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早期退職後の生活を省みて、ものの見え方、心持ち、生き方の変化を確認しながらの日記です。人生、社会の動きにも眼を向けたいと思っています。
あけび書房さんより、また、メール
Eテレでの原爆関連番組3件のお知らせです。



①8月15日AM0時00分(60分)

映画「ひろしま」秘話(忘れられた“ひろしま”~8万8千人が演じた“あの日”)再放送

https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/20/2259675/index.html

https://www4.nhk.or.jp/etv21c/2/



昨日10日23時に放送された番組の再放送です。

映画「ひろしま」の内容、制作過程、突然の上映中止。

それらを丁寧に紹介する、いい番組でした。



岡田英次,月丘夢路,山田五十鈴など当時のスターが出演し、

8万人を超える広島市民が撮影に参加して作られた映画「ひろしま」(1953年製作)。

被爆の惨状をありのままに描いた映画で、

ベルリン映画祭長編映画賞受賞など国際的に高い評価を得ました。

ところが、GHQによって、上映は急遽中止され、闇に葬られることになります。

小生には、いま、愛知県で起きている、「表現の不自由展・その後」の行政による突然の強行中止の事態、

などと重なりました。



②8月17日AM0時00分(107分)Eテレでの原爆関連番組3件のお知らせです。



①8月15日AM0時00分(60分)

映画「ひろしま」秘話(忘れられた“ひろしま”~8万8千人が演じた“あの日”)再放送

https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/20/2259675/index.html

https://www4.nhk.or.jp/etv21c/2/



昨日10日23時に放送された番組の再放送です。

映画「ひろしま」の内容、制作過程、突然の上映中止。

それらを丁寧に紹介する、いい番組でした。



岡田英次,月丘夢路,山田五十鈴など当時のスターが出演し、

8万人を超える広島市民が撮影に参加して作られた映画「ひろしま」(1953年製作)。

被爆の惨状をありのままに描いた映画で、

ベルリン映画祭長編映画賞受賞など国際的に高い評価を得ました。

ところが、GHQによって、上映は急遽中止され、闇に葬られることになります。

小生には、いま、愛知県で起きている、「表現の不自由展・その後」の行政による突然の強行中止の事態、

などと重なりました。



②8月17日AM0時00分(107分)

その映画「ひろしま」を放映します。

https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2336/2972455/index.html

その映画「ひろしま」を放映します。

https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2336/2972455/index.htmlEテレでの原爆関連番組3件のお知らせです。


③ 8月17日 23時(60分  )ETV特集

   女学生たりが見た原爆





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究極の選択
 毎日は、細かく見れば、数百の選択が作り上げています。「何を着て出かけようか」から始まり「昼はどこで何を食べるか」仕事に関わる判断選択など、その他記憶にのこらない選択は数知れないはずです。しかし、そのことを意識せずに、生活しているのが普通です。
15年ほど前ですか、 そこを突いて驚かせる言葉遊びが小中高生中心に流行りました。「究極の選択」です。生徒たち数人が、ニコニコ顔でやってきて「これから、二つの選択肢を示しますから、どちらかを選ばねばいけません。選ばないことはできません。いいですね」彼らの顔はニコニコ顔から、いたずらっぽいそれに変わっています。「では、うんこ味のカレーとカレー味のうんこ、さあ、どっちだ」
 驚きました。「うんこ」と言う言葉です。そもそも、この言葉、そうそう、使う言葉ではありません。家庭でも小さな子供が居なければ使わず、大人社会では、使うことを憚る風
もあります。それを大胆に高校生が二度も続けて使ったわけですから、戸惑ったわけです。
 「さあ、先生、どっち」心をのぞき込むような視線が私に集まります。ここは、彼らの期待に応え、困った顔をすることにしました。「うんこ味の、カレー味の、うん~」生徒たちは楽しそうに笑います。この時すでに、答えは決まっていました。「カレー味のうんこ」は、すなわち「うんこ」です。しかし、うんこ味のカレーは「カレー」です。もちろん、どちらもいやですが、どうしても選べというなら答えはおのずと決まります。
 「どっち」とせかします。ここであまり、悩むと決断力がない教師と思われ、普段の信頼をも失い兼ねないとの職業意識が働きました。「うん、決まった。うんこ味のカレーだ」するとつかさず「どうして」ときましたから、理由を理路整然と述べ、教師の威信を、かろうじて、守りました。生徒たちはそれぞれの立場で話しかけてきて、大盛り上がりの内に昼休みは終わりました。
 この選択は、どちらも厭だという点で、確かに「究極の選択」です。しかし実際に、これを強制され、食べさせられる事態に巻き込まれても、選択できます。その意味で究極の選択ではありません。
 ところが、どうしても、選べない「究極の選択」があります。それは「殺すか、殺されるか。どちらを選ぶ」というそれです。これを迫られたなら、威厳も威信もへったくれもありません。周りかまわずに、泣きわめくでしょう。これぞ「究極の選択」です。しかし、有難いことに、これを迫られることは、今までもありませんでしたし、これからも、まず、無いでしょう。無いことを願います。
 2003年、明石家さんま主演「さとうきび畑の唄」というテレビドラマが放映されました。この年の文化庁芸術祭大賞を受賞しています。同名の森山良子さんの歌がありますから、お分かりだと思います、舞台は昭和二十年の沖縄戦です。
 明石家さんまさん演じる主人公は現地招集を受け、この戦争の中に放り込まれます。分隊規模で移動中、怪我をした米軍パイロットと遭遇、上官は主人公に撃ち殺すことを命令します。しかし、躊躇し、できないでいると「貴様、それでも、大日本帝国の軍人か」との罵声が浴びせられます。すると主人公「私はこのようなことをするために生まれてきたのではありません」その後、上官の拳銃がアップされ、カメラは空に向けられ、しばらくしてから、銃声がして、コマーシャルに。
 コマーシャル後、沖縄戦が終結した収容所での、主人公家族の会話に移ります。主人公は戦死していました。ではあの銃声は主人公がパイロットを撃ったそれなのか、上官が主人公を撃ったそれなのか。主人公は、まさに「殺すか殺されるか」の究極の選択を迫られたわけです。
 これは物語ですが、実際の戦場でもこれに類した「殺すか殺されるか」究極の選択が展開されたのでしょう。まず、ありえない「究極の選択」が活気付くのは、戦場に違いありません。どうしても、選べない究極の選択、それを強制される怖さは、日に、何百もの選択を意識・無意識のうちに、し続ける命の営みを途絶えさせられるそれです。「殺される」を選べば、肉体の死を結果し「殺す」選択は精神の死へ誘いです。肉体の死か、精神の死か、どちらを選ぶのか。選べるわけがない究極の選択です。


戦争の怖さ本質は何処に
 一時期「究極の選択」という言葉遊びが流行りました。幾つも選択を迫まれましたが「カレー味のうんこと、うんこ味のカレーどっちを選ぶ」を強烈に覚えています。笑顔で迫る子供たちに「うんこ味のカレー」と答えたことを覚えています。
 しかし、選べない、選びたくない選択があります。「殺されるか、殺すか」という究極の選択です。先の戦争で、敵国人を殺すことを躊躇ったゆえに、上官に殺された話があります。この非常にして、非情な状況に追い込まれることを想像して、人は戦争を怖れます。一方は肉体の、もう一方は精神の、どちらにしても死を結果するという恐怖です。現に、帰還兵が心を病み、さらに、自殺することは例外ではありません。戦場での究極の選択が人間に何を突き付けるのかをもっと想う必要を感じます。
 作家の五木寛之さんがピョンヤンからの逃避行の経験を踏まえて「より善い人から順に死んでいった」と述べておられます。これほど重い言葉を他に知りません。人を見捨て、押しのけても生き残ろうとする、すべての醜さをさらけ出して憚らない自分に気付いても、人は平然と人間でいられるでしょうか。戦争という非常が迫る究極の選択の、その闇の奥に、自分への否、人間への絶望が待ち構えていること、それが戦争の怖さの本質ではないでしょうか。
 人間誰もが善人でいられる条件の中に、相互に善人と思え合える関係に身を置きたいものです。人間に醜さを曝け出させない知恵・仕組み、それが文化です。文化を愛するがゆえに、戦争を憎みます。

平和
 平和、あまりに当たり前で、聞き流す言葉として定着していたように思います。平和通り、平和都市宣言、平和祭り、平和商会・平和ボケなどというのもあります。
 しかし、その平和の後姿を見ている自分に気付かされる昨今です。今日の陽春を思わせる風も白々しく優しいのです。「憲法を生かす匝瑳九条の会」を久々に、開くことにしました。そこで今日も川柳を。


     追従で国を亡ぼす安保ン丹

     危機の中視聴稼ぐネタ探し

     気が付けば土足で添い寝する戦
新聞投稿「田舎匝瑳から笑う」
 吾が座右の銘は「人を笑わず人と笑う」なのですが、今日はお上を笑いたいと思います。
 南スーダンの政府軍と反政府軍の争いが「戦闘」なのか「衝突」なのかが国会で問題になっています。政府は戦闘ではなく衝突だから、自衛隊を撤退させることはしないと言います。広辞苑によれば、戦闘は「兵器を用いて敵を倒そうとする行動、たたかい」です。衝突は「つきあたること、ぶつかること、主張や意見が対立し、反目すること」とあります。
 戦闘や戦いを衝突と新聞などが使うことがありますが、これは例えです。報道が戦闘と伝え、軍事対立を事実化させ、激化させないための配慮です。スポーツ新聞が試合を「戦い」「激戦」というのに似ています。これは逆に、スポーツファンの観戦モードを熱く盛り上げるための脚色です。「戦い」が本来スポーツ用語でないように「衝突」も軍事用語ではないのです。その証拠に「軍事衝突」と使うのが普通です。「軍事衝突」すなわち戦闘です。軍隊同士の軍事的対立事態は「戦闘」以外に表現がないのです。
 安保法制議論の時に、憲法の解釈を変えただけで、憲法を変えていないし、違憲でもないと突っぱねた政府ですが、ここでも言葉の解釈の問題に擦りかえようとしています。政府は戦闘を衝突と解釈しています。戦闘を拡大させないための配慮のつもりならば、大きな勘違いです。その配慮が自衛隊員を裸のまま危険にさらせているからです。
 本心は、せっかく作った安保法制の実働でしょう。自衛隊員を国会で褒め讃える一方で、彼らの命を道具のように軽く扱うのです。そこで、政府を笑いたいと思います、軽蔑を込めて。
戦争の対義語は文化、平和ではない
 「戦争の対義語は平和ではなく、文化だ」と、私は言っています。戦争が壊すのは飛行場や道路、工場や民家とイメージしますが、むしろ深刻な破壊は人間=尊厳を壊すことにあります。尊厳は文化の源です。ですから、平和という抽象でなく、文化を生み出し、享受する人間を壊すということで、文化が戦争の対義語にふさわしいと考えるわけです。
 明日は広島忌、9日は長崎忌、そして、敗戦の日と続きます。そこで、今日は文化で575を作ることにしました。

     神棚へ文化を担う一拝
                ひとおがみ

 何も絵画や音楽、文学や思想などの才能を有することが文化創造に必要ではない。もっと、当たり前の生活の中に、文化の芯があると、実感するようになりました。

     カレー粉が出汁粉と気付く文化力

試してみてください。トマトスープを作ったら、調味料のように、カレー粉を振りかけてみてください。トマトの刺すような味が消え、においも弱まりますが、カレー味にはならないのです。トマトスープの隠し味はカレー粉と八丁味噌です。鰹粉という文化がカレー粉を出汁にしました。

     だし汁は文化煮詰めるなすの味

     芸術の孤高を笑う俗文化

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 本日の朝食です。蓮のきんぴらと、かぼちゃの煮つけは「ふるさと市場」で購入した地域の主婦たちの手作りです。納豆は添えてあるタレも西洋わさびも使いません。香取市の千葉しょうゆ製、有機大豆有機小麦と塩だけを原料にした醤油と、地元農家の長ネギをかけてあります。ハムは信州ハム製、保存料も着色料、発色料を使っていません。そして、味噌汁は知り合いから頂いた茄子と豆腐、鰹粉でだしを取っています。これが私の文化です。
東京新聞「時事川柳」に川柳送る
 毎週土曜日、東京新聞は読者投句を「時事川柳」として、公表します。木曜日が締め切りぎりぎりと決め、毎週一句は送ることにしております。今週は今朝、急遽、二句作り、何とか間に合わせました。

     濱口の憂に及ばぬ軍の勇

 濱口とは濱口雄幸首相(1929年~30年)のことです。ロンドン海軍軍縮会議を締結、国際協調路線を維持推進した民政党総裁です。これを海軍は統帥権干犯と非難し、それに共感した者に狙撃され、結果、命を奪われました。テロ事件です。
 この統帥権とは天皇の①軍を指揮する ②軍の編成を決定する権限のことです。①軍の指揮は参謀方部や海軍軍令部が輔弼し、②軍の編成は内閣が輔弼する権能を持つと解釈されてきましたが、これを軍は①②ともに軍が持つと勝手に解釈を変えて、攻撃したのです。
 似たことがいま行われています。内閣法制局や日銀の独立性は有耶無耶にされました。放送法の理念を180度変える解釈をして、職務を行う総務大臣がいます。そして、憲法解釈を勝手に変えて、集団的自衛権行使を可能にする安保法制を制定した安倍首相。これを平和平和と言いながら、経済の心配から支持する国民。ここも、濱口の時代とそっくりですそっくりです。
 濱口が襲われ、9か月後に死亡すると15万人がその死を惜しみ、葬儀に参列しました。がその一か月後発生した満州事変を国民は熱狂的に支持したのです。その背景には経済の不振がありました。軍需景気を望んだわけです。平和外交を推進した濱口の死を惜しんだ、その同じ市民が軍需景気を求めたのです。

     平和言う民が抗さぬ武器輸出

「武器輸出禁止三原則」が 「防衛装備移転三原則」に変えられ、原則武器輸出は解禁されました。市民の激しい反対が盛り上がりません。市民の多数派は同じ過ちを犯していることに、まだ、気づきません。川柳の「濱口の憂」実は、私の憂です。
親愛なる皆様への手紙
 梅雨のさなか、年賀状と同じ封筒での手紙で、驚かれたでしょうか。確かに、一年が半分終わろうとしていますから、区切りではあります。
 さて、思い過ごしとのご意見もございましょうが、安倍政権は今までの自民党政権とは異質であることは確かです。つまり、安倍政権は立憲主義を軽視する点で、本来の自民党の本質を失っています。
 また、安倍首相は「国民の生命財産を守る」といいますが、国民を守る=国防と理解しているようです。それは東日本大震災後の、3437人の震災関連死が物語ります。オムツの交換もしてもらえず亡くなっていった認知症のおばあさんの話には心が痛みます。震災復興税は被災者の尊厳を守ることに使われていないのです。国民を守るとは「人間」を守ることです。人間らしく生きて、死んで行けるよう保障することなのですが、残念でなりません。
安保法制の目的は国防ではありません
 思い出してください。朝鮮半島有事を想定し「引き上げる邦人を乗せた米軍艦船を、今のままなら、自衛隊は護衛できないんですよ」と、安保法制の必要を説いた時、なぜ自衛艦が、直接、邦人救出する想定をしないのか不思議でした。「国民の生命財産を守る政権」であることを疑わせる瞬間でした。
 この想定のねらいは、米軍と自衛隊が助け合う必要の強調です。ここに、安保法制の本質が見えます。安保法制は自衛隊を中東に派兵し、米軍と一緒に軍事行動を取れるようにする法制です。現に2013年すでに、米国モハーウェ砂漠で、米軍・自衛隊の合同訓練が行われています。専守防衛のわが国には不必要な訓練です。
 さらに恐ろしいことは、安倍首相が再三の「アジア太平洋戦争は侵略戦争と認識しますか」との国会質問にまともに答えずに、逃げ回っていることです。先の戦争が侵略戦争と認識できない首相の「侵略戦争はしない」には説得力がありません。
憲法9条と自衛隊は矛盾する?
 憲法九条(理想)と自衛隊(現実)は矛盾なのでしょうか。これは理想と現実が一致しないと言う当たり前のことの指摘に過ぎません。憲法が掲げる同じ理想である24条両性の平等、25条生存権条文も現実と一致していません。しかし、これを矛盾として改定しよう現政権も言っていません。戦争がなくなる世界に向けて、努力すれば良いだけの話です。それとも、今後これ等の理想も捨て去るのでしょうか。
その努力を放棄してしまったのが武器輸出禁止三原則(原則輸出禁止)の「防衛装備移転三原則」(原則輸出許可)への変更です。戦争の危険性を高める武器輸出解禁も憲法の理想放棄の一環です。憲法九条が現実に合わなくなったのではなく、九条に合うように現実を変えてゆくのが立憲主義です。
と、勝手なことを申し上げてきましたが、公務員の義務として、30数年「日本国憲法は素晴らしい」と授業で言い続けてきた身ですから「はいそうですか」と改憲には応じられないのです。今回の参議院選挙、自民党、公明党その他改憲推進政党合わせて、三分の二の議席を与えてはいけないと、ペンを取りました。

2016年6月30日
親愛なるみなさまへ 
八 角  宗 林
居心地の悪さ、文化の本質に気付く
 1461年寛正2年、数年前から続く災害で、庶民の生活は破滅を迎えます。京都では8万2人の死者が洛中に溢れました。見かねた後花園天皇が足利義政に救済を進言しましたが無視、銀閣寺の造営を続けます。わずかに、時宗の願阿弥や浄土真宗の蓮如が救済活動をするのです。
 近くでは、戦災孤児が上野地下道に集まり悲惨な生活を強いられましたが、救済の手を差し伸べるどころか、差別的な態度も多々あったと聞きます。なんなのだこれは!!と思ったのですが、いま私は、国内はもちろん、世界の悲惨さを見物するに等しく、手をこまねいています。居心地が悪いのです。
 状況の悪化は、他者への不信を生み、人々を阿修羅と餓鬼に貶めます。助け合うどころか、自分さえよければの生き方が蔓延します。今回の英国のEU離脱も自分の利益のみに眼を向けた結果とも取れます。安倍政権の防衛装備移転三原則も同じです。武器輸出して経済成長しようと言うのですから、日本製武器で殺される人々を前提とした我が身可愛いだけの決定です。
 だからこそ、そうなって欲しくないという魂の叫びとしての文化があると思うのです。人は状況が状況なら餓鬼になり、その醜さも忘れて、我が身のみを守ろうとします。しかし、その後、その醜さに耐えかねることになります。生き残っても地獄はやってくるのです。文化は、これを恐れる人間が予防注射、醜い自分を観たくない心の安全保障です。
 イギリスの作家が「農民こそ最高の文化人だ」と述べたのは飢えて、餓鬼になることを防いでいるのが農民だからです。そして、最大にして、最高の醜さ製造マシーンは戦争です。その意味で戦争の対義語は平和であるよりも「文化」であると思います。
 文化を守りたいと言うことは人間を信じ肯定したいと言う願いです。これは願いです。信じるに値する本質に人間があるかどうかは別です。しかし、文化を求め続ける限り、人間は美しさの可能性を持ち続けます。その可能性を奪うのが戦争です。

     離脱改憲平和への知恵が死す

     正気では核廃絶はできぬのか
無明安保法制
 私達は、結果として、戦争という「殺し合い」を是認しています。泥沼化する今こそ、立ち返るべき約束があります。
 空前絶後の犠牲者ゆえの反省から、第一次世界大戦後「民族自決の原則」が謳われました。二次世界大戦後、国際連合はその行動原則に「内政不干渉」「紛争の平和的解決」を掲げました。しかし、これらは見事に踏みにじられています。
 米国の例を挙げれば、ベトナム戦争(死者数百万人)、チリのアジェンダ政権打倒(大統領暗殺、7千人)エルサルバドル軍政支援(7万人)コソボ空爆、イラク戦争、これでもほんの一部です。
 ここには「内政不干渉」原則に従う意志の欠片も見られません。むしろ、踏みにじるための軍事行動であり、「紛争の平和的解決」がされては困るのが本音のように見えます。
 この原則違反を正当化するのが「国際平和」であり「自国の安全」「テロとの戦い」です。これらの言葉の無駄や嘘を剥ぎ取れば「国益」だけが残ります。この国益最優先が愚かな罪深い結果を生んだ反省が、またも、忘れられているのです。
 人殺しは罪悪です。これを全ての宗教が戒めています。己が利益のために、人を殺さないことは人間の行動原理です。原理ですから、最優先です(また、原理ですから、説明は不要)。国家も例外ではありません。
 少なくとも、核保有5カ国がこれに従えば、戦争がなくならないまでも、最小限の犠牲で済むとの想像を誰が否定できるでしょうか。日本国憲法は立ち返るべき約束を今も求めています。それを蔑ろにし、日本政府は6カ国目を目指します。無明な安保法制です。

本来の積極的平和主義
 
 安倍首相は「現実に憲法は合わなくなっている」発言を繰り返し、軍隊保持を明文化しようとしています。しかし、文部省昭和22年発行「あたらしい憲法のはなし」は中学生に「これから先日本には陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます」と説明しています。
 しかし、正直に言えば、今の世界状況で武力を持たぬことは不安です。そこで、「違憲状態」の自衛隊を置きます。「九条の理想に向けて、前進努力を続ける」ことが条件です。この場合「戦力放棄への前進努力を怠る政権下の自衛隊」は憲法違反になります。もちろん、現状を理想から後退させる「防衛装備移転三原則」「専守防衛を捨てた安保法制」『これを実行する政府」も違憲です。
 すでに、同じことが一票の格差裁判判決に見られます「現状は違憲状態だが、選挙結果を無効としない」がこれです。その条件は「違憲状態を解消する努力の実行」です。確かに、無効としないことで国政の混乱を避けています。
 理想(憲法)に現実を合わせるのが論理的にも、道徳的にも正しいのです。しかし、安倍発言はそれを逆転させています。憲法は「両性の平等」「国民の生存権」などの理想も定めており、実現に向けた努力を続いています。なぜか、九条だけが例外です。それとも今後、理想はすべて放棄するのでしょうか。
 軍隊がなくても安心な世界を創る努力の実行は、人類の願いです。九条は、政府に中韓露朝との友好信頼不戦外交を、国際紛争解決の仲介役、そのための勇気と知恵を求めます。これが多大な犠牲の上に至りついた「本来の積極的平和主義」です。
ラディカルに自衛隊合憲論
 安倍首相は「自衛隊を違憲とする憲法学者が7割もいる」「実情に憲法は合わなくなっている」という発言を繰り返しています。どうでしょうか。
憲法を素直に読めば、自衛隊は違憲です。現に、文部省昭和22年発行「あたらしい憲法のはなし」は中学生に「これから先日本には陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます」と説明しています。
 しかし、今の世界状況で武力を持たずに安心とは言えません。自分に嘘を付かぬことが誠実の本意ですから、正直に言います。しかし、同時に「世界平和は戦争放棄で完成する」にも真理を見るのです。そこで「9条の理想実現達成に向けて努力を続ける」ことを条件に自衛隊を合憲とします。自衛隊が違憲なのではなく、世界から戦争をなくすための努力を怠ることが違憲になります。ですから、現状を理想から後退させる防衛装備移転三原則も、専守防衛放棄の安保法制も憲法違反です。
 そもそも、九条は成立当初から実情に合っていません。理想と現実が一致していたら九条は必要なかったのです。その様な理想として憲法は「両性の平等」「国民の生存権」なども定めています。これらも、実情と憲法は合っていません。しかし今も、実現に向け努力を続けています。なぜ、九条は例外なのでしょうか。それとも、全ての理想を放棄する政権なのでしょうか。
 自衛隊は合憲ですから憲法改正は不要です。しかも「合憲条件」は九条に付いてしまった錆を削ぎ落とします。政府に中韓露朝との友好信頼不戦外交を、国際紛争解決の仲介役を求めます。九条は、よりラディカル(根本的)になります。
反省伝わる天皇慰霊の旅
 1962(昭和37)年、皇太子夫妻が昭和天皇の名代でフィリピンを訪問しました。甚大な被害を与えてしまった国です、何が起きてもおかしくない状況であったいいます。
 しかし、心配は杞憂に終わります。その理由の第一は、お二人がフィリピン無名戦士の墓に詣でたことでした。当時、無名戦士の墓に行く国賓なぞいなかったのです。慰霊は反省と謝罪と理解されました。結果、日本兵と皇太子夫妻は別の存在との認識が瞬く間に広がったのです。
 ここに見えるのは、謝る者を許すという寛容な国民性です。この良識に敬意を称すると共に、反省の意を示し続けることの大切さを思います。今回のご訪問でも、天皇ご夫妻は日本兵墓地より先に、無名戦士を慰霊されました。
 しかるに、選良たる国会議員の一部が「侵略戦争ではなかった」「南京虐殺はなかった」「従軍慰安婦はプロの娼婦だった」と世界に公言するのです。更に驚くのは安倍首相までが「先の戦争は侵略戦争であったとの認識か」との再三の国会質問に「侵略」の言葉を避け続けていることです。
 彼らは「戦前日本は現地の殖産興業に力を入れ、生活の向上に寄与した」といいます。確かに、殖産興業は事実です。しかし、それは植民地からの実りを多くするためで、国際協力であれば植民地にする必要はなかったはずです。「何時まで謝り続ければ済むのだ」という彼らは、その原因が己の言動にあることに気付きません。
 今回の天皇ご夫妻フィリピンご訪問も慰霊という比国、米国、日本戦没者への「反省と謝罪」の旅です。誠実でありたいと願う日本人を代表された旅です。

戦争法制廃止署名に国民の意志を!!
 
 憲法学者の多くが「集団的自衛権の行使」に対し「憲法違反」濃厚との危惧を表明しました。また、国民大多数が「説明不足」を指摘し、多数が反対する中、安保関連法案採決は強行されました。
 「説明不足」とは、法案の内容とその目的が理解困難な状態のままに、法案を通すことへの懸念です。無理もありません。国会審議で、中谷防衛相が答弁不能になることや前言との食い違いが幾度もあり、そのたびに、前言撤回が繰り返されました。
 また、憲法違反は九条だけではありません。防衛大臣の、憲法が安保法制に適合するように知恵を絞ったとの答弁です。「憲法の最高法規」を定めた98条違反を自白した瞬間でした(2015年6月5日)。さらに、臨時国会は、首相の外遊を理由に開かれませんでした。憲法53条には、衆参いずれかの議員の四分の一以上が要求すれば、臨時議会を召集しなければならないとあります。これまた、憲法違反です。
 独裁政治は、憲法違反から始まることは歴史が教えるところです。ナチスの「全権委任法」や近衛内閣の「国家総動員法」は憲法や三権分立をないがしろにする法律です。立憲主義の否定です。
 そうして現在、識者が懸念していた通り、国会答弁を越える自衛隊行動を可能にする準備が明らかになっています。2013年、米軍と自衛隊は米国モハーウェ砂漠で戦闘訓練をやっていたのです。これは、中東地域での日米軍事行動を想定していると言わざるを得ません。集団的自衛権行使の目的は「国民の生命と財産を守る」ことではないのです。今まで、米国は平和のためと言いながら、中東地域の市民をも殺してきました。それに自衛隊を加えるための戦争法制です。
 安倍首相が同じ考えの議員や識者を閣僚や各種審議会委員に選びます。すると自動的に、法律が改正・成立するに等しい政治です。この手法は安保法制だけに留まりません。経済格差が問題と言いながら、派遣労働者の正社員化への道を断った派遣労働法改定。介護退職をなくすと言いながら、介護現場を窮地に追い込んだ介護報酬引き下げ。このような、言動が一致しない政治を終わらせるためにも、戦争法制廃止を実現し、安倍政権を退陣に追い込むことが必要ではないでしょうか。
         「戦争法制廃止署名に国民の意志を!!
日本の役割
 フランスパリのテロ事件、やりきれない思いで居られることでしょう。こころを同じくするものですが、オランド大統領の演説に怖さも感じるのです。2001、9、11テロ後のブッシュ大統領と同じこと「これは戦争だ。だから攻撃を加える」と国民・世界に発しているからです。
 テロは駄目だが、戦争ならよいのでしょうか。戦争は国家公認で、テロはヤクザな行為だというのでしょう。もしそうなら、テロ問題と「対決」は出来ても「解決」は出来ないでしょう。もしここで、フランスがアメリカと同じ過ちを繰り返すなら、ことの重大化は避けられません。ここに、全く違った発想が求められます。それが出来る数少ない先進国が日本ではないでしょうか。
 日本国憲法の画期的な思想は「戦争放棄」ですが、その本質は「国家による殺人正当化の放棄」にあります。これを原則に、外交を行わない限り、テロ問題は解決しないでしょう。そこで気になるのが9月に成立した「安保法制」です。
 これは、日本の独自性を放棄する法制です。ブッシュ、オランドに代表される路線に乗っかること意図して作られた制度です。これでは、事態を打開することは出来ません。世界史的視野にたって、安保法制問題、ひいては、改憲問題を捉える必要があります。ここにも、安保法制廃止の重要性が示されています。

     戦争もテロも正義の名で通す

     戦争がテロを裁く道理ありや



     晩秋の薄日に侘びる山の寺

     お座りの顔白さ増す冬の朝
「転進」「玉砕」と積極的平和主義
 昭和10(1935)年、憲法学者美濃部達吉が弾圧されました。その時「憲法の番人」とされた枢密院議長も攻撃されています。結果、憲法解釈が変更され、天皇の政治的絶対性に制限がなくなりました。
 この「天皇の政治的絶対性」を「集団的自衛権行使」に置き換えれば、安倍政権がやったこととそっくりです。憲法を意のままに扱おうとする動きです。
 さらに、安倍政権の戦前との類似性には驚かされます。戦中、大本営は敗退を「転進」全滅を「玉砕」と言い換え、実体を隠そうとしました。現政権は戦争法制を「平和安全法制」武器輸出を「防衛装備移転」極めつけは「積極的平和主義」です。世界の戦争をリードする米国との軍事的一体化が、どうして平和主義なのでしょうか。
 積極的平和主義の本義は、消極的だった九条理想の道を積極的に進む勇気と英知にあります。戦後を新たな戦前にしてはいけません。
新九条論に疑問
 東京新聞10月14日「こちら特報部」の「平和のための新九条論」を読ませていただきました。「羹に懲りて膾を吹いてはいけない」が感想であります。九条の一番の主張は戦争放棄という理想です。どんな理想も現実から否定される宿命にあります。安倍政権の暴走にたじろぎ、改憲論の土俵に乗ってはいけません。
 九条の理想は己だけの戦争放棄を内容としていません。なぜなら、他の全ての国も戦争放棄しなければ、実現できない理想だからです。つまり、地球から戦争をなくす「遠大な計画」なのです。そこに注目すれば、九条の本質はこの計画実現に向けて、後退することなく、努力を惜しまず、諦めない覚悟であると見えてきます。ですから、憲法違反とは「戦争放棄への努力を放棄すること」になります。
 ならば「自衛隊は合憲と違憲どちらなのか」と問われれば「条件付の合憲」です。もちろん「戦争をなくす努力を続けること」が条件です。理想(夢)はすぐには実現しないものです。その間、理想と矛盾する現実を理想放棄の理由にしていたら、どんな理想も実現しません。
 現に、政府は憲法24条(両性の平等の実現)25条(生存権の保障)という理想を持ち続け、努力してきました。同じように、九条も「粛々と」実現に向けて努力を続ければよいのです。これの何処に欺瞞があるのでしょうか。
 核心は、集団的自衛権行使をさせないための改憲論ではありません。この改憲は自民党が目論んでいる改憲実現よりも難しいでしょう。事の本質は、戦争地域の人々が「恐怖と欠乏から免かれ平和のうちに生存する」ことに希望を与える九条平和国家として活躍できる体制創りにあります。

沖縄独立私達はどうする
 東京新聞9月22日総合面によると、国連は2007年に、沖縄の人々を先住民と認め、その後、日本政府に権利保障を求める勧告を出しているとのこと。沖縄では高度な自治権を有する沖縄州の設置とか、それを前提とした、独自憲法制定の論議が盛んになっているそうです。
 ここで、考えねばなりません。沖縄の連邦制的独立が実現し、沖縄が米軍基地を拒否した時、私達はどうするのか。米軍基地を受け入れるのかどうか。70年安保以来の、沖縄に甘え、放置してきた宿題を解くよう迫られます。
 さらに、沖縄独立の動きに、我々市民は民主的成熟も試されます。もし、沖縄が米軍基地を拒否した時、どこも米軍基地を受け入れず「じゃあ、安保条約破棄だ」となるとしましょう。ならば、私達は自分で考え、結論を出し、行動することを放棄してきたことになります。これが成熟した市民社会といえるでしょうか。完成した人格を有し、社会参加する個人といえるでしょうか。自らの理念を語らず、その場の都合で発言行動する醜態を演じることに耐え難い羞恥を感じます。
 安倍首相は安保関連法制定に際し、本音を語っていません。しかし、日米安保の恒常化ははっきりしました。「国民の生命財産を守る」は本音ではありません。それは彼の予算の使い方、その他の政策を見れば明らかです。「自分の生命と財産を守る」ために、私達はどうするのか。ボールは返されています。21世紀必要なのは「立憲主義の放棄」ではなく「国家による殺人正当化の放棄」です。この原理が世界中の国民、否、人間を国家から守ります。

     沖縄は沖縄という植民地
読売新聞昨日の国会前戦争法案反対集会完全無視!!
 東京新聞は昨日の集会を一面トップで大きな写真を載せて報道しています。友人によると、朝日新聞も一面トップだそうです。そこで読売新聞をお隣に見せていただくと、なんと、何処にも記事がありません。驚きました。読売新聞読者には無かったことにするということです。
 そこで、抗議の電話を入れましたら「ただいま、込み合っておりますので、そのままお待ちになるか、改めて、お掛け直しください」とこれを繰り返すばかりです。さもありなん、皆さん抗議の電話を入れているのです。少し安心しました。とりあえず、ファックスを入れておきました。これは一発で通じました。皆さんも、抗議をなさったら!!

(訂正) のちほど確認しましたら、社会面に4段の小さな記事がありました。
8月30日国会前
 昨日は、国会前に行ってきました。東京駅について、丸の内線に乗り換える段階で、リュックを背負った方々が多数居られ「これは今日は凄い数になると、わくわくして、国会前で降りました。すると、そうでもないのです。到着時間は2時前、国会を囲む人間の鎖の一回目の予定時間ですから、もうすでに身動き取れないのだろうと思っていましたら、さにあらず。戻ってくる人に聞くと「規制されている」と言うのです。
 国会議事堂と議員会館を挟む道路に出ると人があまりいません。我が会ののぼりを立てて歩いていると、数メーター間隔で立っている警察官から「のぼりを納めてください」との丁寧な権力行使の声が聞こえました。「致しかねます」と繰り返し答えました。確かにこの通りに登りはほかにありません。皆さん不当な要求に、真面目にこたえていらっしゃるのです。それほど協力的で、紳士的な対応をされているデモ隊に対し、あちらこちらに、バリケードを用いて、交通規制しています。本意がつかめません。
 本部の指示に忠実にしたがっているのでしょうが、おかしな指示には異議を申し立てる、そういう姿勢がどんな職業にも必要です。それが出来ない世の中に成っていることが、実は、一番の脅威です。これが社会的、国家的狂気に走る下地です。国家議事堂正面に移動しようと、動き出すと、それへの道も規制されています。その前は人だかりで前が見えません。人で埋まっているのだろうと、その先を見ると一人も居ません。「どういうことですか」と近くの方に聞くと「理由を言わないんです」とのことです。
 そこで「規制する法的根拠を示してください」と警察官に言うと「だんまりです」さらに言うと「安全のためです」「バリケードの先に人は誰もいないでしょう。押し合いに成っているなら話はわかるけど、規制の目的は我々の安全ではないでしょう」もう答えません。 もう、4時を大分過ぎていましたので、帰ろうと成ったのですが、 脇を見ると若者が一人警官に抱え込まれています。隣の女性に聞くと「通り抜けようとして、抑えられて、もう二時間、ああしているの。放してやるように言っているけど」そこで我々仲間は抗議!!「放してやりなよ。彼を通したからと言って、私達も通せとは言わないから」駄目です。「第一、二時間もそうしているのは不自然で異常でしょう。自分でもそう思っているんじゃないの。どうして二時間も抑えているのか自分にその訳を聞いてみなさい」そうこういっているうちに、若者を放しました。ようよう帰途に着くことが出来ました。
 人間の鎖の指示はでず、行うことなく、帰ることに成ってしまいました。「安全のため」との理由付けで、結果、集会の自由を奪われてしまいました。何か、戦争法案に似ています。「国民の安全のための法案」との口実で、憲法を蔑ろにしています。似ていますでしょ。
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安倍談話の下地
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ガンジーの言葉支えに活動
 7月16日、安保関連法案は衆議院を通過しました。世論はすばやく反応、内閣支持率は40%を割りました。しかし、安倍首相は法案成立の意志をより強くしています。
 その余り、安全保障を脅かす国が中国であると名指してしまいました。日中関係を犠牲にしてまで成立を急ぐ、その法案の目的が「平和」だそうです。安倍政権こそが一番の脅威です。
 このように、法案の不当・危険性や政権の反民主主義体質が明らかになる中、国家前抗議、反対署名、市議会陳情などをしてきました。しかし、未だ、無関心な方々や、安倍政権を支持する国民が幅広く居られることに、驚きと徒労感を覚えました。
 その私を目覚めさせた言葉があります。「このようなことで、私たちは世を変えられますか」との問いに、ガンジーは答えます「世の中を変えることはできない。しかし、あなたが世の中に変えられることはない」ガンジーの言葉だけに重く、力をいただきました。

     涼風やひととき忘る安保法

     涼風やすれ合う稲房豊かなり
○○○を財産と実感する
 安保法案への反対は高まるばかりです。政府は「理解が進まない」と言いますが「国民は判ったから理解しない」のだと気付きません。
 この法案の本質はアメリカが起こす戦争の片棒を担ぐことです。これを国会では隠しますが、首相は共著「この国を守る決意」(2004年)で「アメリカと対等になるためには日本の若者も血を流さねばならない」と述べています。何よりも、ことの本質は、安保法案成立の約束を土産にした安倍首相を、異例の準国賓扱いしたアメリカが語っています。
 歴史に学ぶと、政権への攻撃は財産を持つ階層がそれを脅かされる時に起きています。平安末期、領地支配に力を付けた武士層がそれを脅かす王朝政権に反抗しました。イギリスではブルジョアジーが、その成長を抑え、財産を犯す王朝を攻撃したのです。
 現在わが国では、貯金のない世帯が3割に達しています。100万円以下を加えると4割、7割近くの世帯が500万円以下です(2013年、金融広報中央委員会調査)。財産を持たないのですから、庶民の、現政権への攻撃は財産をめぐるそれではありません。お金とは違う「財産」をめぐる国家との対立です。安倍首相がその「財産」を貯金以上の宝だと実感させています。戦いは「いのち」を徴収したい国家と、それを拒否する国民との利害対立です。
 国民は「いのち」だけではなく、その質も問うています。人殺しを強制されることで「生きる正しさ」を奪われることにも抵抗しているのです。長い歴史が示す価値に気付けない政権です。国民に向けた「刹那的」をそのままお返しします。


安倍憲法解釈の克服
 国会では、耳慣れない法律名や造語が飛び交い、訳が分からない状況が続いています。野党質問への答弁から「安保関連法案」の内容が見えてきましたが、ことの本質は「憲法解釈」です。
 チャップリンの「殺人狂時代」の名意訳「一人を殺せば殺人者だが、百万人殺せば英雄だ」の原文を直訳すれば「一人の殺害は犯罪者を生み、百万人の殺害は英雄を生む」です。意訳の方が戦争の本質を表すのに優れています。同じように、憲法の本質を突く名解釈が必要です。安倍憲法解釈はどうでしょうか。
 1947年文部省発行中学一年用教科書「あたらしい憲法のはなし」は憲法の本質を明快に表現しています。「これから先日本には陸軍も海軍も空軍もないのです。しかし、みなさんは心細く思うことはありません。日本は正しいことを他の国より先に行ったのです」と「戦争をしない国」への確固たる信念を語っています。
 しかるに6月1日、日本を攻める意志のない国にも武力行使を許すとの答弁がありました。専守防衛放棄の本音が出た瞬間でした。「安保関連法案」が戦争を「捨てる」のではなく「拾う」法整備であることが鮮明になりました。
 実は、2004年の自著で首相は「アメリカと対等になるために日本の若者も血を流さねばならない」と述べています。石破幹事長(当時)も「自衛隊員を戦死させる覚悟をする最初の政治家になる」との自負を語っているのです。ならば、憲法は毒に見えることでしょう。首相がしているのは、もはや「解釈」ではなく「解毒」です。解毒剤は「安保関連法案」です。私たちは解釈、それも名解釈をしなければいけません。
 そこで「自衛隊は違憲か」を問います。憲法を誠実に読めば、違憲と答えねばいけませんが、より正確には「自衛隊を不要にするための努力を怠り、放棄し、理想から後退すること」が違憲だとしたいのです。ですから、自衛隊は憲法違反ではないが、将来、解体するべきだという解釈にもなります。つまり、安倍政権は憲法の理想実現の努力を怠るどころか、放棄しようとしているのですから、法案の違憲を問う前に、政権自体が憲法違反なのです。
 安倍首相たちは「普通の国になる」と言いますが、我々はそれをやめたのです。それは正解でした。「普通の国」が戦後やってきたことを見れば明らかです。米国のベトナム戦争、イラク戦争、ソ連のアフガニスタン侵攻等々。
 「あたらしい憲法のはなし」の「正しいこと」とは「国家による殺人の正当化を認めない」ことです。チャップリンも上の台詞でこれを表現しています。安倍憲法解釈の克服は「国家による殺し合いの強制」を拒否することで成し遂げられます。

安保関連法案裏の狙いは
 戦前、はなはだしい経済格差ゆえの貧弱な購買力が経済成長を抑えましたが、政府は経済・社会改革の道を選ばずに、海外に活路を求めました。
 ならば、戦前と似てきたようです。厚労省調査によると「生活が苦しい」と答えた人は62,4%で過去最高、子供の貧困率も先進国に似つかわしくない地位にあります。
 現政権は格差縮小に向けて累進課税を強化するどころか、消費増税や社会保障カットをしています。その一方、復興税免除、法人減税をして憚らず、改革どころか、格差拡大を助長するのです。
 その象徴が「派遣労働法改正」。これは企業の「労働力調整」と「人件費抑制」要請に応えるものであり、雇用と生活を不安定にする「効果」しかありません。「女性が活躍する社会」もパートなどの低賃金要員としての活用に過ぎません。そして残業代ゼロ法案。
 ここで、私たちは生きる権利が脅かされていることに気付きます。脅かすのは政府であり、社会的経済的強者であり、彼らの「国家」です。一方、彼らの優位を脅かすのが基本的人権であり、民主主義(国民主権・立憲主義)です。
 すでに、これらは無視されています。「憲法をいかにこの法案に適応させるか」(反立憲主義、つまり独裁です)麻生氏の「ナチの手口にまねろ」は失言ではなかったのです。そして大西議員の従わぬ新聞社は潰せ発言。彼らの本心を国民に定着させるための「戦争法案」が見えてきます。
 戦争は人権や民主主義を奪う天才です。私たちは平和主義が奪われると気を揉んできましたが、狙われているのは基本的人権と民主主義のようです。


集団的自衛権と統帥権
「戦前に似てきている」という声を聞きます。なるほど1930(昭和5)年に、集団的自衛権と似た事例があります。ロンドン軍縮条約に調印した浜口雄幸内閣を海軍などが攻撃した「統帥権干犯」事件です。
 「統帥権」とは軍隊の作戦・用兵権のことで、憲法11条で天皇大権と定められ、陸海軍の参謀本部・軍令部が補佐することになっていました。しかし、海軍軍縮条約は米英日の軍艦保有量比を定めた約束です。このような装備編成も天皇大権で、これは「内閣が補佐する」と憲法12条にありますから「統帥権干犯」ではなかったのです。
 つまり、反対派は統帥権の「拡大解釈」をしたのです。編成権12条を統帥権11条に含める「憲法違反」を行ったのです。結果、浜口は狙撃され、内閣は総辞職します。これ以降、軍部は統帥権を盾に、軍事問題に対する介入を拒否し、政府の統制を離れます。
 同じように、集団的自衛権行使の閣議決定」そして「安保関連法案」は安倍内閣による「拡大解釈」であり「憲法違反」の疑い濃厚です。内閣の判断で軍隊を世界中に派兵でき、友国の戦争に加担もする。これでは、九条平和主義の否定です。加えて問題なのは、これらの法案が成立すれば、憲法改正発議を国民が否決した場合でも、集団的自衛権行使、海外派兵ができることです。
現実に合わせて理想を捨てるのではなく、理想に向けて現実を変える努力に価値を認めるならば、現九条は手放せないのです。「戦前に似てきている」は気のせいではありません。「安倍出でて戦後は終わり戦前に」市民力を合わせ、安保関連法案を葬らねばいけません。

死なせる覚悟だけ言うが
 石破氏は幹事長時代、自衛官を「戦死させる覚悟」をする最初の政治家になるとの自負を語りました。しかし、その覚悟の本気度が疑われます。もし、覚悟が本物ならば「殺させる覚悟」にも心が届いたはずなのです。
 更に、彼の覚悟には見落としがあります。それは帰還兵の、その後を「支援する覚悟」です。イラク戦争派遣自衛官が帰還後30人自殺しています。戦場の最前線に立たずとも、相当のストレスがあったことを示す事実です。
 もし、本格的戦争への参戦となれば、派遣隊員の犠牲は質量とも飛躍的に増大します。身に受けるべきは「戦死させる覚悟」ではなく「戦死させる悼み」であり、覚悟すべきは帰還後の「人生の引き受け」なのです。これは安倍内閣の安保法整備賛成者にもいえます。心を病んだ元自衛隊員を引き取る覚悟がありますか。


海外派兵戦費財力はあるのか
 成立を急ぐ戦争立法。集団的自衛権は、政府が「武力攻撃を受けたと同様の深刻、重大な被害が及ぶ」と判断したら、国会の承認なしで発動できます。要は、海外に出て行って殺し殺される世界にのめり込むことに違いありません。
 戦争を正当化する場合、必ず、美しい造語がなされます。「大東共栄圏」「八紘一宇」今回は「国際平和貢献」誰も反対はできません。しかし、これが強国の利害絡みの戦争であること、「平和貢献」による市民犠牲に目を向けねばいけません。
 加えて、1000兆円の借金を抱える政府に海外派兵戦費負担余力があるのかが疑問です。国債は国民金融資産があるから心配ないと言われていましたが、今や日銀が買い支えています。ここでも神話が壊れだしています。
 わが国が財政破綻した時の国際的破壊力は甚大です。それは回りまわって途上国の弱者に襲い掛かるでしょう。ならば今、わが国が成すべき国際貢献は派兵ではなく、財政破綻回避です。なのに「戦争の火種をつくり法制化」自作自演の戦争への道です。

九条と共に生きる
 「日本国民にノーベル平和賞を」という独創が生まれました。素晴らしいアイデアだと感心。と同時に、マララ、ユスフザイさんの受賞に「それはそうだなぁ」とも思ったのです。
 安倍政権は、秘密保護法制定、集団的自衛権行使の閣議決定、防衛装備移転三原則への変更、そして安全保障法整備と矢継ぎ早にことを進めています。しかし、その手法は「憲法が権力を縛る英知であるとする」立憲主義を踏まえず、強引です。麻生太郎氏の「ナチに真似ろ」失言が本心であったと思わせるほどの「手口」です。
 ここで、国民が気を揉むのは、この政権が「改革断行」の後、何を創造するのかが分からないことです。上記の諸政策に低通する理念が何であるかを語らず、そのまま、九条改定を国民に問う危険性なのです。
 今、世界は軍事衝突の中にあります。その原因の一つが、大国の軍事外交政策であることは疑いありません。この政策は武力に物言わせた植民地政策に連続する、強者の論理に貫かれています。安倍首相はこれに加わりたいのでしょう。「戦後レジームからの脱却」とは、戦前、欧米列強と伍して覇を示した日本の再生ではないでしょうか。そう理解すると、彼のばらばらな諸政策が磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、整列して観えてくるのです。
 だから、大東亜共栄圏の理想実現のため派遣した日本軍による南京大虐殺も、従軍慰安婦強制連行事実も認めたくはないのです。一億玉砕という民族を滅ぼしても国家を守ろうとした狂気への反省もありません。それどころか、反省から生まれた戦争放棄=九条に敵意をむき出しにします。
 ですから「積極的平和主義」にまやかしを感じるのです。私たちは、この造語以来、所謂「平和主義」を「非戦平和主義」と呼ばねばならぬ滑稽の中にいます。本来、九条の平和主義は「絶対非戦」という意味で「積極的平和主義」です。「積極的平和主義」(安倍首相の)が「積極的平和主義」(憲法の)を否定するという矛盾に国民への愚弄が見えます。
 来年の参議院選挙後に、憲法改正を政治日程に乗せるとの報道がありました。現政権の性質上、いくら反対してもやってくるでしょう。ならば、市民は圧倒的多数で発議を否定しようじゃないかと思うのです。そしえ、これを成し遂げ、ノーベル平和賞に値する「日本国民」になりたいのです。
 力が支配する時代だからこそ、対極の九条理念が力を持ちます。しかも、力の支配が行き詰まっています。九条こそが新しい時代を切り開く理念です。「護憲」といいますが「憲法に守られ、憲法を守ること」がその正確な意味です。九条と共に生きることが、まやかしのない世界平和に通じると信じます。
SIZ宣言文をあなたのブログに!!
 1,17日の『女の平和』赤の鎖、1、25日の辺野古移設反対『青の鎖』にも参加してきました。『そんなのに参加したって、変わりはしないよ』と言う声もありますが、意味があるかどうかではなく、そうしないではいられないという心境からでした。
 安倍首相は、辺野古移設反対と言う沖縄県民の意志を無視しようとしています。これから、国民が何を言ようが、相手が弱いと見れば、そうしてくると予想されます。選挙で自分の意志を表すことは、選挙制度の不備も含めて、難しいし。かといって、暴力破壊行動にでることは本意ではありません。
 そうなると、日常生活と一体化した平和行動が必要になって来ないでしょうか。労働や消費をしながら、平和を述べるのです。言葉だけで『平和が大事』と言うのではなくて行動にするのです。『平和平和』というだけなら武器輸出禁止三原則をかなぐり捨てた安倍さんだって、そう言っています。
 今までに、20を越える新聞社と大学自治会にSIZ宣言文とバッジを送らせて頂きましたが、反応は皆無です。そこで、ブログ仲間から、その仲間にと広げてゆく方法もあるのかなと、思い出しました。皆さんのブログで、SIZ宣言文を紹介していただけないでしょうか。賛同していただける方が居られましたら、是非、お願いします。
 なぜ、これを広めるのか。それは安倍政権の、先ほど指摘しました体質があるからです。口で言っているだけでは、何も彼らは怖くないのです。しかし、バッジを付けるという行動に多くの市民が歩み出したら、どうでしょうか。首都東京を歩く市民の多くがバッジをつけて歩き出したら、これは不気味なはずです。
 民主主義も、」我々が民主主義、民主主義と口で言っている間は政権は怖くはないのです。民主主義の実質を求めだした時に、怖いのです。ですから、押さえつけるではないですか。口で言っているだけの市民を押さえつけはしません。実質を求め行動しだすと『活動家』と呼び出し、一般市民と区別しだすのです。そうすると、市民もそうレッテルを張り、特殊な、危ない人間として扱いだすでしょう。
 ならば、市民みんなが『活動家』になろうではないかと思うのです。SIZバッジをつけて活動家になろうではないですか。これぞ、生活と政治の一体化です。それが市民の意志を政治が動かすことにつながる唯一の方法ではないでしょうか。SIZ宣言を皆さんのブログでご紹介ください。鼠算式で拡散してください。
また、国会議事堂を囲む
 昨日は辺野古基地建設反対ヒューマンチェーンに参加してきました。会員の多くが餅つき大会に参加することになっておりましたので、私一人参加してきました。囲めるか心配していたのですが、7000人が集まったそうです。これ、東京新聞以外の新聞も取り上げましたかね。
 辺野古を放置して、基地建設が完了するようなことになると、民意とはなんなのかと言うことになります。絶対的少数派の沖縄県人は大多数派の利益のために我慢することは当然と言っている事になってしまいます。それでよいのかと言う思いを堂処理できるでしょうか。そこが問われると、参加してきました。

     議事堂をシンボルにする平和の輪
 
     この平和かよわきゆえに愛しむ

     医者に次ぎシェフに群がる高齢者

    
女の平和ヒューマンチェーンに参加してきました
  主催者発表で6000人が赤を身にまといはせ参じました。輪が二重三重になる箇所もありました。若い方もいらっしゃいましたが、60代70代が中心です。そこが少し残念でしたが、意を同じゅうする人々の中にいることは心地よいことでした。
 我が会は三人で参加、参加予定の2人の方が風邪で寝込むと言う事態に。我が地方は小学校が全校出港停止になったほど、風邪が猛威を振るっています。卒業生のS君は急に仕事を入れられてしまったそうです。福祉の現場は目いっぱいだとよく分かります。介護報酬2、27%カットしておいて、12000円の給料アップという政府のごまかしに怒りが噴出します。
 会場で「戦争に行かないぞ」宣言文を100枚ほど配りながら、SIZバッジを販売した結果、売り上げは6300円でした。一人で参加していた学生風の青年と、澤地久枝さんには差し上げました。
 また、驚いたことに、従姉妹の順ちゃん、といっても私より10最年長ですが、その順ちゃんから携帯に電話が入り、今国会に来ているというんです。一緒にその姉の静ちゃんも。終了後、大丸の喫茶室で90分も話が出来ました。これも思わぬ収穫でした。



    国会を母が化身のハト囲む

    ビルが線冬空を切る丸の内



    風呂場から子等も湯気立つ牡丹鍋
女の平和1,17ヒューマンチェーンに参加決定
 国会を1万人が手を繋ぎ囲んで、平和推進政策に切り替えろ、と要求する活動に参加することを、憲法を生かす匝瑳九条の会は決定しました。今月17日土曜日、13時から15時まで。国会周辺に集まってみませんか。詳細は「女の平和」で検索してみてください。
 わが会はSIZバッジの販売もします。どれほど売れるか、今後の売れ行きを占なうことになります。
S I Z宣言文を修正しました
 6日土曜日の第22回憲法を生かす匝瑳窮状の会で「S I Z宣言」と「S い Zバッジについて」を修正しました。

 
「戦争に行かないぞ」宣言 = S I Z 宣言

 近代思想において、人権は生まれながらに神から与えられています。わが国でも、明治期、自由民権派は基本的人権を「天賦人権」といいました。天が民に与える権利です。ですから、王も国家もこれを奪うことはできないと理解するのです。しかし唯一、神や天ではなく、国家から与えられる権利があります。それが交戦権です。
 交戦権は国家が持っているとされます。それを国民は分与され、「人を殺す権利」を手に入れます。ですから、戦場から帰っても、殺人罪で裁かれず、暗黙の国際的了解ゆえに、敵国さえ裁きません。しかし、健全な人間が「人を殺す権利」を求めるでしょうか。
 戦争体験者の話によると、初年兵教育は相当荒っぽかったと言います。演習から帰ると中国人が柱に縛られています。「スパイを銃剣で処刑せよ」との命令。しかし、「スパイ」に突進すると、緊張から足がもつれる者や、直前で、立ち往生する者が続出したそうです。それはそうでしょう。これで分かるように、交戦権は国家から「与えられる」のではなく「押し付けられる」権利なのです。
 基本的人権は「自然権」とも言います。自然は人権と同じように「人を殺したくないという感情」も与えています。これが憲法九条に生かされています。「国の交戦権はこれを認めない」以後70年国民への「交戦権押し付け」はありません。
しかし、石破幹事長(当時)は政治家として「死なせる覚悟をする」と発言。「殺し、殺される覚悟」を国民に強いるとの宣言です。「交戦権の押し付け」ですから、大胆にも、憲法違反宣言をした訳です。これを実行に移したのが「集団的自衛権行使するとの閣議決定」です。ですから、これも憲法違反に違いありません。
 この憲法違反は国が決めれば自衛隊はもちろん、国民も戦争に行くことを前提にしています。ならば、国民は「交戦権の押し付け」を拒否し「戦争には行かないぞ」宣言をしようではないか、と思うのです。百姓が年貢拒否一揆を起こしたように、我々は兵役拒否一揆を起こそうというわけです。
 欧州には「良心的兵役拒否」の権利を認める国があります。この言葉を使うなら、憲法九条は、言わば、国民と国家こぞっての「良心的兵役拒否」宣言です。1947(昭和22)年文部省発行「あたらしい憲法のはなし」は「戦力を放棄しても心細く思うことはありません。日本は正しいことを、他の国より先に行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません」と教えています。この教えに従い「戦争に行かないぞ」宣言をします。

20014年11月8日
憲法を生かす匝瑳九条の会



S I Zバッジについて

S I Z のS=戦争に 
I=行かない    「戦争に行かないぞ」です。
Z=ぞ
殺し殺されることを拒否します!
 これは自民党石破幹事長(当時)発言への私たちの応えです。幹事長は、自衛官を戦死させることは忍びないが、政治家の責任でその覚悟をする初めての政治家になるとの自負を示しました。
 この表明が「集団的自衛権を行使する閣議決定」との連携プレイであることに違いありません。安倍政権与党は集団的自衛権行使が憲法違反ではないとして、軍隊(自衛隊を軍隊にしたい)を派遣する道を開こうとしています。彼らは権力が決定すれば、黙って、自衛官はもちろん、国民も戦争に行くと疑っていないようです。
 ならば、国民は「戦争に行かないぞ」宣言をしようじゃないか、と思うのです。日本人は、①学ぶため ②協力し合うため ③お手伝いするため ④楽しむため ⑤移住するため、以外の目的で海外には出て行かないということです。いかなる理由があろうとも、殺すため、奪うためには出て行かないという誓いです。これを宣言し、自らの戒めにするということです。
S I Zバッジを付けて街を歩きましょう。
S I Zバッジ届く
 バッジが届きました。
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 早速、新聞社に送りました。送らせていただいた新聞社は、北海道新聞、河北新報、山形新聞、東京新聞千葉支局、千葉日報、朝日新聞、毎日新聞、信濃毎日新聞、中日新聞、京都新聞、神戸新聞、中国新聞、高知新聞、長崎新聞、南日本新聞、沖縄タイムス、しんぶん赤旗です。無駄な努力にならぬことを祈るばかりです。


 皆さんのご意見を受け「S I Zバッジについて」と言う短文をつくりました。「S I  Z宣言文」が長いので読んでいただけないのではないかと言うんです。そこで作りました。

           S I Zバッジについて
   
 S I Z のS=戦争に I=行かない Z=ぞ「戦争に行かないぞ」です。これは自民党石破幹事長(当時)発言への私たちの応えです。
 幹事長は、自衛官を戦死させることは忍びないが、政治家の責任でその覚悟をする初めての政治家になると表明しました。それだけ自分は肝が据わった政治家だという自負でもあったのでしょう。
 この表明が「集団的自衛権を行使する閣議決定」との連携プレイであることに違いありません。安倍政権与党は集団的自衛権行使が憲法違反ではないとして、軍隊(自衛隊を軍隊にしたい)を派遣する道を開こうとしています。彼らは権力が決定すれば、黙って、自衛官はもちろん、国民も戦争に行くと疑っていないようです。殺し殺される極限の中に我々を送り出したいのです。
 ならば、国民は「戦争に行かないぞ」宣言をしようじゃないか、と思うのです。日本人は、①学ぶため ②協力し合うため③お手伝いするため ④楽しむため ⑤移住するため、以外の目的で海外には出て行かないということです。いかなる理由があろうとも、殺すため、奪うためには出て行かないという誓いです。これを宣言し、自らの戒めにするということです。S I Zバッジを付けて街を歩きましょう。
「S I Z宣言」を別紙用意しました。お読み願えれば幸いです。


まだ、届かないS I Zバッジ
 本日、納品予定のS I Zバッジが、まだ、届きません。少しイラついています。昨日までに、全国18の新聞社名を封筒に書き、文書を入れてあるんです。後はバッジが来れば、すぐに発送したいのですがね。
 改めて、S I  Z宣言を説明すれば、我々日本人は①学ぶため ②遊ぶため ③協力し合うため ④お手伝いするため ⑤移住するため以外の目的で海外には出てゆかない、と言う宣言です。いかなる理由があろうとも、口実を見つけようとも、殺すため、奪うためには出てゆかないという誓いです。これを世界に宣言し、自らの戒めにするということです。
 それにしても、遅いですね。東京に出たら、皆さんがS I Zバッジを付けているという夢を見たいですね。届きましたら、すぐにご紹介します。
S I Zバッジのデザイン決まる
 22日の21回「憲法を生かす匝瑳九条の会」で、S I Zバッジのデザインが決まりました。ご紹介します。

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 一番上に決まりました。大きさは25ミリと32ミリ、それぞれ500個発注しました。来週の火曜日には納品されます。この販売を通じて、アベノミクスだけが争点ではないことを訴えたいと思います。
創人塾にSIZバッジのデザイン・製作を依頼する
 今日は知人から紹介された創人塾にSIZバッジの制作を依頼してきました。『「戦争に行かないぞ」ですか。それは怖ろしい』と塾長の鈴木さんがおっしゃいました。それには私のほうが驚きました。
それはこういうことです。 鈴木さんは商業デザインを長くされてきた方で、この世界では『戦争』と言う文字を使うことはタブーなのだそうです。ということで、『SIZ』よりも、『戦争』と言う文字を大きく入れたほうが好いといいます。それの方がインパクトが大きいというのです。確かに、街を歩いていて『戦争』と言う文字を見ることは少ないですね。色々な世界の方の話を聞くことは面白いし、大切だと実感」しました。
 退職後、人との出会いの人生における重要性に、実感と言う意味で、気付きました。それまでは、言葉だけで『そうだな』と思っていただけだったような気がします。人生を決定する、作り上げる、自分を形作る人との出会いです。
S I Z宣言する
 昨日2014年11月8日、憲法を生かす匝瑳九条の会は「S I Z宣言」をしました。宣言文は11月4日の当ブログに発表済みです。
 「S  I  Zバッジ」とステッカーを作ることも決めました。今、デザイン決定作業をしていただいておるところです。出来ましたら、ご紹介いたします。また、来年の夏休み中に原爆展と戦争体験を語る会をセットで開くことも決定しました。
 小中学校での戦争体験を語り継ぐ会は東総工業高校の決定に期待するところです。二校に断られたことにめげずに、もう幾つかの学校にご提案させていただこうかと考えております。よいごご報告が出来ればいいのですがね。
11月8日に S I Z 宣言します
「戦争に行かないぞ」宣言 = S I Z 宣言

 近代思想において、人権は生まれながらに神から与えられています。わが国でも、基本的人権を明治期には「天賦人権」といいました。天が民に与える権利です。ですから、王も国家もこれを奪うことはできないと理解するのです。しかし唯一、神や天ではなく、国家から与えられる権利があります。それが交戦権です。
 交戦権は国家が持っているとされます。それを国民は分与され、戦場で行使します。これで国民は「人を殺すことができる権利」を手にします。ですから、戦場から帰っても、殺人罪で裁かれず、暗黙の国際的了解ゆえに、敵国さえ裁きません。しかし、健全な人間が「人を殺す権利」を求めるでしょうか。
 父は1939(昭和14)年に召集され、中国北部に派遣されました。初年兵教育は相当荒っぽかったと言います。演習から帰ると中国人が柱に縛られています。「スパイを銃剣で処刑せよ」と命令がでます。しかし、「スパイ」に突進すると、緊張から足がもつれる者や、直前で、立ち往生する者が続出したそうです。それはそうでしょう。交戦権は、正確に言えば、国家から「与えられる」のではなく「押し付けられる」権利なのです。父はその後、工兵を志願し、最前線に立つことを避けました。もちろん「人を殺す権利」を行使しないためです。精一杯の戦争への抵抗でした。
 基本的人権は「自然権」とも言います。自然は人権と同じように「人を殺したくないという感情」も与えています。これが憲法九条に生かされています。「国の交戦権はこれを認めない」以後70年国民への「交戦権押し付け」はありません。
しかし、石破幹事長(当時)は政治家として「死なせる覚悟をする」と発言。これは「殺し、殺される覚悟」を国民に強いるとの宣言です。これは「交戦権の押し付け分与」ですから、大胆にも、憲法違反宣言をした訳です。これを実行に移したのが「集団的自衛権行使するとの閣議決定」ですから、これも憲法違反に違いありません。
 この憲法違反は国が決めれば自衛隊はもちろん、国民も戦争に行くだろうことを前提にしています。ならば、国民は「交戦権の押し付け」を拒否し「戦争には行かないぞ」宣言をしようではないか、と思うのです。百姓が年貢拒否一揆を起こしたように、我々は兵役拒否一揆を起こそうというわけです。
 欧州には「良心的兵役拒否」の権利を認める国があります。この言葉を使うなら、憲法九条は、元々、国民と国家こぞっての「良心的兵役拒否」宣言です。1947(昭和22)年文部省発行「あたらしい憲法のはなし」は「戦力を放棄しても心細く思うことはありません。日本は正しいことを、他の国より先に行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません」と教えています。この教えに従い「戦争に行かないぞ」宣言をします。

20014年11月8日
憲法を生かす匝瑳九条の会


 1月8日に「憲法を生かす匝瑳九条の会」の第20回会議を開きます。ここで S I Z 宣言 をしようと思います。「戦争に行かないぞ」宣言です。これに賛同される方には「S I Zバッジ」を買っていただき、付けて外出しようと呼びかけます。
自衛隊が憲法違反なのか
 「自衛隊は憲法違反だ」という声を聞かなくなりました。特に、東日本大震災以降顕著のように感じます。国民は自衛隊員の活躍を心強く見守りました。
 自民党の「政治と金問題」の膿がはじけ飛んで、社会党が政権を取る勢いとの時期がありました。もしそうなれば「非武装中立論に従い自衛隊は解体されるのか」この時初めて、不安を感じたのです。これを隠すことは、自分はもちろん、他者にも不誠実だと受け止めました。
 ならば保守派が言うように、九条は現実的ではなく、捨て去るべきなのかどうか自問しました。しかし、どうしても、そうは思えなかったのです。人を殺すことに躊躇を失うなら、人間といえるでしょうか。殺した数を自慢することが正常でしょうか。
 答えは身近にありました。人は無能でも、挑戦し、生きねばなりません。醜い自分を知りながらも、正義を求めます。同じように、実現が困難でも理想を求めずには居られないのです。現に、憲法24条両性の平等の理想も25条生存権の保障も実現していません。しかし、努力を国も社会も続けています。ならば、九条の理想だけ、非現実的と放棄することはないのです。憲法違反は「自衛隊」ではなく「武力がなくても安心できる世界実現への努力を忘れること」なのです。
 今「戦争放棄」を放棄する政権・政党が支持されています。「日本国民」にノーベル平和賞を受ける資格などありません。なのに、平和賞で、改憲の動きが止められるのではと期待してしまいました。今すべきは、ノーベル賞に理想の実現を託すのではなく、理想の実現をノーベルに報告すべく努力を重ねる覚悟を強くすることと反省中です。


「戦争に行かないぞ」宣言 その②
 昨日は、第19回憲法を生かす匝瑳九条の会」を開きました。小中学校への「戦争体験を語り継ぐ会」の開催を交渉すること。「戦争に行かないぞ」宣言をして、バッジやワッペンを作り、それを購入していただき、街を歩こうとのアピールをすることにしました。
 では「戦争に行かないぞ」宣言文をご紹介!!


「戦争に行かないぞ」宣言

 近代思想において、人権は生まれながらに神から与えられています。わが国でも、基本的人権は明治期「天賦人権」といいました。天が民に与えた権利です。ですから、王も国家もこれを奪うことはできないと理解するのです。しかし唯一、神や天ではなく、国家から与えられる権利があります。それが交戦権です。
 交戦権は国家が持っています。それを国民は分与され、戦場で行使します。この場合、交戦権とは「人を殺すことができる権利」です。ですから、戦場から帰っても、殺人罪で裁かれません。敵国さえ裁きません。国家の交戦権は国際的了解の下にあるからです。しかし、健全な人間が「人を殺す権利」を求めるでしょうか。
 父は1939(昭和14)年に召集され、中国北部に派遣されました。初年兵教育は相当荒っぽいものでした。演習から帰ると中国人が柱に縛られています。「スパイを銃剣で処刑せよ」と命令がでます。しかし、「スパイ」に突進すると、緊張から足がもつれる者や、直前で、立ち往生する者が続出したそうです。それはそうでしょう。同じ証言が多数ありますから、広く行われた「訓練」だったのでしょう。交戦権は国家から「与えられる」のではなく「押し付けられる」権利なのです。父はその後、工兵を志願し、最前線に立つことを避けました。もちろん「人を殺す権利」を行使しないためです。これが精一杯の戦争への反抗だったのだと思います。
 基本的人権は「自然権」とも言います。自然が人権を与えるように、「人を殺したくないという感情」も自然に与えられています。この思いが憲法九条に生かされています。「国の交戦権はこれを認めない」以後70年「交戦権の押し付け」はありません。
 しかし、石破幹事長(当時)は「政治家として死なさる覚悟をする」と発言。これは裏を返せば「殺させる覚悟」でもあります。ですから「交戦権の押し付け」です。大胆にも、憲法違反宣言です。これを実行に移したのが安倍首相の「集団的自衛権行使が憲法違反でないとの閣議決定」ですから、これも憲法違反です。
 この憲法違反は国が決めれば自衛隊はもちろん、国民も戦争に行くだろうことを前提にしています。ならば、国民は「交戦権の押し付け」を拒否し「戦争には行かないぞ」宣言をしようではないか、と思うのです。百姓が年貢拒否一揆を起こしたように、我々は兵役拒否一揆を起こそうというわけです。
 欧州には「良心的兵役拒否」の権利を認める国があります。この言葉を使うなら、憲法九条は国民と国家こぞっての「良心的兵役拒否」宣言です。1947(昭和22)年文部省発行「あたらしい憲法のはなし」は戦力を放棄しても「心細く思うことはありません。日本は正しいことを、他の国より先に行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません」と教えています。天が与えてくれた自然の感情通り、正直に「戦争に行かないぞ」宣言をします。
戦争に行かない宣言
 安倍首相は集団的自衛権行使が憲法違反ではないとの閣議決定をしました。これが結果する事態を石破幹事長が示しています。曰く「政治家として死なせる覚悟をする」お二人は国が決定すれば、自衛隊はもちろん、市民も戦場に行くと信じているようです。
 しかし「国の決定でも人殺しはしない」が広く支持されないという保証は何処にもありません。むしろ「殺したくも殺されたくもない」は理性を超えた「自然な感情」に属します。
 父は1939(昭和14)年に召集を受け中国北部に派遣されました。下士官候補生を拒否し、旋盤工だからと工兵を志願し、最前線に立つことを避けました(しこたま殴られたそうです)。「自然な感情」がなした、精一杯の戦争への反抗だったのだと思います。
 「良心的兵役拒否」も「自然な感情」から発しています。信念や信仰ゆえに兵役を拒否する思想です。欧州にはこれを権利として保障する国があります。日本でも戦中、これを主張した人たちがいました。また、「戦争は罪悪だ」と反対した僧侶もいたのです。
 国家と国民がこぞって「良心的兵役拒否」をした稀な例が日本国憲法9条です。この場合「拒否」というより「宣言」です。国際社会と人類の未来に向けた「約束」です。この基底にも「自然な感情」があります。
 そこで「戦争に行かない、行かせない宣言」をしたいと思うのです。この宣言署名を集め、安倍首相に提出することを全国の九条の会に期待するものです。戦争がしたくても、戦争する人間がいなければできません。「年貢拒否」ならぬ「兵役拒否」の一揆です。


平和教育にも地域が関わる
 「学校教育が地域との連携で行われるべきだ」と言われだして、何年が過ぎたでしょうか。交通安全や防犯では地域の協力は、今や、不可欠になっています。私も、町内会から選ばれる交通安全協会員となり、運動会、マラソン大会の交通安全に、保育園や小学校での交通安全教室にもお手伝いさせていただきました。
 ならば、平和教育に地域住民が関わることがあっても可笑しいことではないでしょう。ところが、元小学校教員で作る「総の会」の方に伺うと「私たちは元職員ですから、戦争体験を語る会を申し込むと受け入れていただけるが、他の団体では難しいのでは」とのことなのです。
 それは高校でも同じではないかと思われます。私が退職した9年前、同じ匂いを嗅ぎ取りました。民主主義を語ることはいいのです。しかし、それを実践しようとすると圧力がかかりました。学校で、地で行く民主主義はすでに危険思想です。同じように、平和教育もそうです。広島・長崎への修学旅行が激減しています。交通安全、いじめ、性教育、薬物、納税などの特別教育活動は盛んに行われていますが、平和教育を実施している学校は少数派です。「平和教育をさせろ」といえば、警戒されること間違いありません。
 そこで「語り継ぐ父の戦争体験」を書き始めたのです。これをお見せして、警戒心解くく必要があると思ったわけです。特別な思想を子供達に注入しようとする意図はありません。彼らの爺様の父親の世代が経験した戦争を語り、戦争を考える一助にしてもらいたいと言うことだけです。
 しかし、それでも「平和教育まかりならぬ」というのなら、そこには、何らかのイデオロギーが入り込んでいることになります。先日の集団的自衛権を書いた俳句を公民館が発表を拒否したのもこれと関係が有る話です。「イデオロギー」の存在を意識したゆえの過剰反応であったと思います。これから、仲間の知っている戦争体験を集め、それを共有した上で、学校を廻ろうと思っています。これからが、正念場です。
 
集団的自衛権反対官邸前集会に行って来ます!
 いくら安倍さんが危険な政治家であっても こんなに急激に、平和と民主主義が壊される事態になるとは思いませんでした。落ち着いて、俳句や川柳を作り、本を読めそうにないので、東京に行きます。
 太陽光パネルを設置して、反原発意志を形に出来ました。これは結構、気分を明るくしてくれましたが、一方では平和が民主主義が危ないのです。私が参加したからどういうこともないのですが、家でじっとしていることは精神の不健康につながる気がします。
 買い物もたまっていますので、それをも兼ねて、12時29分干潟発で官邸前に向かいます。帰りは24時ごろになるでしょうから、次郎が心配ですが。
国家による正義の独占
 欧州歴訪で、集団的自衛権を含んだ「積極的平和主義」を言い、武器研究開発協力の推進も忘れませんでした。安倍首相がこの市民社会を何処に連れて行こうとしているのか、不安に思う方は多いのではないでしょうか。
 一次安倍内閣時の、国が想う「愛国心」を盛り込んだ教育基本法(国家教育基本法)の改定、国が何を秘密にし、何を公開するかを決め、その秘密を暴く者を罰する特定秘密保護法(機密国家保護法)の制定、国民の義務と責任を強調し、国家を憲法の上に置く自民党憲法改正草案(平成明治憲法草案)。安倍首相の理想は一点に向いて見えます。
 ここに低通している政治信条は、個人に優先する国家であり、国家に奉仕する個人であり、国家による正義の独占ではと思えるのです。この行き着くところは「武力の正義化」です。われらはこれを反省し、憲法九条を掲げたのです。荒ぶる政府ゆえ、正義を考えさせられます。
教養文化と戦争狂気
 他人を「自分のことだけしか考えられないような窮地に陥れないこと、土壇場へ追い込まないこと」それが教養です、とフランス文学者の渡辺一夫さんが仰っています。私はこれを文化と理解してきましたが、より絞り込んだ本質を射抜いた洞察です。
 人は自分の醜さ、嫌らしさ、エゴイズムに気付いています。だからこそ、それらが噴き出ないような環境・条件を作ろうとするのです。生産活動はもちろん、教育、福祉、労働その他の社会政策がそれらに当たります。まさに文化国家を目指す国々が採っている政治です。
 韓国の水難事故では、船長が乗客を残したまま下船したことに非難が集中しましたが、過積載などが明らかになり、会社の利益優先姿勢が事故原因と分かってきました。ならば、会社が乗組員のエゴイズムを誘発したのですから、経営者の反教養性が問われます。
 今、同じことを政府与党幹部にも問わねばなりません。石破幹事長の「集団的自衛権で自衛隊員が死ぬ、血が流れることも政治家が覚悟しなければならない」発言です。これが使命感あふれる勇気ある政治家でありたいとの吐露であるならば、これほどの無教養はありません。国民に「殺し殺される究極の選択」を強要し、窮地に追い込む決断が勇気でしょうか、まして、文化でも教養でもありません。
 戦争とは、ありとあらゆる「究極の選択」を迫る天才です。人間の醜さをさらけ出す最高の舞台です。戦争は「一人殺せば殺人者だが百万人殺せば英雄だ」という矛盾を合理にする狂気を「文化」にすることから始まります。

再度提出する陳情書原案
匝瑳市議会議長  浅野勝義 様
                             
                     憲法を生かす匝瑳九条の会
                     代表 八角広道


    特定秘密保護法を廃する意見書の提出を求める陳情書

「憲法を生かす匝瑳九条の会」は陳情書を2月6日市議会事務局に提出し、3月5日、提出趣旨を担当総務委員会長山崎等議員にご説明いたしました。残念ながら、不採択との通知をいただきました。
 ところが、通知には「3月18日、不採択となりました」としか書いてありません。驚きました。そこで、市議会事務局に「不採択の理由を文書で回答願いたい」と申し入れたところ「前例がない」と断られました。市議会本会議の中継が市ホームページで観られるというので、確認すると「国で成立した法案であり、市議会の担当外ゆえ、賛成できないとの意見があった。意見打ち切り、否決した」が理由のすべてと分かりました。つまり、議論がなされなかったと知ったのです。
 確かに、国会が決めるのであり、市議会に決定権はありません。しかし、国政は市民生活に影響を与え、国の未来を決定する力を持っています。それゆえの、陳情であります。「関心がある」とは「自分ならどうするか」を考え、悩むことです。総務委員各位が国会議員ならどうするのですか。それを議論して欲しいと言う陳情でした。しかし、議論はなされませんでした。この事実は、政治家である委員各位が「政治に関心がない」という証になってしまったのです。
 そもそも、市議会議員は市民の代表です。ならば、市民の声に真摯に向き合い、扱う義務があります。たとえ、関心がなくとも、陳情が提出されたならば、まずは、勉強しなければいけません。市民を凌駕する知識を入手し、培ってきた見識を持って、己が意見を形成して、委員会に臨んで欲しいものです。であれば陳情者への、不採択理由の文書報告は要求されなくとも、自ずと、なされたのではないでしょうか。
 議論がされなかったということで「憲法を生かす匝瑳九条の会」は6月定例会に「特定秘密保護法を廃する意見書の提出を求める陳情書」を提出することにしました。今回は「抜本的修正」ではなく「法を廃すること」を求めますが、反対する理由は変わりません。前回提出しました陳情書も添付します。
 議論審議の結果がどうであれ、結論に至った経緯を、理由を明確にお示しいただくようお願いします。わが会も陳情に当たり、話し合い、文面を検討しています。量質共にわが陳情書を超える結果通知書をお待ちするものです。ご審議、よろしくお願いします。
戦争体験を語り継ぐ
 4月12日の第12回憲法を生かす匝瑳九条の会では、以下の提案をしようと思っています。米をお願いしている、農家の品村元治(81歳)さんと奥さんの聖子さん(76歳)とはよく、戦争体験お話をします。話し始めるとお二人とも気がこもってくるんですね。こんな方が匝瑳にはたくさんご健在です。また、戦争体験を成人として、経験した親を私たちに育てられました。親から聞いた戦争を次世代に語り継ぐことの重要生は高まっています。

        

 今後の「憲法を生かす匝瑳九条の会」活動についての提案
 

 子供の頃、上野公園に入ると、白い入院服を着た傷痍軍人の一団がいました。両手両足を失った人はそれをすべて地面に立てています。近寄りがたくも、その姿に心が痛みました。 
 すると父が私に10円玉を握らせたのです。その時は、私の思いを察してくれた父が大きく見えただけでした。しかし55年後、まったく違った気付きをするのです。
 父は同じ戦争体験者ゆえに直接、彼らに施せなかったのです。五体満足に帰ってきた後ろめたさからです。また、彼らの誇りへの配慮もしていました。私の後に、父は母に1000円札を渡したのです。子供から高額な施しを受ける彼らの気持ちを慮ったのです。
 晩年夜中に、父は電気もつけずに座っていることがありました。反人間的な戦争体験が安眠を妨げていたのでしょう。昨年、会員の減少と高齢化ゆえに、傷痍軍人会が解散しました。戦争体験の継承は、その子である我々の世代の仕事になってきました。  
 

 上文の上野公園での経験は、戦争を嫌い、平和の中で生活したいと思わされた最初の出来事であったように思います。
 その頃からだったのでしょうか。父は戦争の話をするようになりました。分厚いアルバムに兵隊時代が詰まっていました。写っている人たちを紹介しながら、中国での戦争体験を語るのでした。
 小学校に入いると、先生方が誇らしく平和憲法を話しました。説明に納得し安心したことを覚えています。吉田校長先生はシベリア抑留の話を朝礼でなさいました。生き残れたのは歯が丈夫だったからと、歯磨きの重要性に話を持っていかれるのです。
 中学に入ると、ベトナム戦争が激しさを増し、その現実が報道されました。米軍がアジア太平洋戦争時の日本軍と重なるのです。先の大戦を教訓・反省とし、平和憲法を守る日本政府が批判するどころか、協力したことへの怒りは忘れられません。
 その後、世界で戦争・紛争が起きるたびに、九条が世界スタンダードになる必要性を感じることになります。しかし、世界を変えたともいえる九条は軽んじられ続けられました。それは、取りも直さず、戦争体験の濃度の薄まりでもあったと思うのです。
 戦後日本の出発は戦争体験を土台にしていたはずです。そこから、軍事よりも民生、政治弾圧禁止、経済格差解消(農地解放・財閥解体)、教育の政府からの独立、労働運動の役割重視、男女平等が導き出されました。その歴史的事実を思うに、戦争体験は戦後日本のもう一つの共通言語であるに違いないのです。
 そこで、わが「憲法を生かす匝瑳九条の会」は戦争体験を継承すべく、活動を開始したいと思うのです。もう、成人として戦争を体験された方のお話を聞けることは難しくなってきました。ですから、子供時代に経験したと言う話、そして、親から聞いたと言う話を語る会を開くことからはじめようと思うのです。皆さんの想いを次回会議で語り合えればと、希望します。
改憲するならこうでよう
 「自民党憲法改正草案」は九条の二項を変え、その上で、九条の二「国防軍」を加え、戦争ができる国にしようとしています。どうも、理想とする国家像が違うようです。
 日本国憲法は「生きる権利」や「男女平等」などの理想を掲げています。平和主義もその一つ。苦しい戦争経験から国民が支持した理想を追い求め続けることが犠牲者への追悼になると信じる自分です。
 そこで、現実を理想に向かわせる改憲をしたいと思うのです。九条二項に続けて三項「前項を行うために、必要な法律を定め、妨げるそれを排除する。また、必要な条約を結び、妨げる条約を排除する。軍事同盟は認めない。四項「日本政府は、国際社会の一員として「積極的平和主義」を掲げ、国際紛争の仲裁を行い、戦争を回避する責務を負う。
 これにより、自衛隊、安保がなくても済む状況・時代を作るに逆行する政策はもちろん、努力を怠る政治、戦争協力も憲法違反になります。安倍首相の「積極的平和主義」の欺瞞が明らかになります。