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早期退職後の生活を省みて、ものの見え方、心持ち、生き方の変化を確認しながらの日記です。人生、社会の動きにも眼を向けたいと思っています。
歴史に学ばない人々
 東京新聞に、都教育委員会が自作の「教科書」の中で、太平洋戦争が侵略戦争ではなく「安全保障の必要から」やむなく起こさざるを得なかったとの歴史解釈を述べている、との記事がありました。教科書検定官でさえ、押しとどめている見解だそうです。
 あの戦争を「安全保障」とするのは「食い詰めたので生きる権利を行使した」と主張する強盗殺人犯に、似ています。個人には認めれない理屈を国家なら通用させてしまう、そういう人々を私は国家主義者と呼んでいます。現に、人権を「我が儘」に貶める発言を繰り返している石原都知事の教育委員会の仕事です。国家に国権があり、その一部を分け前として国民に与えるという本音を持つ人達です。
 石原さんが嫌いな中国も今まさに、人権が問われています。近親憎悪とはこのことです。憲法は、国家のやりすぎを抑制する知恵・道具として、国民が国家に約束させた決まりです。その決まりから基本的人権を取り除こうという動きが明らかになってきました。
 彼らの理想は明治憲法でさえないと察せられます。歴史から学ばない人達が力を得ようとしています。そして、そうさせないために我々の「市民」が問われています。「市民意識」を研ぎ澄まさねばなりません。



   安全という豊かさを金に替え

   憲法は捨て去る前に試すもの

   競争が狂走しているツアーバス

   鮮やかに山吹眠る池の端

   奥ゆかし葉桜と咲く花水木

   瞬く間若葉の息吹庭に満つ
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なぜ、対等外交にこだわったのか。
 今日は、先日の種明かしです。聖徳太子がなぜ、隋との対等外交にこだわったのでしょうか。朝鮮での影響力を回復するための軍事力行使は一時的に成果があっても、長続きしません。そこで、外交政策を持って目的を達成しようとしたのです。
 朝鮮三国は隋の柵封を受け、各国国王に任命され、朝貢しています。ですからもし、その隋と対等な国際的地位を日本が持つならば、日本の国際的地位は三国の上位に権威付けられます。この事実を持って、特に、新羅の動きをけん制しようとしたのです。
 では、中国皇帝以外に許されない「天子」の呼び名を、日本王が名乗る無礼ゆえの怒りを表わしたのに、なぜ、中国皇帝は返答使を派遣し、あたかも、要求を受け入れたと思われてもしょうがない対応をしたのでしょうか。
 隋は、柵封を受けながらも従わない高句麗を攻撃していました。しかし、敗退する始末です。そこで、高句麗と良好な関係にある日本が高句麗と同盟を結ぶことを恐れたのです。現に、隋は三度目の高句麗遠征を決定しましたが、兵が集まらず、反乱が拡大し、618年に滅びます。

今回、反応が今一というか、いただけませんでしたので、次回は工夫して、その気になる日本史上の問題提起をしたいと思います。

今日も、出来ることは出来ました。

   どてら着て水菜のピザを所望する

   客去るも和みを残すスィートピー

   桜木の芽吹き覚悟の範と見る

   向き変わり風車も惑う新年度

   笑点が始まる前の風呂上り

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「散歩、散歩」の声を聞く前と後の図です。興奮して、なぜかボールを銜えます。 
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田んぼ道を走り周っていたのを、「こっち来い」を聞いて、私の傍まに走ってきたところです。


 
遣隋使派遣の訳
 聖徳太子の政治で、習ったことは ①仏教興隆の詔 ②冠位十二階制定 ③十七条憲法制定 ④遣隋使派遣 といったことだと思います。これ等を丸暗記したことでしょう。私はそうでした。結果、何とか大学に合格できました。教員採用試験も同じような学習で対応しました。
 それで日本史の教師になったものですから、いざ、教えるとなると、色々、疑問が出てきました。この単元で言えば、 A「なぜ、以前とは違って、隋と対等な関係を結ぶぼうとしたのか」  B「隋の煬帝は日本が無礼であると怒りながら、なぜ、返答使を日本に遣わしたのか」などです。しかし、生徒から質問が出ることはありませんでした。そこで、こちらから発問することにしました。
 答えられないと、授業が死んでしまいますから、答えが出るような授業内容に変えました。結果、教科書は邪魔になりました。そこで、教科書は史料・資料を見るときだけの物になったわけです。
 では、答えを導き出す事実をこれから書きます。

発問Aに関して・・・・562年、日本は朝鮮半島に持っていた勢力を新羅によって奪われました。任那と習ったはずです。これを回復するため朝鮮遠征をし、屈服させたのですが、兵を引き上げると言うことを聞きません。武力では限界があったのです。、そしてもう一つ。新羅は隋に朝貢して、臣下に列せられていた。

発問Bに関して・・・・高句麗は従わず、隋は高句麗遠征をしています。しかも、けりが付かないどころか、隋が敗退する勢いを持っていたのです。高句麗は日本に学者や僧を送り、良好な関係にありました。

 興味と時間がある方は、考えてください。近いうちに、種明かしをさせていただきます。


   ゴミ出しが洗練される朝ウォーク

   改革ぞ自己責任が互助忘れ

   寒さ増し知らぬ命の湧き出づる

改作しました。  

   蝋梅の匂い香高し般若経
 
人類多様性はどうなのか
 大騒ぎの生物多様性会議が終了しました。その静けさの中で、疑問に思うことはあります。なぜ、生物多様性を言って、文明多様性を言わないのでしょうか。
 つい最近まで、世界には石器時代の生活をしている人々と、核兵器を持つ人々が共存していました。しかし、今は、近代西洋文明一色になってしまいました。なぜなら、この文明が一番、破壊的・攻撃的で、有無も言わさず熱勢を使い、強引に、他を引きずり込んだからです。そして、その情熱は非情でさえあったと言わなければなりません。
 非情さの根源は経済的富の追求に求められます。そして、その実現手段が軍事力であり、それを支えるのが科学技術であったと言って、誰が反論できるでしょうか。この間、人類は多くの文明を破壊し、滅ぼしてきました。失われた人類多様性はもう取り返しがつきません。
 資本主義が人類文明の多様性を壊してきました(正確に言えば社会主義も)。これは決して間違いではありませんが、表面的理解です。資本主義を生み、それを選ばせた人間の生き方は何なのでしょうか。それを見据えなければなりません。
 人類多様性は「奪う」ことで失われ続けています。しかし、その反省が長続きしたためしがありません。では、生物多様性はどうなるのでしょうか。少なくとも、何のてらいもなく「自然を守る」という意識では、未来は開けないでしょう。「環境保護」という尊大さを、勘違いを捨て去れねば人類は滅ぶと思うのです。
 人類多様性の回復と尊重が、もし、実質な意味で動き出すのであれば、生物多様性を心配する必要はなくなるのではないでしょうか。
特殊化した人類
 BS3の恐竜と哺乳類の生き残りをかけた歴史を扱った番組を観ました。
 恐竜が巨大化し、哺乳類を餌にする歴史は7000万年続きました。哺乳類は恐竜が寝込む夜に活動しだします。ゆえに、餌は昆虫などに限られ、体の大きさは、この間、変化がありませんでした。普通の生き物のままなんです。
 恐竜の全盛期に、巨大隕石が落下し、恐竜は絶滅します。しかし、哺乳類に安全な生活はやってきませんでした。水辺の生活に特化した恐竜=巨大ワニと、空を飛ぶことに特化した恐竜の一部=大型地上歩行鳥類がいたのです。「特殊化」したために、大型恐竜が絶滅後も、陸上に帰れませんでした。大型歩行鳥類も飛ぶための軽量化や歯を失ったことから、もう戻れません。特殊化ゆえに、新しい環境変化への対応余地が小さかった分、生存競争に敗れてゆきました。
 ところが、哺乳類は、当たり前な原始的な形を守ってきましたから、どんなにも変われる余地を擁していたのです。人類が森林から草原に生活の場を移さざるを得なくなったことは絶滅の危機だったはずです。二つの穴が開いている頭蓋骨が見つかります。その穴に、当時の肉食動物の牙を合わせると、ピッタリはまります。人類の恐怖と苦難の証拠です。
 この危機に、人類は「社会性」の獲得と「脳容量増大」という特殊化をしました。文明が武器となり、生き残るわけです。しかし、「特殊化は環境変化に弱い」のです。このことは今の我々にも当てはまるのでしょうか。
 人類が成した「特殊化」は「環境を変える能力」のことです。ということは、「変えない能力」を持たないと言うことです。だから、環境を改造し続けることで、生き延びてゆくのは宿命です。しかし、問題は、環境改造が我々の生命を脅かすことを想定していない「特殊化」をしたことです。
 今我々は、変化が変化を生む急変の中で、生き残れる環境改造を為し続けるのか。それとも「環境を変えない能力」という「特殊化」に挑むのかの、分かれ目に立っているのではないでしょうか。
弥生が縄文を飲み込んだ
 縄文時代に、日本文化の基層が形成されたと、何とはなしに思い込んできました。聞かれればそのように決め込んでいたと感じます。
 その理由はきっと次のことのためです。①1万年続いた時代であること。記録にないが、現在の我々に何の痕跡も残さない時代とするにはあまりにも長いのです。②水稲稲作をもたらした渡来人は縄文人に比べれば極少であり、混血したとは言えそれは広範に起きたことではない。そこで下の数字を見てください。
              全体    関東   近畿   九州
縄文早期(8千年前) 2万人  1万人   3百人  二千人
縄文後期(3千年前)16万人  5万人   4千人  1万人 
弥 生(千9百年前) 60万人 10万人  11万人 11万人
縄文人は16万人です。しかも、関東東北合わせると全体の60%に達します。九州において、渡来人が縄文人の数を越えたでしょう。しかも、戦いが起きたと推測されます。鉄器を持つ渡来人が縄文人を圧倒したことは間違いありません。その後、同化したのは渡来人ではなく、縄文人であったはずです。ですから人種的にも、文化的にも縄文は吸収され、飲み込まれたとするのが自然です。
 さらに、その後も、数次に渡り、渡来人の波が押し寄せました。ヤマト政権の力が及んだ地域に、縄文は形を残さなかったでしょう。ならば、日本文化の出発は渡来人に由来することになります。人種的にも我々は朝鮮人と同根です。
 そこで、神道、神社の起源です。我々は縄文時代以来のアニミズムがその起源であると思ってきました。それが怪しくなります。どうも渡来人が神社を祭っているのです。祖先を祭る習俗は辰韓地域で紀元6年との記録があります。487年には神宮が造られています。その後、朝鮮半島では仏教伝来により神社を否定し、寺院に置き換わっていきます。
 私達はどうも大きな勘違いをし続けてきたようです。「日本は縄文人の子孫の国ではなく、渡来人の子孫の国である。」とすると、「帰化人」との言葉は論外ですが、渡来人も適切な言葉ではなくなります。日本人自らが己を渡来人と呼んだら、当時、日本人はいなかったことになってしまいますから。


 
犬が家畜になったきっかけは
 犬の祖先はオオカミよりも、ジャッカルが主流だそうです。ちなみに、日本では、すでに家畜化された犬が入ってきたと言います。日本オオカミは大型犬並みの体格をしていました。しかし、縄文人に埋葬された犬は柴犬ほどの大きさなのです。
 さて、家畜化のきっかけはどんな風だったのでしょうか?狩りをしている人間に気付いたジャッカルが、同じイノシシを追いかけるのです。そうこうしている内に、結果として、人間の手助けをしてしまうことになり、獲物の一部を投げ与えられた。同じようなことがまた起きる。分け前をもらうオオカミは尾っぽをフリフリ。その内に、人間を見ると尾っぽをフリフリちょんちょん。寄ってくる、付いてくる。ならば、一緒に居た方が便利だ。「分け前も、前もって与えよう」となり、家畜になった。どうでしょうか。
 犬の家畜化は、羊、馬、豚、牛などを家畜化する勢いをつけたと思われます。これらを集団として、人間がコントロールすることを犬が可能にしてくれたからです。そして、その後は、野生肉食獣から家畜を守る番犬にもなったのです。そうして一万年以上、ぼー君が利口なわけです。

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ぼー君は、昨日買ってきたボールを前に、ご機嫌で、夕食です。一つ一つが猪・鹿・蝶、いや狐に見えるのでしょう。
犬のお墓を造った縄文人
 縄文時代は、生きるに厳しい時代であったと習いました。15歳まで生きた人の平均寿命が30歳そこそこ。栄養不足で、成長が止まったことを示す線が足の骨に何本か刻まれている、等々。
 狩猟はその獲物を当てにしていたら餓えてしまうほどに、不安定な生産でした。しかし、煮だき用土器で、どんぐりが食糧になり、大分、安定しだしたようです。青森県三内丸山遺跡の発見は、縄文時代理解を変えました。数家族単位での移住生活というイメージは崩れました。数百人の村落に、長期間にわたる定住生活がされていたのです。ですから、相当に安定した、豊かな生活だったのでしょう。
 縄文時代の新文明と言ったら、もちろん、①土器、②弓矢 そして、晩期には③稲作があります。これより早く、イモ類の栽培がされていたことが分かってきました。しかし、もう一つ、忘れていけない事があります。それは・・・

 ・・・犬の家畜化、です。犬が家畜になることで、狩りの生産効率は上がりました。ブッシュマンにおける実例では、犬数匹と人間一人で行った狩りは、人間6人による狩りの三倍生産性が高いと言う結果が出ています。犬は縄文人の食生活と栄養摂取の向上に、多大な貢献をしていたと思われます。
 そのためでしょうか、縄文人は犬の墓を造っています。これは、単なる愛犬家であったからではないでしょう。生活のパートナー、なかんずく、協働者であったからではないでしょう。一方、現代の我々は愛の対象である犬、猫が死んでしまうと生ごみとして扱う行政に、異議を申し立てません。「愛玩動物」すなわち、「おもちゃ」だからいいのです(か)。
 
戦国を終わらせる大名の社会的条件 その③
 京都を中心に考えて、ここから遠いところも、近いところもその条件にありません。ならば中間地点ということになります。具体的には、現在の中国地方と中部地方です。そして、この見方通りに、愛知県に信長・秀吉・家康の三人が現れました。(中国地方では毛利氏が勢力を蓄えています)
 愛知県には広大な濃尾平野があります。こういうと、「日本一の平野は関東だ」といわれそうです。その通りです。二位が石狩平野、三位が濃尾平野です。しかし、、この時代、関東平野は未だ森林や荒野であったのです。大規模な新田開発は江戸時代に入ってからです。石狩はコメ生産していません。ならば、開発が進んだ最大規模の平野は濃尾平野であったとなります。三河ではすでに、綿花栽培が始まり、綿製品の手工業も動き出していました。国産力織機(綿織物機械)の製造から自動車生産に成長したトヨタが愛知県に生まれる歴史は戦国時代にさかのぼることができます。このように、経済的発達は畿内に劣りません。
 加えて、京都までの距離は、我々が思うほどに遠くないのです。東海道新幹線で東京から名古屋までが2時間、名古屋から京都までが50分かかります。だから遠く感じるのです。しかし、東海道線は大きく北へ迂回しています。そして、米原で南下するのです。信長が浅井・朝倉連合軍、毛利、延暦寺、石山本願寺などに包囲された時に、馬を走らせ数時間で、京都から岐阜に到着しています。直線距離を逃げ帰ったようです。
 さらに、荘園領主の支配は及ばない地域でした。領国形成も容易であったのです。三河や伊勢長島に一向一揆が発生しますが、農民の自治組織である惣の活動も畿内に比べるとその連携は未熟でした。
 ①京都に近い ②経済的先進地域に領地を持つ。③荘園領主の支配が及ばない地域 ④農民勢力が強くない
この条件を最も色濃く持っていたのが尾張・三河であったと言えます。信長・秀吉・家康の人間的才能・資質を生かす社会的条件が尾張三河にはあったのです。秀吉がその器が大きいと賞賛した伊達政宗が尾張三河に三十年早く生まれていたら、彼が天下を取ったかもしれません。同じようなことが、謙信や信玄にも言えることでしょう。
戦国を終わらせる大名の社会的条件 その②
 経済的先進地域であった畿内から、強力な大名が生まれなかったのはどうしてなのでしょうか。皮肉なことに、それは経済的先進地域という好条件ゆえなのです。
 経済的先進地域は、同時に、社会的先進地域でもあります。豊かさを作り出しているのは農民達です。彼らは、用水路を造り、農地を拡大してきました。乾田ですから、田から水を抜き、秋には麦を蒔くことが出来ました。この二毛作は鎌倉時代から始まっています。
 農業先進地域の関西の農民は、戦国期には、三毛作も始めます。その上、綿花、楮、藍などの商品作物の栽培と、これ等を原料とした手工業を興しました。こうして生まれた経済的豊かさと余裕は、農民達の経済的・生産的自立を確かなものにしました。領主に頼らずとも再生産が可能になったのです。これが社会的自立を促し、政治的発言力を増していきます。その力の根拠が「惣」という農民達の自治組織です。しかも、この惣が何十何百と連合する政治組織性を身につけたのです。領主も彼らの実力を無視しては、地域支配が出来ない所に追い込まれていました。それは、繰り返し起きた大規模な土一揆・国一揆が教えてくれます。
 このような中、大名が農村を支配することは大変困難なことです。農村に入り、実測を行うことが出来ず、確かな検地さえ出来ない状況にありました。当然、年貢徴収率は低下します。その他、段銭や夫役の徴収も思うに任せなくなります。
 加えて、畿内は貴族・寺社の本拠地です。彼らは荘園領主支配を維持していたのです。だから、畿内の大名は自らの一円支配を荘園領主に妨害され、領国を持ち得なかったのです。そして、下からの農民勢力には妥協しなければなりません。地域に、経済的豊かさ・富はあるのですが、それを大名に集中させる社会状況にはなかったのです。
 九州・関東以北は、政権を握るために、押さえなければならない京都に遠く、経済的後進性のために、強力な軍事力をもち得ない。畿内は京都が近く、経済的先進地域であるが、荘園領主・農民勢力が強いために、強力な領主権を打ち立てられない。では、全国統一をなしうる戦国大名が生まれる可能性が高い地方はどこだと言うのでしょうか。
 今日はここらで、ティータイムとさせていただきます。
戦国を終わらせる大名の社会的条件 その①
 戦国時代は、明治維新期と並んで、人々の歴史的関心を集める力を持っています。確かに、多くの個性豊かな人物が多数現れ、事態を変えてゆく様子には凄みがあり、わくわくさせられます。
 戦国の世を終わらせた武将三人(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)が、なぜ、愛知県出身であったのかも興味深いテーマの一つです。若い時から一緒に戦ってきた三人が順番に政権を担当したんだ、それだけのことなんだと漠然と理解してきたように思います。しかし、さすがに、それではあまりに説明が雑で不安を感じるというものです
 戦国を終わらせる大名の条件に「人間的能力」を考える人は多いでしょう。それを比較検討することも楽しいものです。ならば、、織田信長が一目置いた上杉謙信や武田信玄は人間力において申し分ありません。信長は彼らの抜きん出た統率力、作戦能力、勇気・気迫を恐れたのでしょう。しかし、彼らは全国統一を成し遂げられませんでした。それは「京都まで遠すぎたから」と言う説明があります。確かにそうでしょう。しかし、それだけでしょうか。
 大名の軍事力を大将の人間力だけで推し測ってはいけないのです。今でも、軍事大国は経済大国です。領国が経済的に発達し、豊かでなくてはなりません。当時の先進地域は畿内といわれた地域、特には、現在の大阪府、京都府南部、奈良県北部、兵庫県南東部です。武田も上杉も経済的先進地域ではなかった、これが致命的ではないでしょうか。しかし、もしそうならば、疑問が生まれます。「なぜ、畿内から統一者が出なかったのか」。
 お風呂に入りますので、残りはまた後にします。実は、食後で眠いのです。


 
明治に死刑廃止思想あり
 日本史検定を受けるために勉強しているある時に、明治憲法制定の単元で、植木枝盛作「東洋大日本国国憲按」(1881年)の史料を目にしました。
 彼は板垣退助率いる自由党の論客ですから、フランス啓蒙思想の影響を強く受けていることは知っていました。著作に「民権自由論」と言うのがあるだけでも予想が出来る思想家です。
 史料を順に読んでゆくと「なに」と思わせる条文に出っくわしたのです。  45条 日本の人民は何等も罪ありといえども生命を奪われざるべし  これは、どう読んでも「死刑廃止」を謳いあげています。現在、ヨーロッパを中心に死刑を廃止している国は多くあります。しかし、1881年の段階で、死刑廃止を採用している国はあったのでしょうか。
 こんなに重要なことに気付かず、30年以上も社会科の教師をしていたことを恥じました。まだまだ、学ばなければならないことがいくらでもあることも思い知らされもしました。もっともっと勉強してから教壇に上がるべきでした。そう思うと同時に、これから勉強を重ね、充分な準備をした上で、もう一度、授業がしたい気持ちも湧いていることに気付きもするのです。
殉死の禁止統治者の真意は
 徳川三代将軍、家光が亡くなったのは1651年です。その直後、老中堀田正盛・阿部重次他側近の者が殉死しました。その前、1636年、伊達政宗が亡くなった際、殉死者が15人、その殉死のためにさらに、5人が殉死したことがあったといいます。森鴎外作「阿部一族」は熊本藩主細川忠利の死にまつわる殉死を扱っています。 殉死は、武士世界の価値観に属し、美風と見なす空気があったのです。
 四代将軍家綱は殉死を無益なことと否定したのみならず、罰しました。そして、主人の死後は殉死することなく、跡継ぎの新しい主人に奉公することを求めたのです。これを聞くと、私達は近代的な合理主義や個人主義の教養から、「そうだ、その通りだ」と家綱に拍手を送るのです。しかし、家綱にはもっと深遠な意図があったのです。
 それまで、武士は主人個人に奉公するという意識が強かったのです。それを家に奉公する忠誠を誓わせる、そのように変えたかったのです。これを実現することによって、戦国時代の「下克上」の可能性を無にしたかったのです。その証拠に、家綱は、いままで、将軍との個人的な関係から、その都度、領有を認める「領知宛行状」を渡してきたのをやめて、一度にまとめてすべての大名に交付する形を採ったのです。幕府が藩に領有を認める形にしたのです。
 政治支配には形式がいかに重い意味を持つかと言うことを教えられます。そして、統治者が深遠な意図、たくらみを持って手を打つのかそのしたたかさを見せ付けられます。そうでないと強力な長期の支配はできないのでしょう。私は、やはり、非政治的人間だと教えられます。