方がいます。
 今日は「ストレスがないでしょう」にお答えしたいと思います。そんなことはありません。生きている限り、何らかのストレスと無縁ではいられません。自己実現欲、自尊心、向上心があるだけでも、ストレスは次から次と湧き上がってくるでしょう。最大の原因は己の不完全さです。これだけで充分ストレスです。
 しかし、解放されたストレスがあります。朝、重苦しい気分を意欲に変えなければならない無理というストレスからの解放です。生徒が起こした事件の事実確認をしている最中に、授業の時間が来て、頭を切り替えながら、廊下を教室に向かう陰鬱。これは全力で疾走している時に、急に止まり、180度反対に走り出す負荷を厭う感情に似ています。この負荷からの解放されたことです。
 そして、宮仕えからの解放です。実は、私、教師生活30年で、宮仕えを意識させられたのは、終わりの数年間だけでした。これは幸せなことだと、今、思います。しかし、終わりの数年間はそうではなかったわけです。自分の判断で、動くことは、迷惑がられ、更には、反逆と認定する職場になってゆきました。本来、組織とはそうなのかもしれません。 
 しかし、「組織のために個人がいるのではない」と、言わせないこととは、個である個人の個であることを許さないことです。これはストレスです。これから解放されていることが元気の元です。
見せ付けられる政治家の大人度低下
 皆人は、社会人として、目標達成のために、理念に沿い、熟慮し、方法とタイミングを探り、決断行動している。そのプロセスを踏んで、社会行動をしているに違いない。
 その際に必要な自己知、見識、冷静さ、意志の強さ、忍耐を我々は「大人」と呼んでいる。安部前首相はその辞任の仕方によって、大人らしさの欠如を証明してしまった。
 小沢民主党代表の辞任は、良し悪しは別として、目標実現に向け、熟慮された行動と理解された。しかし、辞任撤回によって、大連立を理解できない石頭群れへの癇癪による任務放棄であり、嫌がらせであったと分かってしまった。自民党との大連立に反対された、だから、責任とって即辞任、という論理的飛躍を可能にするのは、感情の爆発以外にないからだ。もし、辞任表明による求心力向上がねらいであったのなら、自己知と忍耐と見識がなさ過ぎる。
 各分野で、多くの人々が発揮している人間力を国のリーダーが持ち合わせていない不幸と危機の中に我々は居る。
小沢氏辞任政界再編に注文
 小沢代表が辞任を表明しました。気力喪失による任務放棄でないのなら、これは、動かない政治への仕掛けでありましょう。民主党分裂は避けられず、やむなく、自民を巻き込んだ政界再編を早める策動を始めたとしか考えられません。
 そこで、再編となった場合に、各議員に注文があります。政治屋でなく、政治家であるならば、聞いて欲しいのです。今までのしがらみや、お友達関係から身の処し方を考えてはいけません。選挙に有利そうだからでもいけません。決め方は、政治理念を前面に立てた吟味に従うことでなければなりません。これだけです。
 三つの安全保障をどうするかが選択のポイントになるはずです。第一は、憲法9条の非戦原則と、自衛隊を認めるにしても、目標としての非武装理想を掲げ続けるのか、止めるのか。第二は、非正規労働の実態を改善するために、財界に物申す政策変更を採るのか、財界要求を呑み続けるのか。第三に、食糧安全保障を考える上で、自給率を高める政策を採るのか、財界が言うように輸入拡大策で行くのか。
 これ等について、考え方が近い議員同士が集まる政界再編でなければいけません。そうでないと、次の選挙で国民は投票判断できません。再編の意味がありません。ゆえに、政治は動いて行かないでしょう。
軽率な自分を笑う
 NHKの「ほっとモーニング」は、昨日、トランス脂肪酸の健康被害と、その対策に取り組む企業を紹介しました。その夕方、自分の軽率さを知らせる情報が入ってきたのです。
 朝の企業とは、ミスタードーナッツです。この会社には、「アメリカでトランス脂肪酸使用規制」の報が伝わると、消費者からトランス脂肪酸の使用状況に関する問い合わせが殺到したそうです。安全性を第一にしたいと、その成分量を減らしても味、触感を変えない商品開発に取り組むことを決定。油脂メーカー、製粉会社の協力を得て、5ヶ月間の試行錯誤の末、目標の商品を完成したというのです。
 若手研究員達の真剣な仕事ぶりと、それを支え、企業の理念を推し進めようとする経営者の姿に心動かされました。早い話、感動したわけです。昨今、食品メーカーの不祥事が相次ぐ中、真っ正直に、誠心誠意生産に励み、社会に貢献しようという努力と緊張を忘れない企業があるのだと安心させられたわけです。
 そこで、こういう企業を応援しよう。具体的には株を買ってやろうと思い立ったのです。100株でも、200株でも、気持ちだ。パソコンでミスタードーナッツのホームページを開き、調べました。新聞の株価欄に社名を探しました。しかしないのです。上場していないのか?
 ということで、仕方なく、サツマイモの残りを全部掘り起こし、たまねぎの苗を植える準備を始めました。たまねぎは石灰を先に撒かなければなりません。そこで、枯れ草、剪定した枝を燃料に、焼き芋にし、灰を石灰代わりにする作戦で決定。午後、母親と愛犬ぼーとで焼き芋をほうばり、散歩に出掛け、帰って、歴史検定の準備をして、夕方。
 ニュース番組はミスタードーナッツなる言葉を発しているのです。「ミスタードーナッツ」なんだ、なんだと聞き入ると「賞味期限切れのシロップをドーナッツに使っていた」との、耳慣れた報道。耳を疑いました。朝の番組はなんだったのか。あそこで、会社理念実現のためにと、生き生きしていた経営者や研究員の姿とこのニュースをどう混ぜ合わせたらいいのか。混ざらないのなら、どちらが生の真の姿なのか。
 湧いてきた感情は軽率な自分を恥じるものでした。何せ、株を買おうとまで思ったのですから。今、日本・日本人が劣化しているとか、道徳・倫理に欠けるとか言われています。それに同感と想う自分もいます。ゆえに、不安であります。これを打ち消す情報に接し、過剰反応してしまった自分の軽率さを笑う気持ちの方が勝ったのです。
 いい話を渇望している自分の弱さです。いい話を作ろうする自分でなけれだいけないでしょう。そういう自分でありたいと、自分を笑った神無月が満ちる日ではありました。