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早期退職後の生活を省みて、ものの見え方、心持ち、生き方の変化を確認しながらの日記です。人生、社会の動きにも眼を向けたいと思っています。
一つを得るには一つを失う その①
 高校の「倫理社会」の授業で、古代ギリシャ哲学は「真」を価値の一つにしたと習いました。異存はありませんでしたが、鈴木晋善先生がその例として挙げられた「人間は死ぬ」以外に、いくら考えても、次なる真理を発見することはできなかったのです。
 それから、40年しても、発見し、加えられる真理は3つに過ぎません。「人生は苦である」「絶対なるものは実在する」「1つを得るには1つを失わなければならない」の3つです。
 喜びも、楽しみも、救いも、安らぎもあるでしょうが、総体として、人生は苦であり、そう看破することが嘘が無く、虚勢を張らないで済む理解・態度だと思うのです。お釈迦様に、脱帽です。仏教は苦を苦として受け入れながら、苦と味わわないための知恵を修得する宗教でしょう。「人生苦」を前提としています。
 「絶対なるもの」は、今まで、感じることで在ると認識されるのが常でした。感性の世界の話で、いかにも、頼りない存在確認でありました。「その頼りない」を確信とし得た人々が信仰者であり、その信仰ゆえに、聖者にもなれたのです。しかし、現在の宇宙物理学は、「YOU」と命名した何にも頼らず、依存しないで存在し、運動する「絶対実在」を仮定しないと、その学問的構造が土台から崩れるのだと言います。絶対者・神の存在を否定する強い意欲から生まれた科学が、高度になればなるほど、神の実在に依存するという皮肉がハッキリしてきまぃた。
 そして「一つを得るには一つを失う」という真理です。この真理を受け入れられない、受け入れたくない人間ゆえの問題が、とうとう、顕在化し、どんなに、鈍感でも見えてしまう程に、明確になってきたのが今であると思うのです。この問題を発見するチャンスは植民活動していた欧米人が、300年前に、遭遇しています。しかし、気付きませんでした。そして、二つの世界戦争。更に、日本人は昭和40年代初めにも気付けたはずですし、昭和60年前後の数年間にも気付けたはずなのです。しかし、気付かない振りをしてしまったのではないでしょうか。
 
 
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愛情確認後食事をする愛犬
 わが愛犬ぼーは朝食には目も向けず、私に関心を集中する。激しく尾を振る彼に、濃厚なスキンシップで応える。興奮を収めるため「お座り」「お手」静かな息遣いになる。「食べろ」というと、気付いたかのように、食器に食欲を溢れさせるのだ。なのに、安心を背中に表わして、可愛く、行儀が良い。「愛情足りて礼節を知る」ぼーである。
 愛犬を観ていて、感情は犬も人間と、本質的に、同じという確信を持つようになった。ならば、より複雑な人間の心は、より強く、愛情確認を欲しているのではないだろうか。
 過保護が言われる一方で、放られている子供も問題になっている。食事を作ってもらえない、話を聞いてもらえない、優しい眼差しを向けられず、愛を確認できない子供達である。どちらが実態なのか。 
 過保護と言われるが、その本質は過干渉なのだという話がある(これは、児童精神科医の佐々木正美氏が「子どもへのまなざし」という本の中で言っておられる)。入社式に親が付いてゆくのは過保護でなく、正確には、過干渉なのであろう。職業選択に口を出す、手を加えるのも、過干渉である。親自身への評価・世間体が気になっての干渉である。過干渉は自己愛なのだ。
 自己愛で子どもに接する親による過干渉が、過保護と思われている。過保護と言うものはないのだ。その過保護に見えた過干渉が子どもの心を放りぱなしにしている。問題は過保護ではなく、愛なき寡保護なのだ。あるいは、寡関心なのだ。子どもに愛を示し、手をかけるに、何の遠慮が要るだろうか。親は子どもの保護に、まごころを傾ければいい。スキンシップもしたらよい。
関心を持つってどういうこと
 私達が高校生の頃、三無主義の若者達と言われました。若い連中は無責任、無気力、無関心だと批判されたものです。その割には、大学紛争、高校紛争、安保条約改定反対、平和運動と盛んであったと思うのですが、どうでしょうか。
 確かに、三無主義といわれて、そういう面が有るとは思いました。しかし、これは、世代、時代に関係なく、普遍的に在る生活状態ではないのかとも思っていました。大人達は、自分の中にも有る三無主義を平然と、恥じることなく、隠すことなく、見せびらかす若者を理解できなかったか、羨ましかったのではないでしょうか。
 社会科の教師になって、高校生の無関心の壁にぶつかりました。だから、生徒達に「関心を持て」「無関心でいいのか」等、繰り返しましたが、虚しいだけでした。というか、下手な授業に集中しない彼らを「無関心」と見てしまっただけの事なのです。それを自分で分かっていました。 そこで、「関心を持つとは具体的にどういうことが自然と出来ることなのかを考えたわけです。親を大切にしろ、友情は大切だ、ルールは守れ、そして、関心を持て。耳にたこが出来るほど聞いているのですが、では、具体的に、何が出来ることなのかを教えてくれた人は居ません。自分も、生徒達に、言えません。そんな振り返りをしました。
 その結果はこうでした。関心を持つとは「自分だったらどうするのか」を考えることだ。そこで、ドキュメント沖縄戦のビデオを見てもらい「君だったら、洞窟に追い込まれ、敵に囲まれ、最後通牒を受けた時に、どうすると思うか」を問うのです。これは戦争と平和に関心を示すことでもあります。無関心と批判せずに、関心を呼び覚まそうというわけです。それが大人の、教師の仕事と思うのですがどうでしょう。
沖縄だけが熱い
 沖縄戦での住民集団自決に日本軍が深く関わっていたという歴史的事実を、教科書検定がそれと認めないことへの抗議が沖縄に広まっている。県教育委員会が校長に抗議集会に参加するよう呼びかけたというから、本物である。
 強制連行・従軍慰安婦・南京大虐殺、これらにも軍・政府は関わっていなかった、あるいは、そういう事実はなかったとまで言う者が、どうどうと、発言している、昨今である。「事実を国民的理解にしないと、現実にならない」ことを痛感させられる。 
 そのことは、現在進行している事実にも言える。政治と金の問題、官僚の天下り、特殊法人の乱立、大企業による下請け企業支配、派遣労働の裏のからくり。これらは、しばしば、マスコミにも取り上げられているが、「そうなのかね」「そんなものだろう」ほどの国民理解である。「そういう見方もある」で立ち止まり国民規模の事実確定がなされない。直面する現実が像として現れないから、不安だけが膨らむ。
 官僚利権は増幅し、税金・国富の無駄遣いが続き、中小零細企業は労働と生命と誇りを吸い取られ続ける。若者は派遣労働という合法化されたピンハネゆえに結婚も出来ず、子供も作れず、高齢化はますます進む。ラッシュアワーの流れに身を任すごとくに、自分の意志かどうかも確認できずに、人生が固められてゆく。
 沖縄県民は集団自決への日本軍関与を県民的理解としている。この問題「沖縄だけが熱い」では変えられない。事実を現実化できないことが、日本の淀みや劣化の、そして未来が見えない根本原因なのではないだろうか。
 
年金問題、もう一つの問題 ②
 年金制度の本来の意味、本質とは、「相互扶助」制度だと言うことです。このこたを誰もが知っているのですが、問題が起きると、自分がどうなるのかと言うことだけに関心が集中してしまいます。もちろん、個人がどうらるのかは大切なことです。しかし、それで頭が一杯になるのなら、片手落ちであり、この制度の意味を社会構成員が見失っていると言うことになります。もっと言えば、その社会は社会の名に値しない、個の群れに過ぎない塊だと言うことになってしまうのです。
 そもそも、社会保障制度はすべて、「相互扶助」制度です。この仕組みは、事故、災害、病気、死、退職に直面し、生きるに困難な状況にある人達を助ける制度です。そして、これ等の事態には、誰もが直面する可能性を持っているから、「扶助」に「相互」が付くのです。つまり、社会的弱者に生きる基盤と勇気を持ってもらうことに主眼を置いた仕組みであり、想いあふれる知恵だと言いたいのです。
 もしこれを理解できない、そうは思えないという人が社会の多数派はであったなら、社会保険庁の反社会的体質に加え、市民の非社会的体質と言う新たの問題に、日本人は立ち向かわねばなりません。あなたの怒りが「私の年金、老後をどうにかしなさい」というものだけなのかどうか、自分に聞いてみて欲しいのです。
 社会人、職業人として、いい加減で、責任感、やりがいを感じていないだろうという怒りに加えて、弱者に眼が向いていない彼らに憤りを感じます。やっとのことで納めた掛け金を横領できる想像力のなさに絶望させられます。しかし、だからこそ、我々は「相互扶助」の精神の尊さを、掛け金を払いながら、噛み締めたいのです。
年金問題、もう一つの問題①
 次から次と信じられない事実が吹き出ている年金問題。今度は、宙に浮いている年金記録5000万件の内、500万件で、氏名を打ち込んでいない事が判明したとのことです。
 なんとかピア(グリーンピアなどと言いたくもない)に数千億円~数兆円(未だにはっきり分からない)、職員達の住宅や福利厚生にも使われた。実は、職員の人件費、事務用品費も年金掛け金から支出される決まりになっていたとは知らなかった。この驚きから平静を取り戻す間もなく、年金加入者行方不明事件、そして、横領3億数千万円犯罪、更に、今回の名無し加入者500万人何しているの事件。怒り、不信、不安、そして、悲しみと絶望。誰もが立ち尽くすしかない事態です。
 自分の年金は大丈夫なのか、払ってきた掛け金以上の年金がもらえるのか。老後はどうなる。これに対して、誰もが、なすすべがない苛立ちの中に居ます。だからこそ、ここで、年金の本来の意味に帰って次なる行動の方向を考え、決めることが大切だと思うのです。

こころの時代=魂の声に耳を傾ける
 人間が劣化している、人間が壊れている、人間に帰れ、という言葉が発せられています。確かに、そういわざるを得ない世相でありましょう。「何が人間的か」という問いに、どう答えるのかを、今一度、皆が意識的に、確認する必要が有ると思います。
 私が生きてきた、物心がついてからの50年間のいつからか、「人間的」理解が変わった、バランスを失ってしまった、と思います。肉体と結び付いた欲のみに従い、生きる人間像が定着していないでしょうか。貪る、執着する、一過性の満足に身をゆだねる姿、それを、むしろ、よしとし、積極的に推奨する人間と社会の一般化が気になります。
 しかし、これへの、存在的不安は早い時期から出ていたと思います。それが「こころの時代」という精神世界の復権を求めた文化活動です。金より心の満足、結果より過程が大切、名誉・尊敬より、愛されたい。精神の更に深層に息づく「魂」の声に耳を傾けなければ人間でいられないという危機感の現われです。
 佐賀のがばいばあちゃんに注目が集まっているのもこの現れでしょう。「人に親切にする時は分からぬように」「暑い寒いと言うのでなく、夏には冬に感謝し、冬には夏に感謝しなさい」私は、父から「人に物をやる時には、良い物を先様に、残りを自分用に」「自分がやった、俺の成果だというものでない」と注意されたものです。この教えは、がばいばあちゃんと同世代である祖母の受け売りでもあったのでしょう。
 ここに現れている人間の姿は、自分の欲望・都合に合わせて相手を変えてしまう(トマトの品種改良と言う奇形化)生き方でありません。物に執着し、自分の利益だけを求めるもの(自由競争を言いながら、下請け支配する大企業)でもありりません。自分に甘く、他人に厳しい弱い人間(一部の政治家、官僚・教師・警察官)でもありません。善悪、好き嫌い、男女、価値の有無、強弱の区別に、差別化に拘っている姿でもないでしょう。
 相反するものも溶かし込んでいる魂の声に耳を傾けている人間の姿であります。偏った人間理解は魂を痛めつけます。今、軽く観られていた、あるいは、そうしざるを得なかった、今までとは違った種類の欲が声を上げているのだと思います。何が人間的なのか、魂の声に耳を傾ける時が来ているのだと思います。
 
価値追求の可能性と限界
 「価値を追い求めずには居られない」で、人間と動物の決定的な違いは、意味・価値を追い求める、求めない、ではないかと申し上げました。これ意外と核心を突いていると思っているのですがどうでしょうか。
 価値を求める人間は、これにより、生きる喜びという感動を味わうことが出来、快適な生活を実現してきました。また、芸術美術、音楽、映画、文学、スポーツに人間の素晴らしさに心躍らせることが出来るのです。しかし、価値を追い求めるがために我々は限界にぶつかるのです。
 高校の倫理社会でエロスとアガペーという二つの愛の違いを聞いて、基本的な人間への疑問が解けたような気になったことを覚えています。エロスは自分にとって意味・価値あるものだけに、向けられる愛であるのに対して、アガペーは無条件に注がれる愛だというのです。もちろん、エロスは人間が持っている愛の性質です。
 美しい、可愛い、いとおしい、落ち着く、楽しい、頼もしい、尊敬できる,才能がある、頭がいい、金を持っている、権力がある。これらの自分が求める属性を持つ人物にみに、愛が向けられるのです。なぜって、人間は価値を求めるからです。価値実現を妨げる者に対しては、愛ではなく、憎しみ、怒り、殺意で応えます。
 価値実現という欲望は生きるエネルギーを与えると同時に、生きる資格を奪う危険性との緊張を突きつけるのです。なぜなら、人類はアガペーに気付いているからです。それに背を向けながらも、気にはなっているからです。
 突きつけられている緊張を感じない人が増えています。有る欲望を隠すことの方がいやらしい。欲というから、どす黒いが、夢であり希望だと肯定的に、前向きに理解し生きた方がいい。欲のどこがいけないんだ。皆自分の欲にしたがい生きて、それが自然なことだ。この人達も愛さねば成りません!か?少なくとも、尊敬は出来ません。
弱さをただ容認し合う時代 その②
 落語家、春風亭小朝さんが「喧嘩の良いところは、仲直りできること」と独演会で言ってました。彼女と喧嘩した後の、気障な二枚目の決め台詞として紹介しています。間違っても、真似しない方がいいと思います。
 笑いを取るために、この台詞を冗談に言うと「人間は弱いから強くなれる」を思い出すのです。つまり「人間が弱くて良いところは、強くなれること」ということです。人間が弱いことは疑いのないことです。「人間は皆死ぬ」と同じぐらい確かなことです。だからこそ、強くなれる。しかしです。自分の弱さを見詰めることなく、それに苦しむことなく、人は強くなれないと思うのです。弱さを、ずるさを見詰めることなく、「その弱さ、人間的でいいよ。好感が持てるよ」と言い合っていたのでは、お互い、強くなれないのです。と言うか強くなることを回避する儀式が「弱さへの共感ごっこ」なのかもしれません。
 「人間的」を「弱いからこそ強くありたいと願い、もがき、やせ我慢して、生きている。だから好感が持てる」と理解したいのです。強くあろうともがくことを「嘘」「偽善」「非人間的」とする時代になっていないでしょうか。弱さとの緊張感を失ってしまった時代ともいえます。昨今の、政治家、企業トップ、官僚、教育者、警察官、そして、市民の表情を見聞きしていると、そう思ってしまうのです。
 さまざまなストレスに気をとられ、それに対処するだけで精一杯の世の中に見えます。ストレスを見詰めることは弱さを見詰めることでもありましょう。擦り切れない、緊張感ある内面生活を持つことの大切さを思い知らされる毎日です。