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早期退職後の生活を省みて、ものの見え方、心持ち、生き方の変化を確認しながらの日記です。人生、社会の動きにも眼を向けたいと思っています。
雨のときは雨を楽しむ
 父が楽しんでいた畑を退職後、耕作し始めました。晴耕雨読の生活と人は言います。水やりは欠かせず、一時間以上もの仕事になります。けさから雨降り、40ミリは降るといいます。60坪の畑に8トンの水が与えられます。有難いことです。
 しかし、自然は欲しい時に、欲しいだけ与えてくれるとは限りません。だから利己的人間力を自然にぶち当ててきました。結果、快適な生活を手にしましたが、二つの問題が生まれてしまいました。
 一つは、自然破壊の恐怖です。自分の価値、都合を子供に押し付ける結果、子供に反抗される親に似ています。しかもその子は龍であったのです。もう一つは、目的達成的機能化がもたらした非生命的な管理環境に、人間内部の「自然」破壊進んでいることです。
 強い達成意欲は対立を生み、過剰な自意識は緊張をもたらします。人々が、晴耕雨読の生活に憧れを抱くのは、人間内部の「自然」が悲鳴を上げている証拠でしょう。他に、合わせる生き方も大切と、雨を見つめ、雨の時には雨を楽しむ私となりました。


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新たな価値を求めない
 ご想像の通り、ボノボです。森の住民の神話では、かつて、ボノボと人間は一緒に生活する兄弟だったといいます。祖先たちは、ボノボの真似をしていれば、生きてゆけると信じてれて来ました。価値を問う必要はなかったのです。なぜなら、何が価値かは自然が教えてくれ、すべての意味は自然という神が過不足なく準備してくれているからです。
 しかし、いつからか、人間は自然が与えてくれる価値以外に、価値を求めるようになったのだと思います。そのため、人間の価値は安定・固定・停滞から、変化・変動・進化に向かいます。それは同時に、調和・協調から、不均衡・闘争の中に人々を引きずりこむことになったのだと言っていいのではないでしょうか。現代、二つの世界大戦を経験した我々は、闘争・戦争に価値を置かず、協調・平和を価値とし、目指しています。しかし、平和を価値とすることが、新たな戦争を引き起こす現実に直面しています。夢である平和を実現しようと思い努力すればする程、戦争を起こしてしまうと言うことです。
 ボノボの平和で安らかな生活は、与えられた価値を本能の一部として、固定化しているために保障されているそれです。それぞれの価値を自ら、創造することを人間の証としてしまった我々は、もう、ボノボやその兄弟たる森の住民にはなれません。むしろ、その住民達が我々の方に歩み寄ってきています。直感的不安を覚える私です。
 
ボノボと同じ生活
 ボノボの話は、大変、興味深いものです。同時に、彼等が住むアフリカ、コンゴの森周辺に生活する人々の生活・生き方にも心奪われるものがあります。
 コンゴの森といえども、西欧文明は入り込んでいます。しかし、それでも、ここの住民の生活は、森に支えられています。狩猟と採集、そして、わずかな農業の生活に変わりははりません。ここでは、人間も森の恵みを分かち合うことが、主義とか、倫理・規則と言う形でなく、心情として誰も違和感を感じないのです。それ程、森の恵みが豊かであるということも出来ます。
 大人も、子供と同じ遊びを本気で楽しみます。時間・ノルマ・競争に追われることも、強盗・殺人・交通事故・リストラ・長時間労働・詐欺に怯えることもありません。彼らは、自然の移ろいに合わせて、生活のリズムを刻んでいるだけで、幸せなのです。生病老死はもちろんあります。しかし、それらも、自然の移ろいの一部として、悲しく苦しいが受け入れる準備ができているのです。この生き方を教えてくれたのは、示しているのは誰だと住民達は言っていると思いますか。
価値を問わずにいられない
 夫が、喧嘩の時、妻から言われたくない言葉の一番が「この役立たず」だと、ある番組が調査した。もっともな結果である。というか、家庭に限らず、職場でも、地域でも、サークルでも同じであろう。リストラがきついのは、生活が成り立たなくなることだけではない。自分が不必要な人間と判断されたことは同等それ以上に、当人を苦しめるはずなのだ。「自分が居ない方が上手くいく」を認めるのは辛い。
 「自分には価値が無い」は自分がやっていることに価値がなく、意味がないことでもある。「俺がやっていることは意味があるのだろうか」この問い掛けは自分を不安にする。なぜなら、肉体が酸素なくして生きられないように、精神は価値・意味を感じずには生きられないからだ。シベリアの強制収容所の拷問は、囚人から生きる意味を奪ってしまう殺しなのである。
 「どんな人間になりたいか」「何を基準に職業を選ぶか」は、もちろん、全ての行動は意味を動機にしている。それが、良くも悪くも、人間であり、それから、外れることは出来ない。そして、価値を動機とするために、人間は不確定な存在であり続ける。その在り様は、破滅する危険にもなるし、現状を飛び越えて、創造する飛躍にもなる。逆に言えば、動物達は、安定であるが、飛躍は無い。
 動物と人間の違い。「人だけが価値を問う」が今のところ、一番、本質に近いように思うが、痒いところに手が届かないもどかしさからは解放されない。
最良の拷問
 宗教を持つ、持たないが人間と動物の違いなのか。宗教は、人生が苦悩の連続であるゆえに、なくてはならない。救われようがない苦、逃れられない苦があるのだ。最高級の苦が死であることに異論は無いだう。しかし、その死よりも苦しい苦痛があるようである。
 旧ソ連が政治犯と称して、多くの人民をシベリアに送り、強制労働させたことは、知られている。その収容所で反抗する者たちに、施された最良の拷問を知っているだろうか。朝から、晩まで穴を掘らせる。ナチスはその穴の前に立たせ、銃殺。すると死体は、自動的に、穴に落ちるので手間が省ける。その上、自ら墓穴を掘らされるという惨めさを味わわせるサディスチックな支配欲も満たしたのだろう。しかし、これはさっぱりしたものであるとも言えるのだ。シベリアでは、穴を掘らせて殺さない。翌日、その穴を埋めさせるのである。その翌日は、また、同じ場所に穴を掘らせる。これを永遠に繰り返すのだ。気が狂い自殺する日まで。なぜ、気が狂うのか、考えて欲しい。
ボノボも死者に花を手向けない
 ピグミーチンパンジーとも言われる類人猿ボノボをご存知だろうか。共通の祖先から、チンパンと人類が枝分かれした後に、チンパンより進化した類人猿だそうだ。現在、アフリカコンゴに生息、1万頭を切り、年々、減少している。
 アメリカのランボー博士の研究で、「薪を集め、100円ライターで火を点け、焚き火をし、その火でハンバーグを焼くことが出来る」しかも、博士の言語による指示を聞いてのことである。また、このカンジー君は特殊なキーボードを使い、博士と双方向の会話もできるのだ。更に、妹が悪ふざけをした時、博士は試しに、怒って見せ、追いかけ、けりを入れようとすると、カンジーは間に入って、許しを得ようとし、仲裁に入ったのである。その表情は人間の、その時のそれであった。口は利けないが、その知能は人間の5歳から8歳ぐらいと言う印象を私は得た。肉親への愛情を示されると、どこが人間と違うのか、と言いたくなってくる。彼を人間として遇しても、違和感は無いほどである。しかし、人類ではないなだ。
 ネアンデルタール人骨が発見された洞窟であったと思うが、花粉が大量に検出されている。そのことから、彼らは、すでに、死者に花を手向けていたことは定説である。これは、彼等が、死を悲しみ、別れを苦としていた証拠になるだろう。別れの後、死者がこの世ならざる場に行ってしまったと了解しての離別認識ということになる。なぜなら、死後に花を手向ける行為は肉体が滅んでも、霊は存在していると認識している者も業であるからだ。その霊の住処がこの世ならざる場、つまり、あの世であると、意識していたということになる。さすがのボノボも死者に花を手向けないだろう。
 
動物と人間の違い
 「解る」は「分かる」であり、「分けること」と指導されました。だから、教え、解るようにすることを仕事とする教師としては、違いを発見させることが、すなわち、任務と思ってきました。「違いのわかる男の・・・」というコマーシャルがあります。これは、多くの経験を積んだ大人の分別が選ぶコーヒーの魅力を、味合う価値があなたにもありますよ、試してみませんかと、視聴者の自尊心をくすぐっているのです。このコーヒー、売れているようですから、「違いの分かる」能力と、それが与える判断力は人格が完成され、社会的に評価される人物の大事な資質であると多くの人が感じているのでしょう。
 確かに、違いが分かるためには、本質を見抜く力と忍耐力が必要です。多くの経験も積まなければ成らないでしょう。例えば、動物と人間の違いはどうでしょうか。授業で生徒に聞くと、中学校までの学習などから、人間は他の動物と違い ①直立歩行する ②道具を使う  ③言葉を使う  ④火を使う をすぐ答えてくれます。さらに、⑤社会を形成する  ⑥文化を持ち、思想・宗教を創る  が出てきます。あなたはどう考えますか?動物と人間の本質的違いとはなんなのか?完全に、すっきりさせてくれる答えに、私は、未だ、出会ったことがありません。

 
チューリップを切る
 退職して、時間的、精神的余裕から、隣の空き地の草刈を昨年は2度やりました。そのため、太陽の光を受けられるようになったチューリップが8年振りに咲いてくれたのです。
 いち早く、この花に気付いたのは、斜め前のお宅のお孫さんでした。私が、畑で草取りをしていたら、おばあさんと2人で出てきて「成長していくのを楽しみにしているの。もうすぐ咲くね」「そうですか」「あなたのお父さんが植えたチューリップでしょう」「よく生き残ってましたね」10分ぐらい、入学したばかりの小学校の話等、楽しく、お話しました。父がここに多くの花を植えた理由とその喜びの一端を知ることが出来ました。この花のその後の運命を知る由も無く、この時は、感慨にふけるわ私。
 とこらがです。びっくりさせられました。元気になてきた母も、この花に気付いていたのです。一輪挿しにし「きれいで可愛いでしょう」見れば、赤いチューリップ。花で室内を飾り、生活を楽しもうという生活意欲向上の現れです。しかし、「楽しみにしているの」の言葉。「それを知っていて、切ってしまった、なんて意地悪なこと」この流れが、一瞬に頭を走りました。わざわざ、行って謝るのもおかしい。だからと言って、放っておくのも、気にしていたら、まずい。どうしたらいいと思いますか。
つつじ満開のお礼
 父の死後、庭の手入れをすることもなく、7年が経ち、なんとなく、庭の賑わいがあせて来たとは感じていました。二番目の姉の夫、義兄が昨年秋に、無駄な枝や、絡み付くつる草を取って帰ってゆきました。すると、今年、つつじが沢山の花を付けたのです。美しかったのでしょう。一枝切って、洗面台の上に、飾ってありました。老いた母の穏やかな内面を潤うつつじが語っておるようで、こころ和みました。
 姉や姪・甥とは、東京で、映画をみたり、食べ歩き、買い物をし、電話で、しょっちゅう、話をしています。しかし、義兄とは、型どおりの話しかしないことを気にし、申し訳ないと思っていたからでしょう、御礼のファックスを送ろうと思い立ちました。「手を加えれば、必ず、応えてくれるものですね」と書き添えると、姉から、電話があり、今、義兄は庭木の手入れをしながら、同じ事を言っていたところだと。初夏の日差しが強いから、麦藁帽子を買ってこようかと思っていたとこらだったそうです。