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早期退職後の生活を省みて、ものの見え方、心持ち、生き方の変化を確認しながらの日記です。人生、社会の動きにも眼を向けたいと思っています。
弱さをただ容認し合う時代 その1
 集団・組織の中で、皆から、「問題児」視される人物の共通点は、他人の話を聞かない、他人に厳しく自分に甘い、想像力に欠陥があると私は観ています。正確に言えば、それに気付かない、気付けない、そのきがない御仁です。多数派は、自分はこれらに気付いていると思っています。そのことが自分を「問題児」にしない、されない資格と理解しているのです。
 その多数派のことになります。私もその一人(自分ではそう思っているのですが)ですから、我々といいましょう。我々が好きな言葉は「人間的」であります。「それはそうだけれども人間的でいいじゃないか」「それを弱さと言ってしまうのは簡単だけど、その弱さ人間的だよ」ここで「人間的」とは「かっこつけず、弱さを隠さず、自然で、ありのままの正直な嘘がない(だから好感が持てる)」という意味です。
 ここに、「人間的」という言葉を好む多数派の矛盾が見えてきます。ありのままに正直に振舞う、その優等生が「問題児」だからです。しかし、「人間的」と言う点で優等な「問題児」に好感が持てないのです。このジレンマから脱出する方法は「人間的」の理解を変えるしかないでしょう。
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特化改良品種求める我々は
 素人に作れるものは限られています。父が、きゅうりなら地這い、トマトならミニが丈夫で、本来の味がすると言っていたのを思い出しました。
 そこで、流行の桃太郎と一緒に、地這いきゅうりとミニトマトの苗も買い求めました。有機肥料を与えるだけで、皆、すくすく、育ってゆきました。しかし、6月に入り、雨が多くなると、桃太郎が枯れだします。甘く、ジューシーで灰汁がない桃太郎への未練。地這いとミニは元気です。
 農家に伺うと「桃太郎は消費者好みを寄せ集めた夢の改良種だ。しかし、反面、本来の味、性質、自然への適応力、生命力を失っている。だから、病弱で、ひ弱、ハウスでしか栽培できない」そうです。と言うことは、人工的に作られた奇形であるともいえる訳です。地這いとミニは原種に近いから強いのか。
 ここで思い当たりました。特異種を求める我々が、そもそも、人類史上の例外ではないのかと。不自然を自然にしてしまう無理を追い求めている私達は、本来の生命を生きているのでしょうか。不安になるにわか百姓であります。
 
やせ我慢を忘れてしまった日本人
 「無法松の一生」という映画があります。尊敬する主人の未亡人への想いに、自分を責める朴訥な主人公の姿が忘れられません。無いと言ったら嘘になる想いは、自分が畜生であることを突きつけ、正直に動けば、生きる資格を失います。忠孝という筋を通そうとするやせ我慢が尊く、切なく身にしみました。
 席を譲れない若者、給食費を納めたくない保護者、飲酒運転を止められない男達。盗撮・セクハラをする教師、殺人をするストーカー警官、虐待保護をしない担当役人。引責辞任後、顧問に納まる銀行トップ、自由競争を言いながら下請けを強制支配する大企業、外国要人と会談した外遊先で、次期内閣に入りたくないと言える大臣。庶民から国のリーダーに至るまで節度を失っています。
 「真面目」という徳がその地位と価値を失ってから、大分、経ちました。今や、やせ我慢も徳目には入れられず、無意味な自己満足ぐらいにしか思われていません。「欲望に正直に生きることが、カッコイイイ」 ・・・・・・・どんな原爆が、また、落ちたのでしょうか。「人間を返せ」と62年前に叫ばせた状況が、日本の精神世界に、今、起きているように思えてなりません。「人間に帰れ」