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早期退職後の生活を省みて、ものの見え方、心持ち、生き方の変化を確認しながらの日記です。人生、社会の動きにも眼を向けたいと思っています。
平均が大事なテスト子ではない
 今日、昨日と子供を大事にしない出来事を東京新聞は伝えています。昨日は受験勉強をしない我が子を殺した父親の話。今日は、全国一斉学力テストの結果報告に出来の悪い生徒の答案を外して報告した学校の話です。

     サボるなと殺せば子らは絶滅す

     平均が大事なテスト子ではない

 「サボる」がサボタージュから生まれた日本語であることは有名です。旧制高校の学生たちに流行ったと聞きますから、当時のエリートたちもサボったのです。ならば、小中学生が勉強をしないからと、本気で怒っていたら、親の精神安定はありえません。ストレスの塊になります。現にそうなってしまったのでしょう、この親御さんは。何重にも残念な事件です。
 さて、全国一斉学力テストです。導入の際、識者が心配していたことがそのまま現れ出ました。識者ならずとも、予想できたことです。私のように教育現場にいたものとしては、自明のことでした。
 目的は子供たちの理解を向上させるための資料を得ることとされました。しかし、」私はそれを疑っていました。目的は平均点を公表することで、学校や職員の競争心を煽り、結果、学力を上げることで間違いないと思いました。これは、教員管理につながります。その根底には教師不信があります。恥をかかせなければ学力向上の努力をしやしないのが教師だという浅はかな人間観がここにあります。上の父親に通じる人間観です。
 教師を管理して、生徒も管理できます。学力テストは国家による学校支配の一方法であると私は思います。ますます、学校が息苦しい場になっているはずです。不登校は増えているはずです。そのうちに、学校教育から離れる親御さんやお子さんがあふれるようになるでしょう。そうなっても、原因が不信からくる管理教育にあることに思い当たらないでしょう。早く、離れた方がいいです。私、学校に代わって勉強のお手伝いしたいですね。

 
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温かな人間関係
 学校をめぐる殺伐とした出来事が多い中、よい話を伺いました。15年ほど前の、ある高校の話です。
文化祭で演奏をするグループから、生徒会顧問に、退学処分になった子の参加を認めて欲しい」との要望がありました。顧問は迷って、先輩に相談しましたが、許可理由が見出せず、やはり、迷ったのです。結果、職員会議での議論に任せます。
 さてその会議、皆腕を組むばかりです。そこに、普段はもの言わぬ校長先生が「退学した生徒が学校に来てくれるのだから、こんな嬉しいことはない」と一言呟きました。
 これ「退学処分がよくも学校に来る」と問答無用の不許可が普通です。校長先生は柔軟頭の知恵者です。と同時に、迷い、許可理由を探した先生方は温かいのです。共通しているのは生徒への信頼と寛容、これが今の教育に欠けているのかもしれません。


一緒に学んだ、解ったで血が通う
 匝瑳市サタデースクールは市教育委員会が主催しています。今回、サタデースクール体験入学の実施に伴う私達指導員と委員会の意見交換の中で、大きな認識の違い、溝に気付かされました。
 委員会は、自習する子供たちの監督だけをしている、それだけを期待していたことがわかりました。小学校教育にかかわりを持っている方々が教育委員会に居られるわけですから、それで済まないことは解るだろうとと私達は思っていたわけです。しかしそうではなかったことが判ったのです。
 今日は三年生と二時間勉強しました。その間、なかなか正解に至らない問題を一緒に取り組みました。すると、解る瞬間が来るんですね。表情を見ていれば、理解が降ってきたその時を捉えることができます。帰りの会が各教室で終わるのを、私は一階で待っています。昇降口で、理解が「降ってきた子」は必ずと言ってよいほど、その子から「先生、さようなら」といってきます。
 解ることは喜びです。そして、解らぬことは切ないのです。教わり、解った瞬間に、血が通い合うのです。子供がわかることは私たちの喜びで、もちろん、彼らの喜びです。勉強を通じて、血を通い合わせることが私達の仕事です。監督だけではないのです。喜びを与えてくれる子供たちは有難い存在です。

     風光る算数解けし子らの顔



     歯舞を読めぬ大臣まだ無害

     節税の僧の説法無欲なり

     妄言無知金や女性と多材なり
              おんな

     
道徳を評価する不道徳
 道徳を教科にして評価することは国語や算数を評価することと根本的に違っています。これは学力ではなく、人間を評価するに等しいからです。学力は学べば上げることができます。しかし、人格はそうは行きません。生徒達から逃げ場を奪います。
 これに対して「否、そうではない。他教科同様、教科書に従えば評価は上がるのだ」と言うのでしょう。ならば、教科書が示す道徳に価値を統一することになります。民主主義社会において、最も大事な道徳は多様な価値を認め合うことです。その可能性を教科化が奪うと文科省は気付かないのでしょうか。大いに疑問です。
 道徳の検定教科書を作ることは道徳の国家による管理に通じます。というか、戦前の例を引くまでもなく管理したい国家意志の表れと言わねばなりません。しかし本来、道徳とは国家にではなく、個人と社会に属するものです。東日本大震災の時、世界が賞賛した被災者の行動は道徳の授業によるものではありません。これが個人の資質と地域社会の常識がなした業であり、国家の監視によるものでないことは言うまでもありません。だからこそ、世界は賞賛したのです。
 加えて危惧するのは、善人と悪人とに分ける手法を取るだろうことです。善も悪も、一人の人間の中にあるという理解が道徳存立の前提です。善と悪、そのせめぎ合い中に危うく人格があるのです。だから、生きることは厳しく、素晴らしいのだとの理解なしに、道徳も倫理も存立しません。
 道徳は検定教科書ではなく、不断の自己研鑽と経験によって育まれます。すでにある一つの価値に向かって、国民を統合しようとする野望は文化から最も遠い野蛮と言わねばなりません。道徳を評価することこそ不道徳です。


     教科にし評価で脅す不道徳




    政権の本音が剥がすパネル板

    「活躍」が「活用」だった化けの皮
夏休み登校日いつが適当か
 楽しい夏休みも残り少なくなってきました。そろそろ宿題が重荷になってくる時期です。今日8月21日、子供達が学校に行きました。
 なぜ、千葉県公立学校の多くが登校日を21日に指定しているのでしょうか。それは、給料日が毎月21日だからです。学校・職員にとって、都合が良いからです。
 しかし、生徒にとって必然性はありません。むしろ、夏休み半ばの8月10日頃に集まって、宿題の進行状況も含め、生徒たちの様子を確認することが指導上適当だと考えられます。さらに考えれば、10日は現在、お盆休みともいえますので、7日前後が適当ではないでしょうか。
 この間、6日は広島、9日は長崎原爆の日です。夏休みの後半に向け、再スタートが切れる上に、平和教育の場も設定できます。そして、何よりも大切なのは、子供中心の学校運営をしているとの、生徒・保護者からの信頼が得られることです。

体罰は教育の放棄
体罰論議が続いています。いじめ問題も含め、正義・倫理という視点から、多くが語られています。しかし、もう一つ、自殺=悲劇に至らせないという視点も必要でしょう。
 東京新聞2月26日「ミラー」江口さんの「鉄拳制裁、その後」は「自殺を困難回避の手段にしない」強さを育むことも必要と主張しています。「それでは、自殺者の弱さが原因と言うのか」との誤解を恐れずに、ことの本質を突きました。しかし同時に、そしてやはり、教師が生徒の自殺原因になってはいけないのです。
 小・中学校と違い、高校には「特別指導」があります。そのために、事件が起きると「取り調べ」を行います。初任教師はこれに抵抗を感じます。しかし事実(非行)を隠したままでは反省はできません。事実を認めさせることから、指導が始まります。
事実に従い、停学を申し渡し、生徒に「納得」が生まれれば、具体的な特別指導の開始です。登校させて、多くの教師が当たり、その思いを伝えます。ここで、事件に至る生徒の「心と事情」を取り上げることが大切です。
 もし、機械的に自宅謹慎だけを命じるならば、指導は指導になり得ず、懲戒に劣化します。つまり、教育ではありません。そして、体罰こそが、最も直さい的な懲戒処分なのです(大阪の事件には懲戒理由さえない)。体罰は「教育の放棄」と言わねばなりません。
「愛情なき厳しさは冷酷」です。江口さんは鉄拳を指導として受け入れました。愛情を感じたのでしょう。しかし、それは生徒の生理であり、教師の倫理ではありません。
サタデースクールの子供からも年賀状
 サタデースクールの子供たちからも年賀状を頂きました。初めてです。その中に「5年間、続けてきてよかったなぁ」と思わせる言葉がありました。その全文をご紹介します。
 私もそろそろ中学生です。月日は早いものですね。サタデーもそろそろ終わりです。まぁ、少しさみしいかなぁ。特に、綾音は違う中学だし。なんだかんだ言って、サタデーはタメになりましたよ。勉強以外でも。それでは、また、サタデーで。
 この中で、どこが一番うれしかったかお分かりですね。そうです「勉強以外」です。「勉強以外でもタメになった」と思っていると言うことです。この言葉から、この子は他の生徒とも、我々ともよい関係を持ち得たと実感していることが分かるからです。。
 学校の目的は勉強を教えることです。これが常識です。しかし、これは表面上の話です。学習は勉強以外のことを学ぶ方法、手段に過ぎないと思うのです。でないならば、勉強を理解できない、勉強に耐えられない子は学校に来る必要も、資格もないことになってしまいます。
 どの子とも仲良くでき、大事に思える、そう感じ合える関係の中に置くことが教育の最大の目的ではないでしょうか。彼女はそれを感じながら、サタデーに来ているのです。「綾音は違う中学だし」寂しさは大事なものを失うそれです。
職員会議採決復活を
 生徒が自殺した件で、川西市の県立高校は生徒への説明の場では「不慮の事故」とさせて欲しいと、被害者の保護者に求めていたとの報道がありました。道理を見失った、不甲斐無い姿勢に苛立ちます。
 同じような苛立ちを覚えたことがあります。横浜から千葉に移った時です。横浜の学校では、職員も生徒も自由闊達で生徒職員の「成長」を目的にしていました。それに対して、重く硬い体制への、無条件の同化を強いる、自己規制という「秩序」を目的としていたのが千葉でした。
 この差はどこから生まれてくるのか。答えは最初の職員会議で分りました。議長は職員選挙による議長団ではなく、教頭が行い、さらに、多数決による採決がないのです。会議は静かなものです。反対意見がなく、原案通りに決まるのが理想の会議とされていました。原案に反対すると後で、幹部達に囲まれて糾弾されることも起きたのです。
 職員会議と学校の活気とどう関係があるのか。それは簡単です。自分の一票で、会議が決まるかもしれないのです。ですから、真剣に意見を聞きくことになり、自分の意見も生まれます。初任教員にも「若い先生の意見が聞きたい」とむしろ期待されました。職員会議は責任に緊張し、先輩の意見や見識を学び、己を作る成長の場でもあったのです。
 学校での民主主義とは「一人一人が校長のつもりで考え、発言し、行動することだ」先輩の言葉です。その民主主義が機能せずにいる現在、民主的であれば問題がないとは思いません。しかし、今でも、民主主義以上の原理はありません。ですが学校では、言葉だけで済ませない民主主義は今や危険思想なのです。
 「学校は変わってしまった」「自分も早期退職したい」旧同僚たちの声です。神奈川県立高校でも千葉方式が浸透、それは東京も同じです。都立三鷹高校の土肥元校長の事件がその例証です。校長の裁量権を狭めに狭め、教育委員会の権限を強める動きは、中央集権の弊害が明らかになった今、時代に逆行しています。
 退職する直前の校長は私の質問に「教育委員会の言う通りにするのが私の仕事です」と言い切りました。今回の「自殺」を「不慮の事故」発言には教育委員会の影が付きまといます。職員会議で、職員の声が反映されれば、生徒の死をうやむやにする、尊厳を傷つけるような結論は避けられたのではないでしょうか。
 職員会議での採決を校長が判断して学校の決定にする制度の復活は各学校の実情に合った教育を可能にすることでしょう。職員会議を通じた団結で、生徒の成長を目的とした学校を再生したいものです。出来ないことはありません。民主主義の学校には職員の数だけ校長が居るのです。
母親の力
 陸君と珠ちゃんとの勉強会も軌道に乗ってきたのか、お隣でもある珠ちゃんのお母さんから「やる気が出てきました」とのお話をいただきました。その「やる気」の話です。
 陸君は飽きてしまうことがあります。そこで、身近なことからと、今までに行ったことがある観光地を紙に書いてもらいました。「その場所を地図に探して」箱根、横浜、山梨、ヒントを与えて、ようやく、確認できました。
 「では、関東一都六県の名前と場所と県庁所在地を覚えます」「ええ!」と陸君。しかし、意外と覚えがいいのです。「お母さんが迎えに来たら発表します。言えたら驚いて、そして喜ぶだろうね」二人とも笑顔で応えました。俄然、陸君のテンションが上がりました。珠ちゃんは控えめな子です。それでも、少し、力が入ったことが眼に表われました。
 車の音がすると「来た!!」恋人を待っていたかのようです。二人とも、すべて正解。お母さん達の「すごいねえ」にスキップするかのように帰って行きました。それこそ、母親の力は「すごい」ですね。


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 同じような写真を三枚も、とお思いの方もいらっしゃることでしょう。その通りなのですが、細かにみると違う写真なのです。左は「ああ、来たぞ。何だろう」なのです。真ん中は「これはまた、キスされるぞ」と身構えてい居るんです。右は「そうではないようだな」という顔です。

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 では、三枚の写真に表れたぼーのこころを想像してください。 

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 甥もぼーの可愛らしさにメロメロです。スマートホンで、それを配信するために、撮影に夢中です。

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 下の姉夫婦と甥が帰ってしまい、寂しいだろうと久しぶりに上に上げてやりました。





「お花の誕生日はいつ」
 NHK「こども電話相談室」に寄せられた相談5つ。答えて、3つが終わっています。今日は4つ目「お花の誕生日はいつですか」に挑戦してみます。


 花が美しいのは色や形、匂いもそうですが、生きているからだと思います。ですから、誕生日は花が咲いた時ではないと思います。命が出発した時だと思うのです。
 人間はお母さんから生まれた日を誕生日としますが、それは植物で言えば、花が咲いた時ではないでしょうか。お母さんお腹で、命が授かったのは誕生日の10ヶ月と10日前です。その日が本当は誕生日なんでしょうが、誰もが十月十日で生まれてくるわけではないので、出産した日を誕生日にしています。
 では、植物はどうでしょうか。花が咲きます。花の中にはおしべとめしべがあり、おしべの花粉がめしべにつくと種が出来始めます。その日がお花の誕生日です。これを何千回何万回繰り返し花は命をつないできました。
 人間もそうです。お父さんお母さんから生まれましたが、お父さんお母さんは4人のおじいさんおばあさんがいなければ生まれてきませんでした。さらにさかのぼれば8人の曾おじいさんとおばあさんがいました。その組み合わせが1人でも違えば、私たちは生まれてこなかったことになります。選ばれて生まれてきたんだといえます。何万の生まれてこなかった命があることに思いを致すことも必要です。
 スター探しのコンテストがあります。何万人もの中から選ばれたスター達がいます。上戸彩さんがそうですね。と同じく、私達も選ばれたスターとしてこの世にデビューしたのです。選んでくれた審査員=ご先祖様・神様に感謝したくなりませんか。
大人たちはピカソの絵が凄いといいます。どうしてですか?
 芸術は美を追い求めるものですから、すごい絵の「すごい」は「美しい」でなければいけません。しかし、ピカソの絵の中には美しいとは言いずらい作品が多数あります。代表作「ゲルニカ」その習作の一部「泣く女」「三人の踊り子」どれも、それと分からずに「買わないか」と言われれば、5万円でも遠慮するでしょう。この質問者の気持ち、良く分かります。
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   ゲルニカ         泣く女「週刊美術館ピカソ」より
 
 私のような素人に受ける絵画は本物を写したような作品です。例えば、写生された風景画を綺麗だと思います。それは、現実にある風景を美しいと思っているのです。ゆえに、現実を正確に描いた絵は美しいし、模写の精度が高いほど、上手い画家ということになるのです。
 19世紀西欧は順調に発展しました。全ての問題が提出され、すでに解決されている理想の時代に見えました。理性が成長と調和を両立させる安心の時を迎えていたのです。ですから、彼らは目の前にある全てを美しいと受け入れられ、そのまま描いたのです。
 しかし、20世紀に入ると、第一次世界大戦が勃発し、過去にない破壊と殺戮が繰り広げられました。理性と調和が信仰であったことを突きつけられ、美しい世界は崩れ去ります。となると、もはや写生は美を生み出しません。20世紀は、美しくない現実を壊さないと美しさに出会えない時代になったのです。
 そうして、それ以後のピカソの絵を見てみると、確かに、現実を分解したよう絵が多いです。では、それが美しいのでしょうか。私にはそうは見えません。しかし、醜い現実をそのまま描くよりは、醜さを壊したものを描いた方が、より美しいでしょう。あるいは、自分が見えるように描いただけなのかもしれません。
 もし、ピカソの絵が人の心を打つのなら、現実と格闘する姿ではないでしょうか。受け入れられない現実を、阿古屋貝が痛みの原因である石を苦汁で真珠に変えてゆくように、美を創造する、その姿を作品に見出すのでしょう。あるいは、現実からの自由が人間の証明とピカソは信じていたのかもしれません。
なぜ、仲がよいほど喧嘩するの
 「なぜ、仲がいいのに喧嘩するの」 最もな疑問です。「仲が悪いから喧嘩する」と思うのが普通です。自民党の国会質問は喧嘩そのものでした。そりゃあ、仲が悪いですよね、政権を奪い合った相手同士ですから。
 しかし、あの喧嘩は嫌いだからではないでしょう。憎いゆえの攻撃に見えました。嫌いな場合はむしろ、関わリたくないと思うものです。ちなみに、いじめとは「嫌悪」が「蔑み」に変わることで、対応が「無視」から「支配」に「進化」した攻撃のことです。
 ということは、好きならば、逆ですから、関わりたいと思うはずです。具体的には、好きな相手には与えたいと思うものです。しかし、同時に、その何倍も与えて欲しいと思うのが人間の情ではないでしょうか。好き同士ならば、お互いに、相手に期待することになります。与えることを考えない者同士が与えられることを期待し合っているのですから、不満に思うようになります。ですから喧嘩です。相手への思いが強ければ強いほど、喧嘩は避けられません。
 愛情は甘えを許されることで感じます。好きであるが故の喧嘩を通して、与え合うことの方が幸せな関係であると気付くのではないでしょうか。それまでは「仲が良いほど、喧嘩する」が続くのだと思います。


 次は『僕には理解できないのに、大人達は『ピカソの絵は凄い』というのはなぜ」に挑戦したいと思います。もしかしたら、これに答えるのが一番難しいですかね。
「反省の色は何色ですか」
 NHK「こども電話相談室」に寄せられた相談に挑戦したいと思います。12月2日の当ブログに挙げた5つの質問を順に。
 
 落語に「佐々木裁き」というのがあります。元々、上方落語であるこれを、先代金馬さんは「池田大助」として演じました。人物設定を変えていますが、内容はほぼ同じです。
 この中で大岡越前守と、後に池田大助となる子供の、白州でのやり取りがあります。越前「星は幾つあるか数えよ」小僧「それでは聞きますが、この白州の石の数を教えてください」「上様から奉行職を仰せつかっておる越前でも、分かるはずがなかろう」「こんな近くの石の数が分からないのに、遠い星の数が分かるはずかないよ。こんな事を聞く大岡越前はバカだ」
 なぜか「反省の色は何色か」に「池田大助」が思い浮かびました。質問者とこの小生意気な小僧が重なって見えたのです。それぐらいひねた質問です。が、この質問は、ひねているがゆえの疑問ではないでしょう。純粋なのだと思います。
 「君は自分を何色だと思いますか。反省の色はその色だと思います」と答えたいのですが・・・・。過去を振り返り、私、人を恨むことが浮かんできません。しかし、後悔する、恥ずかしいことは幾らでも思い出せます。なぜ、ああしてしまったのか、しようとしなかったのか、できなかったのか。意識は全て自分に向かいます。自分の内側を射すように見ています。
 ですから、反省の色は自分色です。ちなみに、今、私は自分が濃いグリーンに見えます。


次回は「『喧嘩するほど仲がいい』といいますが、なぜ、仲がいいのに喧嘩するんですか」への答えです。これも難問といえば難問です。
成功の秘訣は
 卒業生と話をしている時に、彼が「今、自分に言い聞かせている言葉があるんです」と言うのです。
 「どんな言葉」「成功の秘訣を聞かれた時にある有名人が答えた言葉なんです」「なにそれ」「それがですね。成功の秘訣は『成功するまでやること』と答えたんです」
 なるほど。本質を直接突いた言葉は、人を動かす言葉は、単純で明快ですね。これを「やり続けること」「諦めないこと」といったのでは、単純ではありますが、本質の皮を剥き取れていないんですね。名言だと思います。
 「頑張れ道は開ける」とか「やり続けることが大事」「諦めるな」等等、聞き飽きた言葉は人を動かしません。言い尽くされたことを、どう表現して、ことの核心に気付かせるか、これが教育のそれこそ核心ではないでしょうか。
こどもの質問に挑戦!!
 ブログ「あさぎ庵」さんにお邪魔したら、面白い記事に出会いました。もう終わってしまったのですが、NHKラジオ番組「こども電話相談室」に実際に寄せられた質問5問です。早速

1 反省の色は何色ですか?

2 「喧嘩するほど、仲がいい」と言われますが、仲がいいのに、なぜ喧嘩するのですか?

3 僕は意味が分からないのに、大人達はピカソの絵がすごいといいます。どうしてですか?

4 人間には誕生日があります。お花の誕生日はいつですか?

5 明日は、なぜ、あるのですか?

 どれも難問です。というか、我々はこんな疑問を持ちません。しかし、痛いところを突いていますね。大問題もあります。5の「明日は、なぜ、あるのですか」これに答えられる哲学者が何人居るでしょうか。しかし、私も教師の端くれでした。端から、ギブアップするわけにはいきません。挑戦させていただきます。よろしければ、皆さんもどうぞ!!

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父が植えた菊が、未だに、毎年咲きます。
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春と勘違い、つつじが咲いています。暖かいのでしょうね。散歩中発見、捨てられたジャガイモも、青々と、子をなす勢いです。
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散歩から帰り、勢いよく水を飲むの図。
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「見たな」与えたビスケットを土に埋めた直後です。好く見てください、鼻に土がまだ少し付いています。

 

実は、分かっていない言葉の意味
 クイズ番組ブームが続いています。特に、漢字の読み書きを扱う番組が目立ちます。なぜか、言葉の意味を問うクイズはまだ少ないようです。ここまでくると、主流は意味を扱うようになるのではないでしょうか。
 分かっているようで、分かっていない言葉は多いものです。特に、抽象名詞には上手く説明できないものが目立ちます。
 机は「家具」です。鉛筆は「筆記用具」です。自転車は「乗り物」です。これに倣い「理性」「人権」「文化」「宗教」「経済」は何であるかに答えてみてください。つまり、机は、勉強や事務仕事をする時に使う「家具」です。修飾部分は要りませんから、「家具」に当たる言葉を、それぞれについて答えて見てくださいというクイズです。
 これ、きっと正解は一つではないと思います。だから、クイズにしないのか。今、気付きました。答えをコメントしていただけたら有り難いです。楽しみにして居ります。
命の格差と搾取(歴史をどう書くか)
 歴史を書く時に、文明以降、搾取があることを避けて通れません。搾取は歴史的事実です。国家であるかどうかの判断はどのようにされるかを考えれば、良くわかります。例えば、邪馬台国が国家どうかを判断すると。
 権力の具体的な現われ    魏志倭人伝の記述
①法の制定と強制     其の法を犯すや
②税の徴収         租賦を収むに邸閣有り
③地方支配         一大卒を置き、諸国を検察せしむ
④階級            大人と下戸
⑤軍事力           兵を持して守衛す
⑥外交の独占        親魏倭王
 上を見る限り、邪馬台国は国家の様相をしています。が、統一政権であるかどうかは不確定です。「検察せしむ」では他の小国を従属させて、生産物・労働力を収奪していたかどうか分かりません。では、①~⑥は何を物語っているでしょうか。要は、「搾取」 を可能にするための 準備 と 仕組み です。じっくり、見比べていただければと思います。
 共産主義の失敗により、マルクスの資本主義分析までもが嘘っぽく見えてきました。また、先進資本主義国民の豊かな生活は、搾取を見えにくくしました。高度資本主義には「搾取はない」とまで言われました。しかし、それは間違いです。まさに、見えにくくなっただけです。
 搾取に、抵抗があるなら「「働けど働けどわが暮らし楽にならず」ではどうでしょうか。これが実感である人は多いはずです。人間史は搾取との戦いであるとの認識を歴史教科書記述の基礎におかなければ嘘になると思います。
 貧困を個人の問題とするか、社会システムの結果とするのか、個人の問題だけとしたら、説明できない貧困があることは疑う余地がありません。一人一人の労働が当人の実感などお構いなく、資本と市場の論理で評価されてゆく。労働市場・資本の論理に適合するか、付いてゆけるかどうかで、労働の価値が決められることに、人間として、根源的な違和感を覚えます。
 他人の労働に敬意を示さないことは、人間として敬意を示さないことでもあります。労働力に格差を設けることは命に格差をつけることです。これは経済の話ではなく、倫理の問題です。倫理と矛盾し合う経済は破壊的です。この破壊力を見据えない歴史は学問に値しません。信じるに値しません。
受験勉強と教科書の質を問う
 少なくとも、日本史に関して言えば、合格することに狙いを定めた受験勉強は若者の労力の無駄使いになっています。受かってしまえば、もう意味を失う暗記やクイズに過ぎません。裏を返せば高校生にとって、受験科目でないならば、学ぶ意味がない日本史になっているのです。
 同じことが進路指導にも言えます。とにかくどうでも、合格させさえすれば教師の責任は果たしたことになるといった進路指導による合格は、就職・進学後の力にはなりません。「学ばない学生」「心ここにない働き手」になる可能性が高いでしょう。もちろん、それは当人達にとっても不幸なことです。
 では、力になる受験勉強とはどんなものでしょうか。その核となることを、昨日、書いたつもりなのです。具体的にはどうするのか。自分なりに考えたことを書いてみようと思います。
 もし、受験勉強の日本史が面白いと感じられれば、それだけで、無意味な暗記訓練ではなくなります。面白い、関心を持つとは、「自分ならどうするか」を考えることです。その時代に居たら自分なら「どう考え、行動をとるか」これだけの歴史的事実からはどんな推論が立てられるか、どちらの説が正しいか。これ等に取り組むことは受験一辺倒から開放してくれるはずです。
 また、この点取り虫からの開放による余裕は、教科書の読み方、見え方を変えて行くと思います。そうすると、より深い教科書との関係が生まれます。その関係ゆえの発見は成長の可能性をもたらします。なぜなら、発見は人を変化させるものであり、成長は変化そのものだからです。
 しかし、残念ながら、成長の種を仕込んでいない、薄っぺらな教科書になっています。その教科書を厳しく検定している文科省最大の使命が子どもの成長であることは、笑えない冗談です。教科書作りに独創性が求められます。独創性は自由があってこそ発揮されることは言うまでもありません。
 
大きな歴史の放棄
 歴史法則を扱わないことが歴史分野はもちろん、社会学、思想分野でも常識化しています。確かに、全ての地域、民族を貫徹する法則の存在を想定することの無理は理解します。。法則に縛られることの窮屈さ不自然さ、人間の努力を評価しない反ヒューマニズムへの違和感も理解できます。文化人類学成果が、単一価値に従い歴史が動くことのグロテスクに気付かせてくれました。
 しかし、それだけではないように感じます。これに加えて、人文教養・人文科学軽視の時代相もあるのではないでしょうか。。「人とは何者なのか」「人はなぜ生きるのか」「善とは」「神とは」命が求める自然に背を向け続けられるでしょうか。
 歴史は己の守備範囲を狭く狭く絞っている様に見えます。もちろん、「人はどこから来て、どこへ行くのか」誰にも正解は分かりません。しかし、だからといって、この大問題を考える努力をも放棄して良いとはならないと思うのです。あるいは放棄しえるのか。
 高校歴史教科書で、歴史哲学を語らせることは難しいことですが、語らせる努力をしないこととは別です。語る意欲を失っていることの弊害が大きいと思います。「なぜ歴史は動くのか」それを考えることが大切だと「はじめ」に書いておきながら、教科書にはその答えはないのです。各時代への変化はどのような人々のどんな要求から生まれたのかさえ、書いてない場合が多いのです。
 歴史は変化です。変化にはエネルギーが必要です。各時代に付き、「歴史を動かすエネルギー(勢い)は何なのか」これも書かれていません。歴史が暗記科目と、高校生から蔑まされても仕様がない状況です。
歴史教科書は変わった
 日本史採用でしたが、勤務校の事情で、20年近く、歴史を担当できませんでした。その中で、退職。歴史検定受検のために、学習しました。そこで知ったことは、歴史研究の進歩により、大分内容が変わっていることでした。
 「更新世」「完新世」を知っていますか。知りませんでした。それぞれ、我々が習った「洪積世」「沖積世」のことです。「洪積世」とは聖書が伝えるノアの箱舟の洪水がもたらした堆積物の時代、「沖積世」はそれ以後の、河川による堆積物の時代と言う意味があるので、全世界的に通用させずらいということで、変えたそうです。
 葛生人、三ケ日人の言葉は消えています。年代確定に難があるということで、旧石器時代人から外されたようです。今は、沖縄の港川人が18000年前と確定され、発見された最古の旧石器人になっています。明石原人については、決着が付いていないとして紹介はされています。
 「仁徳天皇稜」「応神天皇稜」ともに消えています。前者は「大仙稜古墳」(だいせんりょうこふん)後者は「誉田御廟山古墳」(こんだごびょうやまこふん)と言っています。両天皇の墓であることが怪しいからだそうです。
 邪馬台国論争は、俄然、大和説が有力になってきています。最古の巨大古墳であるヤマト三輪山麓の箸墓古墳が四世紀はじめの築造であることがはっきりしたそうです。これは現在の奈良県桜井市とその周辺にヤマト政権が生まれたことを示します。そうすると、魏志倭人伝の時代と50~60年の差しかなくなります。
 この時代の論争はいいのです。むしろ必要だと思います。考古学、古代史、調査技術等の進歩により、歴史が書き換えられることはあってしかるべきです。しかし、「南京大虐殺はなかった」「日本の支配はアジア人民に受入れられ評価された」「日本の朝鮮支配は彼らが望んだ結果だった」などという書き換えが許せないことだとの国民の合意は作っておかなければいけません。
経済センサス調査、日本の教育力を想う
 経済センサス基礎調査をこれから始めます。今日はその準備で、各会社ごとに調査票等を封筒に入れ、説明会の復習確認をしました。
 それをしながら、川口の姉に電話しました。用を済ませ、「全国の会社、事業所、個人経営すべてが対象だから、そっちにも行くよ」と言ったら、すでに調査員がきたそうです。これをわずか3週間でやってのけることって、実はすごいことではないでしょうか。
 調査をお願いに言って、説明しなければいけません。また、予想される質問の答えを準備して置かなければなりません。146ページ及ぶ「調査の手引き」の相当部分を読み理解しなければなりません。私の分担が51箇所です。1000万箇所としても、ざっと、20万人の調査員が必要です。それだけの人材が退職者、ご老人、主婦の中にふんだんにあふれている。日本の教育力の高さに思い至ったわけです。
 ゆとり教育の結果なのかどうか分かりませんが、どの世界規模の教育調査でも一位を独占してきた日本がフィンランド・韓国・香港・シンガポールなどに抜かれて、教師の質が落ちたと言われました。しかし、ここ一・二年、また、上位に食い込んできました。しかも、上の国々をよく見てください。韓国の5000万人を除けば、数百万の人口です。日本は12600万人。これほどの大国で上位を維持続けてきた国はありません。
 もちろん、この成果は現場の教師の力だけによるものではありません。しかし同時に言えることは、教師の質が悪く、怠け者であるならば、はやり、実現できない成果であることも事実です。組合が強いがゆえに仕事をしない教師が増えて、子供の学力が落ちたなどという的外れな批判はすぐにやめるべきですし、市民もこれに惑わされてはいけません。公務員攻撃とあいまって、教師批判を強め、物言えぬ教育現場を作りたい人たちの思惑を感じます。
 市民と教師集団は協力こそすれ、批判し合う関係ではありません。また、教師は、高い教育力に自信を持って仕事をしていいのだと思います。日本が溜め込んだ教育の潜在力は世界トップクラスであることに違いありません。それを感じさせてくれる経済センサス調査です。

 
生徒が居ない模擬授業は研修にならない
 今日の東京新聞見出しに「無人授業やめさせて」とあります。「何のことだ。教師がいない授業のこと。で、生徒が訴えているのか」などを頭に浮かべながら、読み出すと、予想外のことでした。力不足と判断された教師が授業をさせてもらえず、無人の教室で、授業練習をさせられている、それを止めさせてと、裁判所に申し立てたというのです。うなってしまいました。
 思うに、この学校の首脳部は生徒が不祥事を起こしても、詫びないと推察します。この学校は難易度が高い大学に進学させることを目的とし、人間教育をする気がない、しない、必要ないと確信していると思います。確かに、学習はそれ自体目的でもまりますが、しかし、同時に、手立てでもあるのです。教師は授業を手段として、人間教育をしているのです。その視点を失ってはいけないと思います。
 では、人間教育とはどんな教育でしょうか。それは、人間同士の関係の中にしか人格はないことを学ばせる実践です。他人が居なければ、善も悪もないことを理解させることと言ってもようでしょう。無人島に、一人で生活する者は善人にも悪人にもなれないのです。自分という人間は、人と人の関係という束の中心で、それを抱えているのです。が、束を放してしまうと自分が消えてしまうことを、お互いの存在なくして自分では居られないことを理解するよう働きかけることが人間教育の核です。
 で、無人授業です。「無人授業」では教師と生徒、生徒同士の無数の組み合わせのやり取り(関係)が起きませんから、人間教育の可能性を失っています。目出度くこの授業の達人と認められての、生徒を前に行う授業は大学合格技術の高さだけが評価対象に違いありません。
 教育改革は自己評価制度、管理職による評価査定制度、教育免許更新制へと進んでいます。お上が目指す教育を内面化した教師を作る制度ばかりです。この制度の到達点の一類型を見る思いがして、記事にうなったのです。ちなみにこの高校、三年前から、有名な大手学習塾に経営が移っています。
 
 
幻の卒業証書
 26日の新聞に、授業料滞納を理由に、卒業証書を回収高校が相次いでいるという記事がありました。共産党の石井議員の指摘に、塩谷文科相は「全過程を終了した者卒業証書を授与することになっている」(学校教育法施行規則第58条)と教育委員会に指導することを約束しました。
 この記事を読んで、官僚的合理主義が人間的情を軽く見るいつものこととため息が出ました。しかし、引っかかる話なのです。というのは、本校で、2月卒業試験終了後、三年生が交通事故でなくなりました。卒業式を控え、どうするのかが、当然、問題になりました。卒業証書はどうするのか。式には保護者をお呼びして、呼名するのか。教育委員会の返答は「卒業判定会議時には既に亡くなっていた」「三月以前に亡くなっている」ことを理由に、卒業証書は授与できない、であったそうです。
 しかし、記事に従えば、全過程を終了した生徒には卒業証書を授与しなければならないのです。いつ亡くなろうとも、卒業判定会議成績資料が、必要な要件を満たしている以上、全過程を終了したという判定をしなければなりません。どうしたものなのか、考えさせられています。
大人達にこそ「ゆとり」が必要だった
 ゆとり教育が提唱された時、「大人達は、自分達の今を子供に投影している」と感じました。大人達の本心は、のんびりしたかったのですが、モーレツに生きることが求められたし、カッコイイと思ってもいたのです。なにせ、「24時間戦えますか」という宣伝文句は、実生活から生まれたリアリティーであったのですから。意識はどうあれ、身体がノンビリを求めていたとしても可笑しくはありません。
 のんびりして、弛緩している姿に「ゆとり」を感じたはずなのです。というか、憧れに近いものだったでしょう。親達が見ていたものは、正確には、「ゆとり」ではなく「つかれ」だったのです。
 多くを学ぶからゆとりがなくなる。というか、疲れてしまう。そもそも、子供達は勉強のし過ぎではないか。詰め込み教育は疲れさせるだけで、効果がない、との漠然としたイメージからゆとり教育が支持されました。学ぶことを減らすことが奨められました。
 しかし、ゆとりとは沢山あるものの中から、選ぶことが出来る時に感じる心の余裕ではないでしょうか。ゆとりとは、疲れを癒している、弛緩した姿に本質があるのではありません。夢中になっていることの中にこそあるのです。ゆとりがある者だからこそ、夢中になれるのです。
 気が付いてみたら、子供達の可能性を制限することがゆとり教育の本質になってしまいました。子供は疲れていません。学ぶ楽しさも知っています。親達は、これを励まし応援する当たり前のことを怠りたかったのです。なぜなら、疲れていたからです。
 大人達のゆとり願望は自分達に向かうべきものでした。親がゆとりを取り戻し、夢中になっれることを持ち、幸せになれば、子供はゆとれます。
 
 
教育を可能にする原理
 教師に大切な資質は「根気」であるといわれます。また「生徒を信じれれること」と言う人も居られるでしょう。ならば、その根気とは何に向けられた根気なのでしょか。また、生徒を信じるとは生徒の何を信じることなのでしょうか。
 問題を起こしたり、挫折しかけている生徒を前に、必ず、確認しなければならないことがあります。それは「あんたは卒業したいのか。その意志はしっかりしているのか」です。多くの生徒は「はい」と答えます。しかし、中には「どっちでもいいよ」と言う生徒も居ます。さらに「やめてやるよ」という答えが返ってくることも有ります。ここで、教師の資質が問われます。
 「どっちでもいい」「止めてやるよ」を、そのまま受け取るのか、そこに嘘があると思うかが分かれ道です。「これはちょうどいいや」と退学に持って行くなら、根気は認められません。生徒の本心を生徒に確認させる作業に入ってこそ、根気という資質が働いていると言えるでしょう。そこに嘘を観ることが出来るなら、「誰もが今日より明日はより良く生きたいと思っている」と信じていることになります。
 生徒を信じるとは「誰もが今日より明日は良く生きたいと願い、意欲していること」を信じることです。これが「教育を可能にする原理」です。そして、根気とは「生徒がその本心に気付き、気付いたことを口にするまで待つ」根気のことです。この願いと意欲を信じるからこそ、教師には生徒を叱り、励ます資格があるのです。もし、これを信じていないで、生徒を叱り怒っているなら、それは生徒を奴隷にしている奴隷主の厳しさです。信じることが愛です。愛情のない厳しさは冷酷なだけです。
多くの方に教えてもらった名言
 甥の健史にパソコンを色々整備してもらいました。お陰で、冬休み地理宿題に使った「地理プリント№18をご紹介できるようになりました。どの名言について一言、言いたくなりますか。読んで、良くも悪くも、心に湧き上がるものがありましたら、お知らせ下さい。
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 今、15日23時40分、ようやく、名言集を載せられましたが、写りが良くありません。しかし、これが今の私ができる最高のことです。済みません。


生徒、冬休み宿題を提出する
 三日前から授業準備等で学校には行ってましたが、今日が私の仕事始めです。冬休みの宿題を提出する者が数人ではないかと心配でした。
 結果は、数えませんでしたが、約半数の生徒が提出しました。これを聞くと 「ということは、半数が忘れたのか。それで満足しているから生徒が指導に乗ってこないんだ」と言われそうです。その通りですが、何も言わずとも、ほぼ全員が提出する学校に、私は必要ないんだと思っています。
 それよりも内容なのです。予想をはるかに超える良いものが多く、嬉しくなり、書く気になってしまいました。生徒に名前は伏せるが、一部ブログに紹介していいか確認してから、良いとなれば、ご紹介します。
 宿題とは、私が示した31の名言を読んで、思うところを書きなさいというものです。原稿用紙二枚です。その名言ですが、どうやったらここに貼り付けられるかが解りませんので、甥が、近々、来ますから、やってもらいます。
 「なぜ、それが地理の宿題になるんだ」と言う声も聞こえてきそうです。本質的な問題を避けた言い方ですが、こんな宿題を出せるのは社会と国語だけということです。まさか、工業数理や電気基礎の宿題には出来ないでしょう。それでご理解を。
集中している姿
 補習授業や再指導をするのは、もちろん、赤点のまま放って置いて、単位を認定できないことがないようにすることが直接の動機です。
 しかし、それだけでないのです。もっと大切な本質から生まれ出る意志なのです。解らない、出来ないことの切なさへの共感であり、「やれば出来ること」「学ぶ楽しさ」を実感して欲しいとの思いです。また、赤点を取る子はなんらかの不適応を持っているはずです。それを話題に出来る機会を得たいとの想いでもあります。
 しかし、引き寄せてくれるのは「集中している彼らの姿なのです。普段は、やる気のないだらしない姿を隠そうともしない彼等が、学習に、テストに真剣に取り組む、その姿が見たいから、補習再テストをするのかもしれません。
 その姿に見とれてしまう、なにか、わくわくしてくる自分を発見してしまいます。そんな充実感を与えられて、今年は二年ぶりに、大晦日を、そして新年を迎えるのです。
日本人を生徒に確認
 12月24・25日は二学期成績不良な生徒を集め、社会科教室で補習授業を行いました。順次、自信がある者から隣の社会科準備室で、受検させました。
 合格した生徒が問題を出して、協力しています。そうして、一人の生徒が挑戦するため、準備室で、テストを始めました。仲間の二人ははしゃいでいます。そこで、戸を引き、静かに、閉めました。すると、彼等も静かになったのです。
 当たり前といえばその通りですが、無意味なシグナルに意味を感じ取れることは、日本語が通じるように、共通の文化的基盤があるのだとの実感に、思わず、微笑んでしまいました。
 普段、正直に言えば、「なんで、これが分からないかな」「なぜ、こんな考え方をするのかな」といぶしがることがあるのです。だからこそ、嬉しくなってしまっただけのことなのですが。
空缶拾い頓挫!?
 今日は驚きと、落胆の声を発せずには居れません。空缶拾い準備を進めてきたことはお話させていただいてきました。生徒に実情をしらせ、考え、行動して欲しいと、1年生地理で取り上げている最中です。
 その授業の準備のため、本日、旭市の鈴木商店さんに電話しました。アルミ缶、スチール缶の買い取り価格を伺うためです。そうすると、なんと、アルミ缶が1キログラム10円、スチール缶がマイナス5円との答え、言葉を失いました。今年の1月時点では、アルミ100円、スチール17円でした。9月、インターネット調べたところ、アルミ130円、スチール40円だったのです。
 間の抜けた話になってしまいました。これでは、生徒達への提案は根底から崩れてしまいます。生徒会本部にまず、説明しなければなりません。私としては、缶拾いをはじめることはできないと判断しています。本部役員はなんと言うでしょうか。生徒達は同判断するでしょうか。
 落ち込んでいますが、ただでは転びません。授業では、缶拾いができなくなったことを世界的規模の話として、取り上げようと思います。とは言え、挫折感はあります。
 この挫折を通じて、これから何をお前はやるべきなのかを、天に示されたような気もします。それがハッキリとしたと言う、爽快感もある不思議な感じの秋の夕暮れではあります。
 
校長先生、空き缶拾いにGOサイン
 私が10年間勤め、本年度、非常勤講師をさせて頂いていますのが東総工業高校です。我が校で、登校時に、生徒が空き缶を拾ってきて、それを引き取っていただき、その代金を生徒減で不足している生徒会活動費に当てるというアイディアがこのたび承認されました。
 600人が毎日一個拾ってくれば、計算上は、年、15万円にはなります。本校は、部活動が盛んです、全国大会、関東大会と言うわけではありませんが、有力選手をかき集めることなく、ほぼ全ての部活が県大会に出場しています。部活行動費は馬鹿になりません。現在、部員の自己負担になることが多くなって来ています。交通費、宿泊代の足しにと今は考えています。 
 将来は、寄付と言うこともいいのでは。兎に角、生徒がどのぐらい参加するのかを見定めなければいけません。
義家弘介氏の主張に一言
 東京新聞8月24日「私が正しい!蟹工船ブーム」を読みました。そこで述べられている義家弘介氏の意見は聞き流せない内容でした。
 「冷戦以後、弱い者が切り捨てられる新自由主義の元、頑張っても這い上がれない時代になっているのではないか」との問いに、「そんなことはない。労働が苦しいなら、そうでない仕事に就くために、今手に入れられるものは何かを考えなければならない。抜本的に改革すべきは環境よりも本人の意志」と答えています。
 彼の指導に乗り、資格を取り、「底辺から這い上がる人」になりましょう。しかし、自分が他の職業に就いても、その仕事と職場は残ります。自分が苦しいと感じた現実は、仲間を苦しめ続けるのです。これに対して、仲間を「這い上がる意志がない」と突き放すのが氏の態度です。生徒にも、このように指導していたのでしょうか。ならば、同じ元高校教諭として理解に苦しみます。与えられた社会の中で、這い上がる意志と強さを教えることだけが教育ではありません。仲間が抱える問題を共有する意志と強さもその対象でなければならないと思うからです。
 確かに、我々は社会によってつくられます。しかし、同時に、社会を変え、創って行く主体でもあるのです。仲間と一緒に、環境を変える意志を育てることも教育の課題です。この見識が義家さんから欠落しています。



昨日は、久しぶりに、隣町の旭市方面に散歩道をとりました。それで、44個拾いました。
遊べる先生
 昨日は、ソフトボール対アメリカ戦を起き上がって観てしまいました。優勝の瞬間、思わず、畳を両手で叩いていました。今回のオリンピックで最も興奮したのがこの試合です。
 すぐに、神奈川舞岡高校時代のソフト部員の一人にメールを入れました。やはり、興奮したとのこと。娘さんが「ソフトって面白いね」と言ってくれたそうです。興奮を共有できて、さらに、幸せな気分になりました。
 「全国学校レク研究大会」があり、その準備で大変な夏であったとの近況報告。大分前から、レクリエーションの研究・実践に頑張っていることは知っていました。この大会の実行委員だったようです。彼女が属するYSRSは「遊べる先生」を目指しています。曰く、「遊べる先生」とはゲームを知っているだけの先生ではありません。遊び心を持って、学校教育を再創造できる先生です。「無」から「有」を生み出すことが出来る先生です。人間関係がうまく構築できる先生です。楽しく生き生きしている先生です。
 素晴らしいですよね。自分達の理想に向かって頑張っている教師の姿が思い浮かびます。それはそうなのですが、裏を返せば、現実はそうでないとも見えてきます。素直でない、ひねくれ者の私はそう観てしまいます。
 この運動が広がることを願います。また、これを応援する気運が、PTA、地域にも広がって欲しいものです。問題は教育行政です。広がった時に、活気溢れ、改革意欲に満ちた、スクラムを組む教師集団を、今の教育委員会体質は受け入れるでしょうか。そこが問題です。
 教師の仲間意識を、そこから生まれる団結心を教育行政が恐れ、壊してきた歴史を忘れてはいけません。官僚化した教育委員会は、まずは校長・教頭を役人化してきました。今や、校長室は教育委員会の主張所と化しています。そして、一般教員も小役人として育成しているのです。言われるままに無反省に動く教員が教育委員会が理想とする教員像です。どんなに、違うと言っても、やってきたことから判断すれば、こう言わなければなりません。その結果が「YSRS」の先ほどの目標に、逆の形で表れています。
 「学校教育の再創造」「無から有を生み出す」ことを、その通りになし進めれば、必ず、教育委員会とぶつかります。教師は生徒の個性と人格を尊重するでしょう。しかし、教育委員会は教育を国家権力の再生産の場としか見ていませんから、教師の改革精神は教育委員会の改正方向とは真反対を向くでしょう。教師が「生き生きとしている」まさにそのことによって、不安になるのが小役人の習性です。


YSRSのホームページ    http://www.ysrs.org/  です。


今日は2個でした。

 
学校を活性化する職員会議採決
 先生方は、はつらつと、仕事をしているでしょうか。その様に見えない昨今であります。理由は多忙化等、様々あるでしょうが、職員会議が問題であるとに間違いはありません。
 職員会議で、先生方は決定したことを確認する質問はしますが、反対意見を言うことはもちろん、懸念を示すことさえ、少なくなってしまいました。それが憚れる、それを許さない空気の学校もあるのです。職員会議の墓場のような静けさは不気味であり、現場の不健全さの現われとなっています。都立三鷹高校長が「挙手・採決禁止通知」を撤回するよう求め、公開討論を提案するほどに、深刻なのです。というか、他の多くの県では、とっくに、採決は禁止されています。
 なぜ、県教委は採決をさせないのでしょうか。それは、理念ゆえに、独自の構想を持つ人物を管理職に登用しなくしたことと、校長の裁量権を奪い尽くしてきたこととの3点セットになっているのです。構想力がない校長は県教委の方針・施策に従うしかありません。たとえ、志ある校長がいても、裁量権を奪ってあります。これにより、校長室を県教委の主張所にすることに成功したのです。しかし、職員会議での採決による多数決が最後の最後で県教委の目論見を台無しにしてしまうと言うわけなのです。その一方で、県教委は特色ある学校創りを指示していますと公言するのです。
 採決することの大切さを次のように理解しています。まず、挙手を求めることは、責任を意識させ、意見を固めるために真剣に討議参加する姿勢を促します。だから、第二に、議論が成立し、原案に吟味が加わり、修正意見や反対論を引き出します。双方の意見の、利点と難点が参加者全員に意識化されるのです。第三に、これが、どちらに決まっても実施の際に、良い結果をもたらします。議論の充実に比例し、決定事項が尊重され、案が生かされるように先生方が働くのです。最後に、このような会議が教師の基本的姿勢を学ぶ最高の場になるというわけです。
 「安全なところに身を置いて、当事者を笑ったり、気楽にものを言っていてはだめだ」「民主的とは、皆が校長と思い、考え、行動することだ」「担任は生徒が救われるように、発言し続けるものだ」等、教わりました。
 本心をさらけ出すのも、採決あってのこと。本音の言い合いは職員間の理解・信頼と一体感を高め、職場が大切な生活の場と意識され、教育の質を高めるのです。



本日は1個でした。
許容力を示す食事仲間数
 退職をする数年前、春夏休業中や試験中の昼飯を一人で外食する仲間(教師)が多いことに気付きました。一人になりたいこともそれはあるでしょう。それをおかしいとは思いません。しかし、普段、仲間と一緒に食べるより、一人で食べる方が楽しいというなら、なにやら心配です。
 孤食とは家族がありながら、一人で食事することです。職場で、敢えて、弧食を選ぶのは仲間と思う人が職場に居ないということです。もう一つ弧食増加の理由があるでしょう。それは、「おい、飯食いに行こう」という言いだしっぺが、リーダーが、まとめ役が職場に少なくなったことではないでしょうか。学校を引っ張って行く人物が少なくなったといってもいいでしょう。学校の教育力に関る変事とみています。職場が生活の場と実感できない教員が多くいて、まとめ上げるリーダーシップがないなら、その組織は、その構成員は力を発揮できるでしょうか。出来ずらいでしょう。
 しかし、問題の核心は他にあるのです。昔から「同じ釜の飯を食う」と言います。一緒に食事をすることは「相手を受け入れている」ことの表れでもあります。共に食事をしたくない、それを苦痛と感じることは相手を自分の生活圏にしたくないという感情の現われです。つまり、他人を受け入れられる許容力の現われであるともいえます。私が心配しているのは教師の人間許容力が落ちているのではないのかと言うことです。ならば、それは生徒にも向かいます。許容量が小さい教師が多様な生徒に対応できるのか、という心配です。
 あなたは、食事を共にしたい人は何人いますか。してもいいと思う人はどれぐらい居ますか。食事を共にしたくはない人は何人ですか?その結果は、あなたの人間許容量(力)を教えてくれるはずです。


今日、アルバイトで来なかったT君が来ました。まずすぐに、「こないだは、かってやってしまいすみませんでした」と詫び、「自信は有るの」の問いに、「あります」「では、すぐにやろう」となりました。なんと、一発、満点合格でした。一つ、漢字が怪しかったのですが、そこは満点で、お互い気持ちよく、終わらせよぷと見ない振りしました。ちなみに、「薩摩半島」です。これ正確に書ける人少ないのではないでしょうか。


昨日は17個、本日は3個でした。
 
無礼者を叱る
 昨日は追指導14名中13人が出席、12名が合格しました。欠席の一名ですが、何と、アルバイトを入れたので、来れないと言う情報を親友から聞きました。しかも、「25日金曜日にしてくれ」と言っているというのです。すぐに、その親友君に携帯から連絡を取ってもらい、換りました。
 「アルバイトを入れてしまい、その代わりに25日にやってくれとは何と勝手な無礼者・・・・・こういわれて当たり前と分かっているか」「分かります」「まずは、無礼を詫び、更に、時間を取ってご指導願えますか、と伺いを立てるのが筋でしょう。それも分かるか」「はい、分かります。先生の都合の良い日はいつですか」「ばかもん、分かっていないではないか。まずは、事情も含めて、説明しなさい。」「はい、断りきれなかったんです。」「そうか、そういうこともあるだろう。そんで、金曜日なら来れるんだね。」「はい」「それなら、そうしよう。朝9時、社会科教室。待ってます。しかし、条件があります。一発で合格するほどに、勉強してくること。」「はい、分かりました」
 この会話を他の生徒はもちろん聞いていました。私が説教を言っているたびに、皆がうなずいています。噴出すところでした。しかし、電話が終わった後に、「あいつ、とんでもない奴ですね」等という者はいませんでした。ますます、この生徒たちが可愛くなりました。
羹に懲りる前から膾を吹く・・・反文化的文化祭
 
 O157騒ぎからの動きであります。その年、高校の文化祭では、生徒・職員等に、検便、消毒、食品の管理、火力を使い調理することなど、食中毒を意識した対応がなされました。「そこまでするか」という声もありましたが、一応納得し、食中毒もなく文化祭は無事終了しました。
 今年は、更に、規制が厳しくなりました。一例を申し上げれば「焼きそばに豚肉とキャベツを入れてはならない」という案が出されたそうです。生徒に、そう話しましたら「それ焼きそばじゃないよ」という、ごもっともな感想が返ってきました。焼きそばに豚肉とキャベツを入れるのは日本の食文化です。そして、美味しく食べていただく「もてなし」の心も日本の文化であります。 
 にもかかわらず、カップ麺と変わらぬ焼きそばを作り、食べる者への気遣いもしないで、お金だけは取るのです。「気遣っているから、肉を入れないのだ」という反論が聞こえてきます。それは違います。気遣いとは、己のあるものを捧げて、相手に喜んでもらうことです。この場合、安全で、しかも美味しい焼きそばを作る緊張感を自分に強いることが「もてなしの心」の表れです。最初から、食中毒の危険を排除し、緊張から逃げ、責任は負いたくないという態度には「もてなしの心」は宿っていません。何を捧げると言うのでしょうか。
 「反文化的文化祭」をやろうとしていると、言わなければなりません。この形容矛盾の中に、身を置くことはかなり堪えます、苦痛です。しかし、「羹に懲りて膾を吹く」、いや「羹に懲りる前から膾を吹く」者には分からないなのでしょう。
 落語の「目黒の秋刀魚」に登場する侍役人を連想してしまいました。殿様は農家で焼き秋刀魚をご馳走になりました。それが美味しかったので、城に帰ってから、秋刀魚を所望したわけです。炭火で焼いたさんまの脂を含んだ肉と、焼き焦げた皮のにおいが美味しさの要です。なのに、食あたりと、脂による胃もたれを心配した家臣は、さんまを骨からはずし、肉を蒸して消毒し、脂を抜き固めて団子にし、だしを取り、汁物して差し出したのです。農民食文化に初めて触れ、その味を賞賛した殿様の気持ちを理解できない家臣たちです。その原因は100%の安全とです。しかも、その安全は、殿様のそれではなく、家臣たちの安心と保身に由来しています。
 誰のための、何を学ぶための文化祭なのかを問い直す必要があるのではないでしょうか。先生方には、生徒に視座を置いた仕事を期待します。父親の職人気質を見せ付けられて育った、にわか百姓には、そう見えます。



昨日は9個、本日は通勤と買い物の道すがら17個拾いました。
評価し、生徒が教師を選ぶ
 親が評価し、学校を選ぶ制度はすでに存在している。更に、生徒が学校内で教師を選べるようにするべきだ、という意見がある。私は、双方とも、その教育が目指す方向性や教育効果に疑問を感じている。
 そもそも、評価はどうしてするのかである。その目的は、大きく分ければ、二つある。一つは、育てるための評価であり、もう一つは、切り捨てるための評価である。教師が行う生徒の学習評価は、本来、育てるための評価である。しかし、切捨てるための評価であると感じている生徒が多いことは、今の教師と教育の課題であろう。
 では、冒頭に示した「バウチャー制度」はどうだろうか。これは、親はもちろん、教育委員会までもが学校を育てるのではなく、切り捨てる姿勢を持っている。なぜなら、入学を希望した児童生徒数により、予算面での厚遇、冷遇が制度化されているからである。評価は、より良く改善されることを目指して行われることが肝要である。
 不要であるとの烙印を押す前に、生かす術を捜すべきだろう。それは生活用品や食材にもいえる。あまりに簡単に、捨てている我々が居る。人間も同じように扱うと言うのか。人間が人間を物として扱う社会でいいのだろうか。
 生徒が教師を選ぶ。「その地位に甘えている教師どもに緊張を与えてやれ」という裏の声が聞こえてくる。これに対しては、まず、教師は今、安穏としていられる状況にないことをまず、指摘しておきたい。最近、ようよう、それが理解されてきて、正しい教育論議を可能にしているようだ。
 さて、「教師を選べる」と聞いた生徒が、どんな反応をして欲しいとお思いだろうか。私は「もし、誰からも選ばれない先生が居たら可哀そう」と思える人間に生徒が育って欲しいと思う。それは、修学旅行の班分けや、部屋割りの時に、誰からも声をかけられない生徒が居ることを恐れて、前もって、手を打っておく教師であって欲しいと思うのと同じである。或いは、その場面で、気を使える生徒が居てほしいと思うのと同じである。


本日の缶拾い。もう拾う缶がなくなってしまいました。そこで、ぼーの安全を考えれば、危険ではありますが、交通量が多く、ポイ捨てが激しい市道に出ました。左側30メートルを歩いただけで、袋が一杯になりました。危ないので、缶をつぶせませんから、36個で一杯になってしまいました。ということで、本日36個でした。
 
暴力は相撲の伝統ではない・・・相撲協会は高い精神性を示せ
 前時津風親方が逮捕された。あくまでも、指導と主張しているという。たとえ気持ちは、指導であったとしても、それが死に至れば、事件である。教育現場では体罰とされ、懲戒の対象であり、刑事事件にもなる。
 教育である以上、厳しさは必要だろう。なぜなら、厳しさのない教育は無力だからである。しかし、愛情のない厳しさは冷酷なのだ。子供たちは、愛情の裏づけがある、自分を思ってくれての厳しさと感じ取れば、付いてゆく。しかし、指導者が自分達を道具とみなすがゆえの、蔑みからにじみ出る冷酷さには、付いてゆかないだろう。被害者は逃げようとしていたと言う。指導でなく冷酷な暴力であると感じ取っていたに違いない。
 相撲界はその神事的性格、長い伝統、国技としての格式を盾に、様々な意見・提案を退けてきた。これが許されてきたのは、これ等を司り、守る使命を与えられた者達が、常人とは違う厳しさを自らに課し、社会の期待応えていると信じられてきたからである。しかし、その伝統は守られずに、伝統になかった暴力による支配が体質化してしまった。斉藤君のような不自然死が他に、10件以上あると聞いている。
 相撲は「道」が付くほど、精神性が高い競技である。だから、横綱に高い人間的完成度を求めるのは自然であろう。。真摯な誠実さ欠ける朝青龍が批判される所以である。しかし、その朝青龍を指導するだけの精神性や高徳・高潔さを親方達が持ち合わせているのだろうか。事件後の協会人事だけを見てもそう思う。


本日は散歩に専念したくなり、缶拾いは1個だけでした。おかげで、久しぶりに、体操、ストレッチができました。
テレビ番組のクイズではないはず大学入試問題
 歴史検定を受検するので、大学入試問題を精選した問題集を買い求め解いています。我々の頃にも、入試問題に難問、奇問が多いという批判が出ていました。だから、少しは改善されているかと思ったら、逆に、更に、エスカレートしているのです。税金の無駄遣いをやめろやめろと言えば言うほど、それを拡大しようとしていることに似ています。年金問題、政権を倒したほどの大問題としてあれだけ騒いだのに(もう過去になってしまっています)、解決へのやる気も、方向性も提示できません。これは、いまや、日本病です。
 その日本病症状の大学入試問題です。少し具体例を挙げます。 ①東大寺の再興に努めた重源が大勧進職に就いたのは彼が何歳の時か? ②藤原不比等の娘を妻としていない人物を次の中から選べ。ア文武天皇 イ長屋王 ウ聖武天皇 エ淳仁天皇 ③律令制度において、正丁は調のほかに調の(    )を納めねばならないことになっていた(語群なし)。その他多数。所謂、引っ掛け問題という知識よりも、注意力を試す問題もあります。このような問題は、昔も今も、「超一流大学」に多いのです。
 日本史の本質とは何の関係もないことが難問・奇問の特徴です。クイズにもならない知識を頭に蓄積し、人にはだまされないぞと猜疑の目で見る習慣と能力を身に付けたエリートの卵をつくる試験問題です。本質に関心がないから、上の日本病に罹りやすい。そんなことを思いつつ、問題集を解いています。
 実は、歴史検定協会は、受験教科書、参考書を作っている山川出版社が深く関わっています。一流大学はどうも、山川の教科書ではなく、受験参考書を基準に入試問題を作っている気配があります。実は、私、山川の対極にある日本史学習書を作りたいと思っているのです。その私が、いま、その問題集と格闘中です。ミイラ取りがミイラにならないように注意していますが。
 
愛なき厳しさは冷酷
 相撲に関心がない私は、朝青龍巡業サボり報道と相撲協会の手際の悪さに、うんざりし、日本のリーダーがその資質を失っている一例だな、ぐらいにしか、見ていませんでした。しかし、弟子死亡が事故ではなく、事件であるとの報道に変わり、深刻に受け止めるようになりました。
 学校教育においても、体罰は大きなテーマです。尊敬する校長に「体罰はいけませんよね」と言うと「簡単にそうとはいえない」との答えに、首をかしげたことがありました。が、今になって、分かる気がします。自分を受け入れ、根底では、信頼してくれていると思える人物からの体罰は、暴力と感じないという世界があると気付いたからです。しかも、それは、より熟練された教育段階でもあると思うのです。
 力士養成は教育でありますから、厳しさも必要です。なぜなら、厳しさのない教育は、無力だからです。しかし、愛情がない厳しさは、冷酷なのです。もし、被害者が親方や兄弟子の愛情を感じられたのなら、実家に逃げ帰り「いい子にするから、家に置いてください」とは言わなかったでしょう(十代後半の言葉、表現ではありません)。親方を信頼していた親御さんが「頑張れ」と言ったのは愛情です。その愛情を裏切った冷酷さは批判されて当然です。
 「権力ある者はそれを使ってはならない」この厳しさを己に課して、日常としている者だけが、いざという時に、それを使う資格があるのだと思います。自分への厳しさの欠如も冷酷さの源泉です。

関心を持つってどういうこと
 私達が高校生の頃、三無主義の若者達と言われました。若い連中は無責任、無気力、無関心だと批判されたものです。その割には、大学紛争、高校紛争、安保条約改定反対、平和運動と盛んであったと思うのですが、どうでしょうか。
 確かに、三無主義といわれて、そういう面が有るとは思いました。しかし、これは、世代、時代に関係なく、普遍的に在る生活状態ではないのかとも思っていました。大人達は、自分の中にも有る三無主義を平然と、恥じることなく、隠すことなく、見せびらかす若者を理解できなかったか、羨ましかったのではないでしょうか。
 社会科の教師になって、高校生の無関心の壁にぶつかりました。だから、生徒達に「関心を持て」「無関心でいいのか」等、繰り返しましたが、虚しいだけでした。というか、下手な授業に集中しない彼らを「無関心」と見てしまっただけの事なのです。それを自分で分かっていました。 そこで、「関心を持つとは具体的にどういうことが自然と出来ることなのかを考えたわけです。親を大切にしろ、友情は大切だ、ルールは守れ、そして、関心を持て。耳にたこが出来るほど聞いているのですが、では、具体的に、何が出来ることなのかを教えてくれた人は居ません。自分も、生徒達に、言えません。そんな振り返りをしました。
 その結果はこうでした。関心を持つとは「自分だったらどうするのか」を考えることだ。そこで、ドキュメント沖縄戦のビデオを見てもらい「君だったら、洞窟に追い込まれ、敵に囲まれ、最後通牒を受けた時に、どうすると思うか」を問うのです。これは戦争と平和に関心を示すことでもあります。無関心と批判せずに、関心を呼び覚まそうというわけです。それが大人の、教師の仕事と思うのですがどうでしょう。
団扇で笑う その②
 机間めぐりを終えて、教卓の前に腰を下ろします。出来が良いか、悪いかは分かりませんが、殆どの生徒は、もう、チャイム待ちモードに入っています。私も、することもなく、落ち着きません。目が合うと、お互いの気持ちが分かっているので、二人で苦笑い。手持ちぶたさから、団扇を手にして、2・3度扇ぎ,前を見ると、その持ち主が首をうな垂れて、こっくりこっくり。よく見ると、よだれも垂らしています。「オイオイ」という顔で、2・3度扇いでやりました。すると「くすくす」という笑い。「くすくす」で、殆どの生徒が彼の状況に気付きました。そこで調子に乗った私が、また、扇いでやると、ヌックーと頭をもたげた彼。「フッフッふーはっはぁ~」という静かな大笑いに発展。本人が何の笑いか確認できないまま、待ちに待ったチャイムが鳴り、ため息とも、笑いともつかない解放感の中、「やめでくださ~い。後ろから集めて」と気持ち良い宣言と相なりました。
 この笑いは「共感の笑い」です。私も、本人も、他の生徒も、もう終わりにしたいのです。しかし、それは「言えません」「出来ません」これも了解し合っています。みんな、我慢して、誤魔化して、なんとか平静を維持していのが実情なんです。寝て、よだれを垂らしている姿は、この状況下に居る皆が、しでかし得る最悪の状態です。彼の姿は、自分にも置き換えられるものと写り、自分を笑ってもいるのです。共感ゆえの一体感が醸し出した笑いでしょう。お互いが同じ目線にあるから、生じたそれです。ドタバタや、駄じゃれや、まして、人を馬鹿にした笑いではないのです。大変、善良で、健全な、清清しい笑いでした。「人を笑わず人と笑う」の好例と言いたい訳です。
団扇で笑う その①
 「人と笑う」話をやり忘れていました。3年前の一学期末試験の時です。よく知ったクラスの数学の時間でした。テスト問題を配り終え、チャイムが鳴るのを待っている時、教卓のすぐ前の生徒が「先生、団扇預かってもらえます」と言うから、預かりました。
 始まると、鉛筆、というか、シャーペンが走る音は静かに、しかし、力強く、重く響きます。消しゴムが忙しく働き、生徒達は自分が真剣であることをさえ意識する余地を残さず、問題に集中しています。消しゴムが床に、飛び落ちます。このときの、生徒達を見るのが私は好きです。教師に成り立ての頃、自分のクラスで同じ思いで心が動き、彼等が愛おしくなったことを思い出しました(彼らは今、43歳ですが)。その学校では、試験中には、掃除をしませんでした。ホームルームが終わり、生徒が帰った後、教室に一人でいる時、消しゴムのかすを集めようと思い立ちました。やり終わると、三日分のかすが両掌に8分目程も集まったのです。翌日、朝のホームルームでそれを見せると「すげーな。そんなにあったんだ」なにせ、両手の平8分目程の量ですから。「みんなの真剣さの証拠になる燃えカスだ」そう感じて、受け止めてくれたら有難いとの思いが産んだアイデアでした。
 そんなことを思い出していたら、時間が過ぎ、気付くと、南風がカーテンを揺らし、その動きのように、生徒達ものんびりヌードになっています。大方、終わってしまったのでしょう。時間もあと10分。様子を見に、机間周り。その後に、団扇をめぐって、心地よい静かな笑いが起きたのです。続きはまた明日。
一生懸命になるわけ その②
 大人が「何でも、一生懸命にやりなさい」というアドバイスをするねらいは「見極める機会を与えたい」にあります。一生懸命にやらなければ見えてこないことがあるのです。やってみて「面白い」「できた」「才能がある」と思えることがある一方、「出来なかった、そして、それを認めざるを得ない」と感じることもあります。その時に、一生懸命にやったなら「一生懸命にやらなかったから、出来なかったのだ」という言い訳は、他人に言えても、自分には言えません。断念できるわけです。断念は見方を変えれば「選択できた」ことです。選択すると言うことは、可能性を捨てることですから、出来にくいことです。それが一生懸命にやることで出来るのです。一生懸命にやることを、先に先に延ばす人は、いつになっても捨てられません。つまり、選べません。第一、40歳になった父親が「俺はやれば出来るんだ」と酒飲んで管巻いていたら、尊敬できないでしょう。捨てる覚悟、選ぶ勇気を与えてくれるのが「一生懸命」です。
 「友達を沢山作りなさい」は様々なタイプの人間と腹を割った話をすることで、刺激という転換の機会を得ることになるからです。先に進むと言うことは、変化することです。成長も変化です。学び、分かったということは変化するということです。変わらないものは、知識を得たとは言えても、分かったとは言えないのです。様々なタイプの人間の様々な考え方、生き方が分からせてくれます。だから、あなたの変化を促進してくれます。先に進むためには友達が必要です。
 毎日、我々の身体を形作る何百万の細胞が死んでいます。同時に、何百万の細胞が作られています。それが出来なければ、やがて死にます。生き物は毎日、前を見て、変わらなければ、生きられない宿命を背負っています。若いうちは、新陳代謝が活発で早いのです。留まってはいれないのです。選択し、前に進み、変化するためには、{一生懸命} と{自分とは異質な友達}が必要です。
一所懸命になるわけ その①
 中学や高校に進学すると、大人達は「沢山友達を作れ」「なんにでも一所懸命にやれ」というものです。「またか」と、うんざりさせられる季節です。同じ事を何度も聞かされると、言葉の威力が低下し、無意味で、耳障りなバックグランドミュージックのように感じられてきます。感じるのですから、話の意味を理解していないだろうと想像して良いでしょう。
 言い尽くされている話こそ、その意味が理解されていないものです。「沢山友達を作れ」には「ハイハイ、そう思いますよ」ぐらいの返事をしてもらえます。しかし、「何にでも、一生懸命にやりなさい」には、返事もないのが、普通です。「英語も、数学も、政治・経済も、日本史も化学も、ええ、漢文も!!出来るわけないでしょう。更に、部活だって。ふざけんな」自分の経験上、よく分かる反応です。「その通り」と思います。
 ところで、上の二つの大人達のアドバイスを実行することで、何を彼らは子供たちに期待しているのでしょうか。このアドバイスの意味は何なのでしょうか。私は二つを実行して得られる効果は同じだと思っています。それは、また、明日。これから、床屋に行ってさっぱりしてきますので。
 
長所は長所ゆえに、短所は短所ゆえに
 「安全、安定を求める健全性ゆえに、いじめが起きる」という話をしてしまいました。「いじめどころか戦争にもなる」ということも言いたかったわけです。「健全性が悪を産むわけがない」が普通の見方ですが、人間社会には往々にしたあるものです。  
 「長所は長所ゆえに長所」では普通です。「長所は長所ゆえに短所になり、短所は短所ゆえに長所になる」に真実があるのです。日本では、遠慮深く、慎み深いというのは長所です。しかし、この長所は、引っ込み思案で消極的という性格を隠し持っての長所なのです。「明るく、元気で、活動的」はおっちょこちょいで早とちりのお調子者だという可能性があるでしょう。
 進学・就職で調査書を担任は書きます。人は好いのだけれど、短所ばかり目に付いてしまう生徒がいるものです。そんな時、「短所は短所ゆえに長所になる」理論を使って、長所欄を埋めたものです。そして、これは多くの場合正確な調査書にしてくれました。
 よく、「先生、俺、長所がないいんだよ」という生徒がいるものです。この理論を説明してから、「短所が沢山あるあんたは長所だらけだ」と言うと、先生に化かされた」と言って笑って帰ってゆきます。化かしたのではなく真実を言っているのですが。