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早期退職後の生活を省みて、ものの見え方、心持ち、生き方の変化を確認しながらの日記です。人生、社会の動きにも眼を向けたいと思っています。
テレビ番組のクイズではないはず大学入試問題
 歴史検定を受検するので、大学入試問題を精選した問題集を買い求め解いています。我々の頃にも、入試問題に難問、奇問が多いという批判が出ていました。だから、少しは改善されているかと思ったら、逆に、更に、エスカレートしているのです。税金の無駄遣いをやめろやめろと言えば言うほど、それを拡大しようとしていることに似ています。年金問題、政権を倒したほどの大問題としてあれだけ騒いだのに(もう過去になってしまっています)、解決へのやる気も、方向性も提示できません。これは、いまや、日本病です。
 その日本病症状の大学入試問題です。少し具体例を挙げます。 ①東大寺の再興に努めた重源が大勧進職に就いたのは彼が何歳の時か? ②藤原不比等の娘を妻としていない人物を次の中から選べ。ア文武天皇 イ長屋王 ウ聖武天皇 エ淳仁天皇 ③律令制度において、正丁は調のほかに調の(    )を納めねばならないことになっていた(語群なし)。その他多数。所謂、引っ掛け問題という知識よりも、注意力を試す問題もあります。このような問題は、昔も今も、「超一流大学」に多いのです。
 日本史の本質とは何の関係もないことが難問・奇問の特徴です。クイズにもならない知識を頭に蓄積し、人にはだまされないぞと猜疑の目で見る習慣と能力を身に付けたエリートの卵をつくる試験問題です。本質に関心がないから、上の日本病に罹りやすい。そんなことを思いつつ、問題集を解いています。
 実は、歴史検定協会は、受験教科書、参考書を作っている山川出版社が深く関わっています。一流大学はどうも、山川の教科書ではなく、受験参考書を基準に入試問題を作っている気配があります。実は、私、山川の対極にある日本史学習書を作りたいと思っているのです。その私が、いま、その問題集と格闘中です。ミイラ取りがミイラにならないように注意していますが。
 
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コンビニ照明暗くても入ろう
 一次オイルショックの時、ネオンが消え、深夜放送がなくなった。当然だ、仕方がないと多くの人が納得した。なのに今、同じ動きが起きないのはなぜだろうか。
 考えようによっては、今の方が事態は深刻でないか。地球資源の枯渇、温暖化という自然破壊、事故危険性はらむ原子力発電への高依存、中国・インドの工業発展等を考えればその通りではないか。危機、危機と騒ぐ割には危機回避の具体的行動が社会化しない。洗剤やトイレットペーパー店頭から消えてからが危機なのか。
 そこで、一つ提案がある。「コンビニさんは客が気か付く程に、照明を暗くしてみたら」というものである。各店の月間電気使用料は十数万円と聞く。まず経費が浮く。更に、環境・資源問題に敏感になっている消費者は多いから、暗くした意図をテレビで知らせれば、賛同する人達を顧客として迎えることになるだろう。
 コンビニの社会的影響は大きい。いち早く、実施することを期待する。また、その折は、そのチェーン店で買い物をして、皆で応援しよう。(ちなみに、あるコンビニ本部にこの提案をしたら、今のところその方向にはない、とのことでした。)
はいて寝たはずの靴下をはいてない朝
 今日は、少し、興奮してのご報告です。いつも、12時ごろに寝ています。すぐ眠りに入るのですが、3時ごろ目が覚めて、その後、眠れないことがよくあるのです。何もなくても覚めるのですから、地震は、もちろん、救急車、愛犬の吼え声、遠吠え、雨音で眠りから覚めるのです。
 昨夜は、風邪気味なので、靴下を履いて床に入りました。夢は見ましたが、途中目覚めることなく6時前に目がパッチリ開いたのです。いつものように、横になりながら、胃下垂対策で、腰に枕を入れて、お腹を押し上げ、腹式呼吸。その最中に気が付いたのです。靴下を履いていない。可笑しいなと、周りを見回したら、布団右脇に、記憶にたがわない色のそれが対でありました。
 ということは、寝ている間に、暑くなって、脱いだということになります。昨夜から雨が降り出していましたから、気温があまり下がらなかったのでしょう。しかし、その記憶がないのです。暑ければそれだけで目が覚めるはずなのですが。
 すぐに思い当たりました。「養命酒が効きだしたのだ!!」・・・・一週間程前から、寝る前に、飲み始めていました。以前から、疲れたとき、体が冷えた時に、飲んで寝ていましたが、人に勧めているのに、自分は継続して呑んではいなかったのです。二日前からは、父が愛用していたお猪口で規定量より多く飲んでいました。ここに来て、はっきりとした効果が出てきたのでしょう。
 しかし、驚きです。靴下を脱いだことを覚えていないということです。深い眠りにいたということですから。朝、目が覚めると、家族から「夜中に頭と足が逆さまにいたのに、朝は元に戻っている」と笑われた少年時代以来のことです。
 400年間飲み続けてこられた秘密を知った想いです。経験に裏付けれれた知識、技術、言い伝え、先達の命の積み重ねの尊さを身体で実感させられた朝でした。命の積み重ねに私のも加えて、お勧めする養命酒です。
 
兵の道に共感、でも
 日本史の参考書「詳説日本史研究」(山川出版社)を学習中です。この本は、一流と言われる大学の入試に対応するには良い本のようです。大学の入試問題を解いていると、何か、前に読んだことがあるなぁと、感じることが多いのです。その場合、多く「詳説日本史研究」に思い当たるのです。教科書検定にも通る程行儀良い、大変詳しい参考書です。
 兵(つわもの)の道として、鎌倉期の武士の道徳が説明されています。その徳目は、武勇・礼節・廉恥・正直・倹約・寡欲の6つ。この6つの核にあるのは、主従関係の基礎となる「忠」と、一門の団結を維持するための「孝」であったというのです。国司や荘園領主の支配から、他の武士達から、先祖代々の土地や自分が開発した土地の権利と、それに結び付く収益を守るのに、命を懸けていた彼らの生活がしのばれます。
 時代は飛んで現代、この6つの徳目は、時代を超えて、人々を支える生き方を示しているように感じるのです。こんな徳目に縛られなくても、生きてゆけるではないか。そういわれれば、その通りですが、こんな無駄遣いをしていたら、いつかは、しっぺ返しに遭うという不安を禁じえません。なにせ、年間、推計500万トンの残飯を出している国に生きているのですから。
 廉恥、これをも忘れている時代ではないでしょうか。恥なんぞ、くそ食らえ、いい思いができればいいんだ。より美しく生きることを忘れている時代にも見えます。生きることが楽になればなるほど、道徳が不要になっています。「衣食足りて礼節を知る」は通用しません。「衣食足りて人の道を忘れる」これが今の世相のように見えてしまいます。
 兵の道に共感を覚えます。これに「知恵」「慈悲」を加えたらどうですか。これ等の徳目を意識することなく振る舞うのに、、周りが自ずと徳の高さを感受する、そんな人物に囲まれて生きたいですね。
 しかし、この単元の最後には次のような記述があります。兵の典型として描かれている武蔵国の住人、男衾三郎は子達にこう言っているのです。「我が家の前を通る乞食・修験者は捕まえて首を切ってしまえ。斬って斬って、斬りまくり、屋敷の中に生首がたえることがないようにしなければならない」   
 これをどのように理解したらよいのでしょうか。単純に、徳目を称えているだけでは、良い社会、良い生き方、良い人生にはならぬということを改めて思い知らされる一文です。安心して、穏やかに生活することが難しいと思わせる一文です。どうすることもできない現実・苦境・地獄の前に立った時、私達が試されるのだと言うことは、いつの世も変わらないということでしょうか。その時の来ることを覚悟しておかなければいけません、ということでしょうか。
 これだけ豊かで社会が高度に構築されている現代でも、男衾三郎達が感じていたこの世の「すざまじさ」との緊張感を忘れることは許されないのでしょう。
おばさんが元気な訳
 退職して二年目、なぜ、おばさん・主婦が元気なのか分かったような気がします。生に、命に、生命に即して生活しているからだと思うようになりました。
 生活とは、その環境を整えて、三食作って食べて、会話して、くつろいで楽しんで、寝るという単純なことに過ぎません。それを、素直に、当然として、やれるのが主婦であり、おばさん達です。過去、数千年・数万年、人類がやってきたことの延長線上で生きているために、自然で、無理がない命の使い方をしているのです。その使い方は、この生き方で間違いはないという確信と、確信ゆえに、この生活を守らねばならないという意欲を与えるのです。
 ところが、中年男性は生きることを難しく考えています。或いは、そう暗示に掛けられているように見えます。大きなものを背負っている、気力と気迫で緊張を跳ね除け、大仕事をするのが男だ。日本を支えているのは俺達だと思っているかもしれません。その気負いから空元気でもいいから、頑張って見せるのです。他人にも、自分にも。
 しかし、主婦の毎日の仕事と比べて、男達がやっている仕事が大それたことかと言うと、そんなことはないのです。三食を作る方が大それたことともいえるのです。何せ、命を支える直接の行為ですから。主婦はその大仕事をしながらも、生活の主人公は自分です。自分と生活は一体です。命が求める生活は、自分自身が求める生活でもあるのです。これほど、心地よいことはないでしょう。服を着ながらも、締め付けがなく、着けていない錯覚を楽しめる。これが、おばさんが元気な理由です。間違いありません(私も、はまりかけています)。
 
たかが亀田問題、されど亀田問題
 以下は、2006年、9,2 に朝日新聞「声」に投稿した文です。これも残念ながら、ボツになりましたが。
 亀田選手の、8月2日の対戦相手ランダエダ選手との初防衛戦が決まった。
 勝利後の亀田に対する風当たりは厳しく、疑惑の判定と揶揄された。観戦した私は「どちらが勝者となっても可笑しくない」と思っていたので、判定を素直に受け取れ、祝意も湧いてきた。だから、その後のマスコミの扱いに、むしろ、驚いてしまった。
 それまでの、パフォーマンスへの不快感と、その際どさを色あせさせる判定勝利にしてしまった「裏切り」に対する侮蔑が、この扱いから読み取れた。
 確かに、早稲田実業の斉藤選手の礼儀正しさ、清清しさとの対比は際立っている。しかし、彼に下品という烙印を押すのは、まだ、早いのではないだろうか。それは彼が負けたときにやってくるだろう。彼の本質がその時に、観られるはずだ。
 その時に、自ずと、立派な態度採ることを、そして初防衛戦に勝利することを信じて、期待してしまう私である。あれは、自分を追い込むためのパフォーマンスであろう。彼は自分の弱さを知っている。
 以上です。10月11日の試合は弟のものですが、父親も含め、負けそうになった状況で採った彼の行動は、私の期待に反するものでした。負けたときに彼の本質が見えてくることに間違いはなかったのですが、その本質が、裏切りです。
 世間が、こぞって、一方的に、批判し、それが、試合判定にまで疑念を示す程、延長していることに危険な臭いを感じての投稿でした。世間のボクシングファンは彼ら、亀田家の本質を見抜いていたのでしょうか。
 誰が造った雰囲気かも分からない内に、国民が一つの判断に流れていってしまうヒステリー、地に足を着けない生活感。冷静・多角的にものを見ようとしない幼稚さ、白黒・善悪・好き嫌いに分けないと解かった気になれない単純さ、分けないと気がすまない不寛容さを国民がさらけ出してしまっている。そのように感じました。これがスポーツに関することに限られるなら、まだしも、政治への態度にもなっていることに、怖さを感じているのは私だけでしょうか。
 小泉元首相が仕掛けた、政界現状の単純化表示(単純化ゆえに嘘・間違いを多く含む)に乗っかってしまった衆議院選挙を思い出します。たかが亀田問題、されど亀田問題であります。
平成騒草子
 世は情報化社会とて、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、インターネットにて、ありしこと、ありなんこと、あり難きこと、こもごもを得るに困ることなし。便利この上なきことと思うなり。あり難きこととも思うなり。
 しかるに、当世は大量消費社会にてもあり、作られては、売られ、買いては、味わう間もなく、わが身を通りすぐること、はなはだし。これ、誰にも止められぬ定めなり。或は、我が性なりしや。情報もこれに漏れず、同じこと変わらず。食べ残し残飯が、臭い発する前に、すばやく、護美扱いされるがごとし。わが身離れし、御物が水洗にて、清清しく、未練なく、我を見捨てるが姿なり。
 人々の身を、ただ、騒々しく、通り過ぎるがだけの知らせ・知識なり。情報をば、共有するがためのマスコミュニケーション。なれど、共有が力にならず、社会的現象にまでに高められず。知識として誇る価値のみ認められり。それをば活かすことと思わざるなり。そは危なきことと承知したり。ただ、騒草子。
今日より明日は良く生きたい
 戦後、権利権利と言いすぎる、権利の横暴、権利はわがまま、法律・規則より権利が大事なのか、権利が国を滅ぼす等々言われています。基本的人権を保障するとは、現実生活に中で、どうすることなのでしょうか。
 これについて、人間性、個性、生命を大切にすることであると言われます。間違いないと思います。しかし、ピンと来ない、腹に収まらない感じがします。何をどうしたらよいか、そのメッセージが含まれていないと感じるからです。そこで、次のように、言ってみたいのです。
 人間性・個性・生命を大切にするとは、その可能性を膨らますことでだと思うのです。。誰もが、昨日より今日を、今日より明日は、より良くなりたい、より良く生きたいと思っているはずなのです。その想いに共感し、認め合い、応援し合うことが基本的人権の保障の内容と言いたいわけです。人権の核は「希望」です。
 「お前は駄目だ。将来が見えているぞ」よく言われていると思いますが、これは、親・教師による人権侵害です。「殺人」「死刑」「過労死」「いじめによる自殺」明日を奪うのですから、人権侵害です。様々な装いで「他人の労働を奪う」その結果、抜け出せない仕組みになっている「貧困の蓄積」。これも人権侵害でしょう。そして、最大の人権侵害は「戦争」です。
 皆が、お互いの「希望」を応援する、そんな地域に住みたい、そんな集団・組織の中に居たい、そんな社会になって欲しいと思われるでしょう。でも、それは、理想であって、現実ではないとも思われるでしょうか。そうだと思います。そうだとすると、基本的人権のもう一つの顔が見えてきます。基本的人権を息づかせることと、理想を実現することが同じだと言うことです。人権を保障し合えることが理想の中身であり、理想社会の姿です。
  
「天から与えられた」では頭に納まらない 
 基本的人権は「天・神から与えられている」のですが、これがまた、理解を妨げます。天・神という、あるなしを確認できず、言葉だけで実体がない、頼りない存在が「与えている」と言われても、笑ってしまうか、戸惑うかで、頭に納まる知識にはならないのです。
 「目に見えないもの」は感じることでしか、存在しません。存在を説明できないのです。それは、神も天も同じです。では、人権を我々はどう実感するのでしょうか。あるいは、しないのでしょか。 沖縄戦で、自殺を強要された。特攻をしざるを得ないように仕向けられた。これを経験する者は誰でも「死にたくない」を言えないのは可笑しいと思うのではないでしょうか。それが、人間の自然です。それこそ、天理です。誰もが、可笑しいと感じる時に、それを拒否できる「力」が、救ってくれる「力」があって欲しいものだと思うでしょう。水戸黄門の「印籠」が出てきて、皆、安心し、納得して、一時間は収まるのと同じです。
 家老や代官や、それとつるむ商人・やくざ等の悪が支配することは可笑しい、だから、それを封じ込める力があってしかるべきだ。そこに、印籠が出てきます。印籠は、可笑しいさに対抗するために人々が持つ力の象徴です。印籠を期待する我々の想いが、基本的人権の存在を裏付けているのです。その想いが分かる者は人権が「在る」と主張するでしょう。
「人権」が「権利」では説明にならない
 基本的人権を、高校では「誰もが、生まれながらにして、天・神から与えられている、国家さえ奪うことができない権利」と教えています。テストには、丸暗記して点数を稼ぐ子は多いでしょうが、この説明で、理解できる生徒は多くないのが現実だと思います。。
 そもそも、人権を「国家さえ犯すことができない権利」と説明していますが、「人権」は「権利」では説明になりません。「人権」は「人権」と言っているに等しい。こんな人を食った説明はありません。机は机だよと説明しているのですから。机は「勉強、読書、書き物をする時に使う家具」です。この「家具」に当たる部分が上の説明にはないのです。では、「家具」に当たる言葉はなんでしょうか。基本的人権や権利は、そもそも、何なのでしょうか。それは「力」です。人権は、国家さえ奪うことができない「力」と言って、そう大きな間違いはないと思うのですがどうでしょうか。国家権力という力に見合う個人の力です。人権は、国家・集団対個人、個人対個人間の、力のバランスを保つための知恵なのです。
 
言えば言う程非リサイクル
 学校では、年度初めに、各家庭から雑巾を頂いています。母親手作りの、様々な大きさや柄の、色々な作品が集まったものです。しかし、近年、市販の雑巾が目だって増えてきました。
 これは、家庭の生活文化が貧しくなったことに加え、リサイクルが後退していることを窺わせます。また、近所のくず鉄商のお話では「私達は、昔ながらに、集めた物を分解してリサイクルに回しているが、公共の施設では、市民が分別して出した資源ごみまでもが、埋め立てされることがある」とのこと。資源再利用と言われれば言うほどに、聞けば聞くほどに、逆の方向に流れているように感じます。資源の投棄を誤魔化すために、リサイクル旗を掲げているのでしょうか。
 資源非リサイクルもさることながら、表の掛け声と、なぜか、違う方向に向かってゆく、この国が心配になります。
我が畑に捨てられた木材
 7月下旬から今まで、放っておいた、草深き畑の開墾作業を昨日から始めました。草刈機を使っていると、十センチ角で、1、5mほどの、古びた木材が出てきました。置いた記憶がありませんから、誰かが、草に隠れて分からないだろうと、捨てたのだと思います。他人の土地に無断で、放棄するとは、その根性が気に入らない、と不快になり、誰だろうと、詮索しました。しかし、怒りが込み上げて来ない自分の冷静さに驚きました。
 この木材、かろうじて、生き残っているサツマイモができたら、焼き芋にするのに使おう。ゴミと思うから腹が立つ、卑しい性根と決め付けるから、説教したくなる。使ってくださいと置いてくれた物と思えば、有難い。そんな風に思える私です。
 門前の花屋が娘が子を産んだ。「誰が父親か」と問いただすと、白隠禅師だと言う。花屋は、悪言雑言の限りを尽くして、赤ん坊を置いていった。身に覚えがなかったが、何も言わずに、引き取った。少しして、真相を知った花屋は、赤ん坊を返して欲しいと言って来た。謝りもしないが、気にも留めずに、言うがままに、応じた。
 すごい人がいるものだと、頭が下がったのものです。この白隠禅師の境地に、近づいたかと、悦に入っていたのです。が、やはり、凡夫・衆生の私でした。もし、捨てられていた物が、産業廃棄物ならどうするのか。怒る余裕もなく、うろたえてしまうのではないか。小心者の迷いと混乱に頭の中を支配されるて仕舞う自分が見えてきます。やはり、悟りとは縁がない私です。情けない限りです。なのに、そんな自分が、愛おしく、好きでもあるのはなぜでしょうか。
今後の進路幣原外交に学ぶ
 歴史検定を受検します。そのための学習をしていましたら、幣原喜重郎が、なかなか、面白い人物と分かりました。また、今後の日本を考える上で、参考になる彼の政治姿勢であります。
 幣原喜重郎は、戦後、GHQが示す原則・政策を国内化させた功労者です。それも、決して、意に反して受け入れたのではないと思います。しかし、かれを評価する上で、これにも増して注目すべきは、戦前、彼が行った平和・協調・自主外交でしょう。その小気味よさも含めて学ぶものがあります。
 昭和2年、蒋介石の国民革命軍が漢口のイギリス租界を回収した時、英国は日本に共同出兵を提案してきました。が、中国内政不干渉政策により、これを拒否しています。またその直後、革命軍によって、南京の欧米・日本の総領事館が襲われた時も、対中国報復攻撃に、わが国は同調しなかったのです。その時の、外務大臣が彼でした。
 今の政治が「よく分からない」のは、言動不一致に加え、原則・政策が曖昧なことではないでしょうか。「ノーと言えない」のも、同じことでしょう。もし、幣原に学ぶならどうなるでしょうか。
 現在の憲法という原則に従えば、イラク戦争に自衛隊を送ったことが間違いであったのです。それは、イラク派遣隊の隊長であった現佐藤参議院議員の証言で明らかです。「オランダ軍が攻撃されれば、巻き込まれたとして、応援のため、攻撃する覚悟であった」という怖い話のことです。間違いですから、今すぐに、自衛隊を帰国させるべきです。
 その上で、9条論議が必要かどうかから始めるべきでしょう。必要となったなら、国民的議論を行い、国家的判断を下す。少なくともその間、自衛隊が軍事行動に関わることがあってはなりません。それが筋と言うものです。
愛なき厳しさは冷酷
 相撲に関心がない私は、朝青龍巡業サボり報道と相撲協会の手際の悪さに、うんざりし、日本のリーダーがその資質を失っている一例だな、ぐらいにしか、見ていませんでした。しかし、弟子死亡が事故ではなく、事件であるとの報道に変わり、深刻に受け止めるようになりました。
 学校教育においても、体罰は大きなテーマです。尊敬する校長に「体罰はいけませんよね」と言うと「簡単にそうとはいえない」との答えに、首をかしげたことがありました。が、今になって、分かる気がします。自分を受け入れ、根底では、信頼してくれていると思える人物からの体罰は、暴力と感じないという世界があると気付いたからです。しかも、それは、より熟練された教育段階でもあると思うのです。
 力士養成は教育でありますから、厳しさも必要です。なぜなら、厳しさのない教育は、無力だからです。しかし、愛情がない厳しさは、冷酷なのです。もし、被害者が親方や兄弟子の愛情を感じられたのなら、実家に逃げ帰り「いい子にするから、家に置いてください」とは言わなかったでしょう(十代後半の言葉、表現ではありません)。親方を信頼していた親御さんが「頑張れ」と言ったのは愛情です。その愛情を裏切った冷酷さは批判されて当然です。
 「権力ある者はそれを使ってはならない」この厳しさを己に課して、日常としている者だけが、いざという時に、それを使う資格があるのだと思います。自分への厳しさの欠如も冷酷さの源泉です。

一つを得るには一つを失う その③
 「一つを得るには一つを失う」これを理解できないがゆえに、京都議定書に合意しません、銃所持規制も進みません。生産活動は、生活を豊かにする一方、環境を壊します。環境の回復をするためには、CO2排出を抑えるための経済的代価を払わねばならない。これが道理です。しかし、アメリカの合理主義は豊かさを手に入れるし、環境を守るための代価も払わないというものです。
 そのアメリカが、この合理を原理までにしたのです。グローバリズムという原理です。原理ですから、何にも優先され、他を犠牲にしてでも、具現しなければなりません。「一つを得るのに一つを失う」ことを非合理としたその頭で、原理主義者になった途端に、一つを得るために,一つを失うどころか、全てを犠牲にできるようになるのです。イスラムがアメリカグローバリズムという世界戦略に抵抗する。イスラム原理主義が一番危ないというが、自分も原理主義者なのです。 
 そのアメリカに日本は、政治経済においてべったりです。危機感を抱きます。しかし、文化においては、むしろ、「日本的」を主張しているのではないでしょうか。藤沢周平作品の度重なる映画化がその象徴でしょう。日本人の魂が、もうこれ以上、アメリカ的なものを受け入れるのを拒否している現状があると思うのです。
 双方の原理主義は一つを得るために多数を失い、犠牲にして憚りません。「一つを得るためには一つを失う」だけでよい、あるいは、「失われねばならない」のです。この道理に寄って立つ、日本人でありたいと願います。
一つを得るにひは一つを失う②
 福沢諭吉がその自叙伝の中で、当世の学生がキセルをしていると聞いて、次のようなことを言っています。万物は減りもしないし、増えもしない。一つが壊れれば、一つが生まれ、一つが失われれば一つが得られる、それが天の道理である。東京から新宿まで移動できたという得るものがあれば、それに対して失うものがある。それが運賃という現金であるのが今の世の道理だ。と言いたかったのでしょう。儒教的教養が言わせたことに間違いありません。
 このものの見方は、江戸時代、武士はもちろん、地主、豪商、更には、庶民にも広く行き渡っていたのではないでしょうか。石田梅岩の心学の広まり、寺小屋が儒教的教養を持つ浪人、僧侶、神職、富裕な町人等によって運営されていたことでも予想されます。キセルの流行は、西洋思想の啓蒙に力を注いだ福沢にして、日本的道理を解さない学生に忠告する必要を感じさせたのでしょう。
 わが国は、西洋近代合理思想をあらゆる分野で、受け入れて来ました。特に、戦後の、中等・高等教育の爆発的広がりの中で、この合理主義は、国民に定着しました。仏教・儒教のことより、西洋思想の方により詳しいのではないでしょうか。
 その結果、我々は日本的道理とは正反対の道理、合理に行き着いたのだと思います。「一つを得るには一つを失う」という道理は合理的ではないという合理主義にです。一つを得るのに一つを失っていては増えない、得しない、豊かにならない、大きくなれない、強くなれない、だから、これは合理的ではない。失わずに得たい。つまり、えさを付けずに魚を釣るマジックをトリックなしで現実にする、魔法のような能力を理性と考える合理主義を身に付けたのだと思うのです。例えば、過労死させてまでも利益を得ようとする現実があります。多くの企業が過労死と認めません。社員を失い、犠牲にしているのですが、その自覚がなく、多くを得ています。鈍感であるがゆえこそ、成立する合理主義でもあります。鈍感と言う魔法を必要とする合理主義であります。
 自分に都合のよい理は多くの場合、天の理ではないでしょう。理とはそもそも、自分の外に在り、自らが従う道理のことです。天理を我が理とする過程を必要とするものなのです。社会・集団が持つ法律、規則にしたがずに、開き直り、逆切れする人たちが増えているようですが、我々人間は皆、天の理に従わず、逆切れしているのではないでしょうか。